006.英雄は食事をしない?
前回の救国の英雄へのインタビューから三週間後。
カリストリア聖王国の聖王教会、荘厳な正面入り口の前で私は一人、きょろきょろと周囲を見回していた。今日は救国の英雄へのインタビューの日。待ち合わせ時間より少し早く着いたせいもあるけど、馬車の姿がどこにも見当たらない。
初回のインタビューでは編集長まで引き摺り出して挨拶に行ったが、ヴァリク様が仰々しい対応を苦手としているため、今後は一人で取材をすることになったのだ。何か粗相をしたら……という心配は、正直あまりない。むしろヴァリク様の方が、何というか、心配になるような雰囲気がある。
「えーっと……今日の迎えは聖騎士さんが来るって話だったけど、どうなってるのかな?」
大きな門を眺めながら独り言を漏らしていると、白い磨かれた石畳の上を馬が駆けてくるのが見えた。その馬の背には、若い聖騎士の姿──兜は被っておらず、頭部が露わになっている。毛先がくるくると巻いた黒髪。肌は色黒で、その顔には朗らかな笑顔を浮かべている。どことなく人懐っこい雰囲気の少年と青年の間くらいの男だ。馬を私の目の前でぴたりと止めると、その聖騎士は軽く片手を挙げて挨拶してきた。
「お疲れさまです! 今日の迎え担当のユアンっす! お待たせしました!」
「えっ……あ、はい。ロベリアです。よろしくお願いします……でも、これ、馬?」
思わず目の前の馬を指差してしまう。前回と同じように、馬車での迎えを想像していた私は、何をどうやって向かうのか頭に思い浮かべることが出来ずに慌ててしまう。
「そっす! 馬車を出すのが面倒だったんで、この子で来ました!」
ユアン──どうやら本当にこの青年が今日の迎えの聖騎士らしい──は、屈託のない笑顔でそう言い放つ。私はその一言に固まった。
「ええーっ!? いやいや、待ってください! これどうやって行くんですか?」
「そりゃあ、後ろに乗ってもらう感じで!」
「いや無理ですよ! 馬なんて乗ったことないし!」
「大丈夫っすよ! オレ、しっかり支えますから! さ、どうぞ!」
そう言って彼は馬の横に手を差し出してくるが、私は慌てて後ずさった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 本当に無理ですって!」
「無理じゃないっすよ! オレが乗れるってことは、記者さんも乗れるってことっすよ!」
一体どんな理屈だ。そう思いながらも、ユアンさんは手際よく私を掴むと、力強く引っ張り上げて馬の背に乗せてしまった。驚きと緊張で体が硬直してしまう。
「ほら、しっかり掴まってくださいね。行きますよー!」
「いやいやいや、待っ──ぎゃあぁぁぁ!!」
私の叫び声を後目に、馬が元気よく走り出す。私は必死でユアンさんの腰にしがみついた。馬のリズムに合わせて上下する体に、慣れない恐怖と恥ずかしさが押し寄せる。
「速い! 速すぎます! これ大丈夫なんですか!?」
「余裕っすよ、この子ベテランなんで! ほら、気分を楽しんでみてください!」
「楽しめるわけないでしょーっ!!」
風を切る音に負けじと叫ぶ私を、ユアンさんはケラケラと笑いながら馬を進めていく。
──こうして私は、人生初の二人乗りで、ヴァリク様の邸宅へと向かうことになった。
◆
「死ぬかと思った」
ユアンさんの助けを借りて馬から降りた第一声として、出てきた言葉がそれだった。
「わははは! 大袈裟っすね!」
「女の子には優しくって、聞いたことないんですか!」
「オレの妹は喜んでたっすけどねぇ」
「それは、あなたの妹さんが特別なんですよ!」
私は息を切らしながら、ユアンさんの笑顔に突っ込む。地面にしっかり立てた安堵感と、この無茶苦茶な聖騎士への憤りで、心が忙しい。
「まあまあ、結果的に無事に着いたじゃないっすか。ほら、もうすぐヴァリク様のお家ですし」
そう言って、彼はのんきに歩き出す。以前通り抜けた時と同じ、高い吹き抜けの空間を通り、廊下を抜け、さらに奥の扉を抜ける。
その先には、以前見た時とほとんど変わりない、こぢんまりとした静かな邸宅があった。改めて眺めてみても、英雄の住まいというよりは、質素な庭師の家といった雰囲気だ。花壇の手入れが行き届いていて、建物自体もどこか暖かみがある。
「やっぱり、すごく地味ですね……」
口をついて出た感想に、ユアンさんがニヤリと笑う。
「でしょ? ヴァリク様って質素派なんすよ。派手な装飾とか全然興味ないみたいっすね。同じような服ばっか着てるし」
「それはそれで、英雄らしい気もしますけど……」
私が答え終える前に、玄関の扉がギィッと音を立てて開いた。そこに立っていたのは、ヴァリク様本人だった。今日は、ウールの布地に身体に沿ったキルティングがされた灰色の服を着ていた。確か、本来は甲冑の下に着るギャンベゾンといっただろうか。
「あ……お、お疲れ様です。遠路、よくいらっしゃいました」
口を引き結んで緊張した面持ちでお辞儀をするヴァリク様。大男の彼がこんなにも恐縮している姿を見るたびに、なんだか不思議な気持ちになる。
「あ、いえ。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます。あの……お忙しいところ、申し訳ありませんが、今日もお話をお聞かせいただければと……」
言葉を選びながら伝えると、ヴァリク様は少し赤くなりながらも頷いた。
「も、もちろんです。えっと……少し散らかっているかもしれませんが、中にどうぞ」
「ありがとうございます」
ユアンさんに背中を押されるようにして屋敷の中へ足を踏み入れる。玄関を抜けると、そこは以前訪れた時と変わらない様相であったが、隅に使い込まれた鞄が無造作に置かれているのが目に入った。
「あ、それ、オレのっす。この後、馬の世話してやったり、帰りに飯買ったりするんで、そこに置かせてもらってたっす」
私の肩越しに、私の視線の先を確認したらしいユアンさんが説明する。
「皆さんはここにはお住まいではないんですか?」
「ああ、えと……警護の為に交代で来ているだけで、住んでは……ないんです」
目を左右に泳がせながら、ヴァリク様が補足をしてくれた。聖騎士たちの待機室というか、休憩室のようなものはあるのだろうが、明確な居住はしていないだろうと推測する。
「まぁ、ヘンリーは結構泊まってってるっすけどね。あいつ、実家好きだけど周りが過保護でめんどくさいって愚痴ってましたから。ヴァリク様がやさしーからって、甘えすぎっすよね!」
わはははと声を上げ笑うユアンさんを見ながら思った。今まで出会った聖騎士の中で一番チャランポランで適当で、ヴァリク様に甘えている状態なのは、ユアンさんなのではないだろうかと。
床に適当に置かれた鞄を横目で観察して思い至る。先ほど、ヴァリク様が「少し散らかっているかもしれませんが」と言ったのは、今日はユアンさんがいるからなのだろう。
玄関からさらに奥へ進むと、以前と同じ広めの居間に通された。壁際に並ぶ木製の棚には、古びた本や草花の図鑑が整然と置かれ、窓から差し込む柔らかな光がそれらを優しく照らしていた。
「ど……どうぞ、お掛けになってください」
ヴァリク様が緊張した面持ちでソファーに案内してくれる。私は礼を言いながら腰を下ろした。その時、不意に居間の隅に立つ人影が目に入った。黒髪に鋭い眼差し──ダリオンさんだ。彼がこちらを無言で見つめていることに気づき、思わず背筋が伸びる。
(に、睨んでる! いたならなんか言ってよ……!)
心の中で呟きながら、私は警戒心を抱いた。彼の存在はどうにも圧が強い。彼が何かを言うのではないかと、身構えてしまう……が、彼が口を開くことはなかった。ちらりと私を一瞥すると、すぐに目を閉じてしまった。
そのダリオンさんを見て、ヴァリク様は苦笑いを浮かべている。
「ダリオンの事は……その、気にしないでください」
そう言って、困ったように眉尻を下げた。
ふと、話題を切り出すタイミングを計りながら、気になっていたことを思い出した。
「そういえば、ヴァリク様。普段どんな食事をされているんですか?」
私が尋ねると、彼は目を瞬かせて首を傾げた。
「え、普段……ですか? その、まあ普通に……」
どこか曖昧な返事に、私は少し言葉を足してみる。
「実は、巷で『英雄ヴァリク様は食事をしない』なんて噂が流れてるんですよ。ちょっと気になってしまって……」
私が笑いながらそう言うと、ヴァリク様は目を大きく見開き驚いていた。初めて見る反応に、私まで目を丸くしてしまう。
「しょ、食事をしない!? そんな、俺は普通に食べますけど……」
「ですよね。私もさすがにそれは嘘だろうと思ってました。……噂って面白いですよね」
「そ、そうなんですか……でも、俺が人間じゃないみたいな噂があるなんて……」
ヴァリク様は少しショックを受けた様子で、眉を寄せながら小声で呟いた。その姿がどこか不器用で、思わず微笑んでしまう。
「さっ! じゃあ、昼メシ作りましょうか!」
突如、明るい声で場の空気を切り替えたのはユアンさんだった。袖を捲り上げ、早速キッチンの方へ向かう勢いだ。
「ユアンさんが作るんですか?」
「もちろんっすよ! ロベリアさんも一緒にやりましょう!」
「…………………………え? 私もですか?」
私が止める間もなく、ユアンさんは軽快に動き始める。一方でヴァリク様は慌てた様子でユアンさんを制止しようとしていた。
「だ、だめだよ! か、彼女はお客様だし、そんな……」
「何言ってるんすか、ヴァリク様! 一緒に作るのが楽しいんですよ。ほら、ヘンリーもよく言ってたじゃないですか……ね!」
ユアンさんが茶目っ気たっぷりにウインクすると、ヴァリク様の顔が真っ赤になる。ヘンリーさん絡みで何かあったのだろう。
「……や、やられた……!」
額に手を当て俯いたヴァリク様が小声で呟いたのが聞こえ、私は内心でクスリと笑ってしまう。英雄らしからぬ彼の人間味は、何とも愛嬌がある。
「ふふふ、今日はインタビューに来たはずなんですけどね。でも、良いですよ」
私が肩をすくめて笑いながらそう言うと、ヴァリク様はさらに困った顔をしていたが、最終的には観念したようだった。和気あいあいと準備を進める中、部屋の隅に目を向けると、ダリオンさんがこちらをじっと見つめていることに気づいた。
(……げっ! また睨んでる!)
その視線の意図を測りかねて、私は内心で首を傾げた。何か言われるのではないかと警戒していると、彼は静かに胸に手を当て、一礼をするような仕草を見せた。そして、そのまま無言で部屋を出ていった。
意図の読めない行動に、私は首をひねるばかりだったが、答えは出そうになかった。部屋には料理の準備をする音と、ユアンさんの明るい声が響いている。妙に心地よい空間に浸りながら、私は深く考えるのをやめた。