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056.骨折は(一応)想定のうち

 独房の中で、ヴァリクは静かに膝を抱えていた。冷たい空気が肌にまとわりつき、時折聞こえる水滴の音が、独房の沈黙に不気味なリズムを刻んでいた。

 ロベリアさんから受け取った小さなメモ。それを何度も折り直しては握りしめる。文字数は少ないが、心に深く突き刺さる内容だった。胸の奥で何かが蠢くのを感じた。けれど、どうすればいいのか分からない。独房という冷たい現実が、それを無理だと否定する。


(……いや、何とかしなきゃ。手紙を書く方法でも、脱獄する方法でも、何か見つけないと……!)


 そう思うたびに、ヴァリクは狭い独房を行ったり来たりしていた。

 自分の記憶を掘り起こすように、これまでの経験や知識を振り返る。何か使えるものはないかと、室内の隅々を改めて見渡すのは何度目のことだろうか。


(……違う。こんなことで足りるはずがない)


 床に腰を下ろし、頭を抱え込む。焦りばかりが募り、全く前に進めない。

 ふと、メモを渡してきたロベリアさんの姿を思い出した。あの時、彼女は面会室の向こう側で何かを言い淀んでいるようにも見えた。だが、メモを口移しで渡しただけで、言葉には出来なかった。自分からも、ザフランのことや自分が掛けられていた認識阻害の魔術のこと等、誰かに相談したいことがあるのだ。

 ここを外に出て直接会話が出来れば済む話なのに。そう思った途端、自分の中で僅かな光が灯った。


(……外に出る……か)


 思いがけない考えに、自分で驚いた。脱出の計画など立てたこともない。だが、ロベリアさんが次に面会に来てくれたら、その言葉の端々からでも、何か手掛かりを掴めるかもしれない。




 そんな不確かな希望を抱えたまま過ごしていた数日後、独房の扉が重い音を立てて開いた。


「囚人、面会だ」


 聖騎士の声に、ヴァリクは思わず肩を跳ねさせた。唐突な呼び出しに胸が高鳴る。足枷が床を擦る音を耳にしながら、彼は面会室へと向かった。

 扉を抜けた先、薄暗い部屋の柵の向こうに、彼女の姿があった。


「ロベリアさん……」


 彼女の姿を目にした瞬間、胸の奥に溜まっていた感情が一気に押し寄せた。柵越しに立つ彼女の瞳には、あの時と同じような強い意志が宿っている。


「ヴァリク様……」


 ロベリアが静かに口を開く。その声にはどこか急いているような響きがあった。彼女が何を言おうとしているのか、ヴァリクは息を詰めて耳を傾けた。


「ヴァリク様、少しだけ聞いてほしいことがあります」


 ロベリアさんのその一言に、俺は小さく首を傾げた。彼女は一瞬だけ視線を泳がせ、何かを迷うようにしている。それでも、すぐにその瞳には強い意志が宿り、次の瞬間、はっきりとした声で言葉が紡がれた。


()()()()()()()()()()()()()()が無事に回復したんです。()()()()()()()()()()が助けてくれました」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中が真っ白になった。「安楽死」――「回避」。意味を理解するまでに、数秒の時間が必要だった。


「ダリオンが……無事……?」


 震える声で絞り出すと、ロベリアさんは力強く頷いた。その仕草には一切の迷いがなく、彼女の瞳には確信の光があった。


「ええ、助かりました。あなたに伝えたかったんです」


 短く簡潔なその言葉だったが、俺の胸の奥で、何かが大きく動き出す音がした。

 ダリオンが無事――ロベリアさんの言葉が俺の耳に届いた瞬間、その意味が頭の中で繋がった。「安楽死」という言葉に、ダリオンが処刑の対象だったのだと理解する。そして、それを「回避した」ということは――救出されたのだ。ライラによって。

 心臓が一瞬止まりそうになる。あのライラが、ダリオンを救い出した……。胸の奥で静かに渦巻いていた疑問や焦燥が、ひとつの確信に変わる。つまり、「パパ様を迎えに行く」が成功したんだ。

 ……何をやっていたんだ、俺は。

 ダリオンを守るためだと、自分に言い聞かせてここに座り込んでいた。でも、それで何を成し遂げた? ライラは動いた。彼女は救った。俺は何をしていた?

 血が逆流するような感覚に襲われる。ロベリアさんの目を見つめながら、俺は拳を握りしめた。熱い何かが胸の奥から湧き上がってくる。ダリオンが無事であるなら、俺がここにいる理由なんて、もうないじゃないか。


「……ありがとうございます」


 思わず口をついた言葉に、ロベリアさんが軽く首を傾げる。

 俺の中に渦巻いていた焦燥や無力感が、ぐらりと形を変えるのが分かった。これまで、ダリオンのことで負うべき責任があると思い込んでいた。俺が罪を背負い、ここで大人しくしていれば、せめて彼に危害が及ぶことはないと思い込んでいたのだ。

 でも、違ったのだ。彼はもう安全な場所にいる。俺の存在は、もう彼を守る理由にならない。


 だったら、俺は――。


 胸の奥に湧き上がる新たな感情を必死に押さえつけながら、俺は視線を柵越しのロベリアさんに向けた。彼女は静かにこちらを見つめている。

 このままじゃ駄目だ。この場所にいては、何も変わらない。ロベリアさんが俺にこのことを伝えに来てくれたのは、そういうことなんじゃないのか――?

 俺の手が自然と拳を握りしめた。どんな形であれ、今ここで動かなければならない気がした。


 ロベリアさんが俺を見つめる。その目に宿る何かが、いつもの彼女とは違う強い意志を感じさせた。その視線を受け止めながら、俺は思わず口を開いた。


「ロベリアさん……この柵、細いですよね」


 突然の自分の発言に、俺自身が驚いた。それでも、言葉は止まらなかった。ずっと心の中でくすぶっていた何かが、今まさに火を噴いたようだった。


「え……そんなことは無いと思いますよ……」


 ロベリアさんの困惑した返答に、俺は柵に手をかける。指先に伝わる冷たさが、一瞬だけ心を凍らせる。それでも、力を込めると、金属が軋む音が静かに響いた。


「……な、なんか……頑張れば、壊れませんかね」


 その一言を口にした瞬間、何かが弾けたような気がした。ロベリアさんの目が驚きに見開かれる。俺は柵を握りしめた。その冷たさが手のひらに食い込む感覚を確かめながら、一瞬だけ深呼吸をする。背後から聖騎士の声が響く。


「おい、何してる――」


 言葉が終わる前に、俺は振り返りざま手枷を振り上げた。時間がスローモーションになるような感覚。聖騎士の目が驚きに見開かれ、その瞬間、鉄の塊が横顔に衝突する。

 鈍い音が面会室に響き渡り、聖騎士が無言のまま崩れ落ちた。まるで糸が切れた人形のように。その姿を見下ろしながら、俺は手枷を握る手が震えているのに気づいた。


「ご、ごめんなさい……!」


 自分の声が小さく漏れる。それでも、今は立ち止まるわけにはいかない。


「ロベリアさん、少し下がってください!」


 声が震えるかと思ったが、不思議と安定していた。俺は再び柵に手をかけ、全力で力を込める。鉄柵は抵抗するかのように軋むが、それでも徐々に曲がり始めた。息が切れそうになるのをこらえながら、力をさらに込めた。そしてついに、派手な音を立てて柵が折れた。俺はその隙間に体を滑り込ませようとした――が。


「……狭い……っ!?」


 まさかの事態に、俺は思わず柵の間で動きを止めてしまった。引っかかった体が動かない。焦りが頭をよぎるが、ロベリアさんの声がそれを引き止めた。


「ヴァリク様、焦らないで! もう少し頑張ってください!」


 その言葉に、俺はもう一度力を込める。手枷を使って柵の端をさらに押し広げる。金属が再び悲鳴を上げ、ついに体が通り抜けた。床に倒れ込むように降り立つと、全身から汗が流れていた。肩で息をしながらも、俺はロベリアさんの方を向き、少し笑ってみせる。


「……あ、あはは……なんとかなりました……」


 肩で息をしながらも、俺はロベリアさんに視線を向けた。彼女は少し驚いたような顔をしていたが、その表情にはどこか安心した色も見えた。


「……ヴァリク様、大丈夫ですか?」

「ええ……なんとか……」


 口から出た言葉には力がなかったが、今はそれで十分だった。俺は手枷を軽く動かしながら、自分の手の震えがようやく収まったのを感じる。冷たい金属の感触が、まだ掌に張り付いているようだ。

 視線を落とすと、床には気絶した聖騎士が横たわっている。俺はその姿をじっと見つめた。あの人をここに置いていくのは――いや、それしか選択肢はない。


「ロベリアさん、行きますよ」


 決意を込めた言葉を口にしながら、俺は体勢を整え、窓の方へ目を向けた。朝の光が鮮やかに差し込み、街全体が目を覚まし始めているようだった。冷たい風が微かに吹き込んでくる中、静かな緊張感が辺りを包む。


 一瞬だけ、俺は振り返り、ロベリアさんに微笑んだ。その笑みはぎこちなくとも、今の俺にとっては精一杯のものだった。彼女のために、そして俺自身のために、この先を進むしかないのだ。


 窓枠に近づくと、太陽の光が街路に影を落とし、建物の輪郭がくっきりと浮かび上がっているのが見えた。高い位置から見下ろす地面は、あまりにも遠い。屋根の上にはところどころ鳩が群れを成しているのが見え、のどかな一日の始まりを告げるようだった。


「……高い……」


 呟いた声が、自分の耳にもしっかり届いた。足元を覗き込むと、落下する自分の姿が一瞬頭をよぎり、喉が無意識に乾く。どれほどの高さかは正確には分からないが、飛び降りて骨くらいで済めばマシなくらいはあるだろうか。

 冷たい風が髪を揺らし、頬に触れる。窓枠に置いた手には金属のひんやりとした感触が伝わる。それが妙に現実感を伴っていて、俺の決意をさらに固めた。深く息を吸い込み、胸の奥に湧き上がる恐怖を押し殺す。

 ここから建物内を駆け回って脱出というのは現実的とは思えない。俺は「失礼します」と一言告げ、ロベリアさんを抱き上げた。軽い――いや、力んでいて余計に軽く感じるのもあるだろう。この状況で彼女を守らなければならないという思いが、俺の腕に力を与えている。


「うわわ、こ、このまま、ここからですか? 本当に……行くんですか?」

「はい、飛び降ります!」


 ロベリアさんの小さな声に、俺は力を込めて答えた。今ここで止まるわけにはいかない。すぐにでもここを離脱しなければ、誰かが通りかかってしまうかもしれない。それだけは、絶対に嫌だった。

 窓枠に立つと、朝の陽射しが街路を照らし、建物の影が長く伸びているのが見えた。遠くに見える石畳の街路は、こんな高さからでは、ただの線のように細く見える。静まり返った街の空気が妙に冷たく、風が頬を撫でていくたび、胸の奥で鼓動が早まるのを感じた。


(……死に……はしないかな。骨くらいで済むと良いんだけど……)


 思わず、自分を鼓舞するように胸を張った。足元を見つめると、喉の奥がひりつくような感覚がよぎる。それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。

 ロベリアさんが不安そうにこちらを見つめるのを感じながら、俺は窓枠に片足をかけた。そして視線を前方へ向ける。


「行きます!」


 短い言葉に全てを込めて、俺は勢いよく窓枠を蹴り飛ばした。その瞬間、冷たい風が全身を包み込む。風圧が耳を打ち、視界がぶれる。地面が近づくのが恐ろしく速かった。

 ――そして。

 鈍い音と共に、俺の足に激しい衝撃が走った。まるで足元の骨が粉々に砕け散るような感覚。体中に響く痛みが、意識を引き裂くようだった。


「っつ……!」


 俺は思わず呻き声を漏らし、地面に膝をついた。ロベリアさんの手が俺の肩を掴む。


「ヴァリク様! 大丈夫ですか!?」


 彼女の声は心配に満ちていたが、俺にはうまく答える余裕がなかった。ただ必死に呼吸を整え、目の前の痛みに耐える。


「……だ、大丈夫……です……!」


 必死にそう答えながら、俺は自分の足を見下ろした。曲がるべきでない方向に曲がった足――だが、この身体なら治せるはずだ。俺は手を伸ばし、骨が元の位置に戻るよう強引に押し込む。鈍い音が何度も響き、痛みが全身を貫く。


「……よし……これで……」


 言いながら立ち上がろうとするが、足に力が入らない。まだ完全には治りきっていないのだろう。仕方なく、彼女を抱えて移動することは諦め、俺は彼女をそっと下ろす。早くこの窓の下からは離れたい。俺は両手を地面につき、四つん這いで移動を始めた。ロベリアさんを驚かせたくない気持ちもあったが、今の自分ではどうしようもなかった。


「ご……ごめんなさい、両足折れちゃって……」

「い、いえ、というか、ヴァリク様に無理させてしまって、本当にごめんなさい……!」


 そして、ロベリアさんの肩を借りるようにして、なんとか地面を這いながら近くの物陰へと向かった。体中から汗が流れ、息が荒れる。着地に失敗して両足を粉砕させて、地面を這って移動することになってしまうとは。地を這う自分の姿が、彼女の目にどう映っているのか……そんなことを考える余裕はないはずなのに、ふとした瞬間に頭をよぎる。情けない、こんな姿を見せたくはなかった。でも、今は彼女を守ることだけに集中しないと――。

 物陰に隠れ、俺は少しだけ顔を上げた。上空に目をやると、聖王国教会本部の壁が高くそびえ立っている。その重厚な石造りの建物は、俺たちが今どれほど危険な場所にいるのかを思い知らせてくる。上の階から窓がいくつか開いているのが見えるが、そこから何かの気配が感じられる。先程飛び降りた窓からは、まだ何の気配もしないように見える。

 周囲を見渡すが、追手がどこから現れるか分からない恐怖が胸を締め付ける。上空の窓からひとつでも影が見えたら――そう考えるたびに、体が硬直しそうになる。けれど、今は一歩でも早く動き出さなければならない。


(……追手に気付かれる前に、ここを抜け出さないと……)


 俺は息を整え、視線を巡らせた。周囲の状況を確認し、脱出のタイミングを見極める。頭の中でルートを思い描こうとするが、考えがまとまらない。ただ、動かなければならないという焦りだけが胸を占めていた。


「ヴァリク様、大丈夫ですか?」


 隣から聞こえるロベリアさんの声に、俺は頷いてみせた。痛みを堪えながら、無理に笑みを浮かべる。


「……だ、大丈夫です。すいません、すぐ治るので……気にしないでください……」


 その時、彼女が小さな声で問いかけてきた。


「ヴァリク様、なんでこんな思い切ったことを?」


 その言葉に、俺は一瞬戸惑った。けれど、すぐに心の中に浮かぶ答えがあった。

 俺は少し笑いながら、彼女に視線を向けた。


「……何でだろう……。ずっと、誰かの命令を聞くだけで、それが自分の選択だと思い込んでいたのかなって思いました。初めて、自分の意思で……反抗した気がします。出来るかもと思ったことはあったけど、自分から実行したことは無かったので、自分でもあまりよく分からなくて。でも、ちょっとだけ良い気分です」


 その言葉を口にした瞬間、何かが胸の奥で弾けるような感覚があった。今までの自分を振り返ると、ただ流されるばかりで、自分の意思で何かを選び取るなんてことはなかった。でも、今は違う。

 ロベリアさんは、目を見開いて俺を見つめていた。そして、数秒後――彼女は呆れたように、でも優しい笑みを浮かべた。


「ヴァリク様……本当に……もう……」


 ロベリアさんは呆れたように笑いながらも、目にはどこか安心した色が浮かんでいた。彼女の言葉の中には、少しだけ温かいものが混じっていた。俺の言葉がそんなにおかしかったのかもしれない。だけど、その笑顔を見て、俺も少しだけ気が緩んだ。

 俺たちは物陰で一息つきながら、上空を警戒し続けた。この場所で立ち止まるわけにはいかない。だけど、この短い休息の間、俺の胸には少しだけ温かいものが灯った。

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