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054.北の町へ

 これは、ダリオン殿の公開処刑を知った、その日の深夜のこと。

 扉を軽くノックすると、「入れ」と低い声が返ってきた。私は恐る恐る扉を開き、書斎に足を踏み入れる。

 聖王都に佇むヴァレンフォード家の屋敷。月光が窓から差し込む書斎の中で、兄上――農地卿(のうちきょう)アティカス・ヴァレンフォードが机に広げられた農地管理の書類に目を通していた。万年筆を走らせる音が静かな部屋に響く。その背中を見ながら、私は深く息を吸い込む。

 まるで喉に詰まった鉛の塊を無理やり飲み込むような心地だった。兄上の威厳ある背中は、私にとっていつだって壁のように高く、越えがたい存在だった。けれど、今日この時ばかりは、何としても声を届けなければならない。


「兄上……少しお時間をいただけますか?」


 私の声は緊張を隠せていなかった。兄上が万年筆を置き、椅子にもたれかかりながら私を見た。その鋭い眼差しが、胸を貫くようだった。


「どうしたのだ、我が愛しの弟よ。こんな時間に妙な頼み事でもするつもりか?」


 軽い冗談めいた口調だったが、兄上の目には探るような光が宿っていた。私は喉を一度鳴らし、意を決して口を開いた。


「兄上……ライラを、ダリオン殿の救出に向かわせたいのです」


 その言葉を聞いた瞬間、兄上の表情が硬直した。背中を真っ直ぐに伸ばし、椅子から立ち上がるその動作は、まるで嵐が近づく予兆のようだった。


「……何を言っているのだ?」


 静かだが鋭い声。兄上はゆっくりと歩み寄る。その一歩一歩が、書斎の静寂を鋭い刃のように切り裂いていくように感じられた。


「ダリオン? あの聖騎士のことか。我が弟よ、まだあの男のことで何かをする気か? ライラを使って……公開処刑を止めさせるとでも? 王の意志に反することを理解していての発言か?」

「……はい」


 私の返事に、兄上の目が険しくなる。


「愚か者が! 王を敵に回すという意味が分かっているのか! ヴァレンフォード家が築き上げた立場を、全てを失うことになるぞ!」


 怒りを込めた兄上の声に、胸が締め付けられる。だが、私は退くわけにはいかなかった。この胸の奥で燃える想いを、兄上に伝えなければならない。


「分かっております……。だからこそ、ヴァレンフォード家に迷惑をかけないために――私は家を出ます!」


 言葉が口をついて出る。兄上が目を見開き、驚愕と怒りの入り混じった表情を浮かべた。


「……家を出るだと? 何を馬鹿なことを……」

「兄上、私とライラが家にいれば、いずれ足がつきましょう。それだけは避けたいのです。私が家を出れば、責任は私一人に留まります。私はライラとダリオン殿の二人を護りながら、隠れ生きていけば良いのです。ユアンを頼れば、カリストリア聖王国を脱することも叶うことでしょう」


自分の声が震えているのが分かる。それでも、必死に言葉を絞り出した。


「これは、ヴァリク様への忠義……否、友情の証でもあるのです。私は、理不尽な采配で葬られようとしているダリオン殿を、どうしても見捨てることが出来ないのです。しかし、兄上やヴァレンフォード家に迷惑をかけることになる――ですので、私はヴァレンフォード家を出ます!」


兄上の目が険しさを増し、彼の拳が机を叩きつけるように置かれた。


「ならぬ!」


その怒声に、私は思わず息を呑んだ。兄上の瞳は怒りと失望、そしてどこか深い悲しみを湛えていた。しばらくの間、彼は何も言わず、ただじっと私を見つめていた。


「……ヘンリー、お前は……本当にそれでヴァレンフォード家を守れると思っているのか?」


低く落ち着いた声だったが、その響きには厳しい問いかけが含まれていた。私は返事ができず、視線を落とした。

兄上は深く息を吐き、再び椅子に座り直す。その仕草には怒りを抑え込もうとする意志が感じられた。


「家を出ることで問題が解決するとは限らん。むしろ、お前一人が背負い込めば、吾輩達家族の絆が崩れ、ヘンリーも孤立するだけだ。それが分からぬほど、愚かではないだろう」


兄上の言葉が胸に刺さる。私が返答に詰まる中、彼は言葉を続けた。


「ヘンリー、聞け。農地卿の肩書はただの飾りではない。吾輩達は、農夫たちや家臣、その家族たち……それだけでなく聖王国全ての民を飢えから守り、死から遠ざける責務を伴っている。……そのためなら、時に王を敵に回すことすら厭わぬ覚悟が必要なのだ」


兄上は一度間を置き、私の顔をじっと見据える。


「お前の覚悟は分かった。だが、その覚悟を家族の外で証明しようなどと考えるな。ヴァレンフォード家が一丸となって行動すれば、吾輩の愛しの弟一人で動くよりも、遥かに力となれるはずだ」

「兄上……?」


その言葉に、私は目を見開いた。兄上の視線は揺るぎない決意を宿していた。


「ヴァレンフォード家が守るべきは、聖王国教会でも王でもない。四十万の聖王国の民だ。広く、遍く、取りこぼすことのないよう、全ての民を飢えの苦しみから救うのが我々の責務である! だがしかし、聖王国教会も王も、民を守るどころか逆に害している有様ではないかッ! 挙句の果てには謂れのない公開処刑である! ……吾輩は現王がめちゃめちゃ嫌いであるが、何も八つ当たりのように嫌っているのではない」


 兄上の拳が机の上に置かれたまま、軽く震えているのが見えた。その目には怒りと悲しみが浮かび、私は息を呑む。


「……現王は、『王の器』に相応しくないと常々思っていたのだ。卿や側近に思うが儘に操られる現王と、あえて距離を置くことを決めた家臣は多い。それだけであれば、愚王と思いつつも従うことができたであろう。だが、ライラの件を聞いて気が変わった。……子を持つ親から、子供を引き剥がし……ぼろ布のように使い捨てる魔術実験など、吾輩は断じて許すことはできぬっ! 想像してみよ。吾輩の愛すべき農夫の子が、苦痛に泣き叫ぶ姿を! 誰にも看取られることなく死んでいく様を!」


 兄上の言葉が胸に突き刺さる。私が返答に詰まる中、兄上はゆっくりと椅子に座り直し、低く呟いた。


「ヘンリーよ……ヴァレンフォード家として、吾輩の農夫たちとその家族を守るため、吾輩は離反する」


 兄上のその言葉が耳に入った瞬間、全身が凍りついたように動けなくなった。胸が締め付けられるような感覚と同時に、兄上の瞳に宿る鋼のような決意が、私の心を震わせる。


「兄上、それは――」

「ヘンリーとライラの一件が原因ではない。以前から考えていたことなのである。……覚悟の上だ。吾輩は愛する吾輩の家族を守り、愛する吾輩の家臣を守り、愛する吾輩の農夫とその家族を守る。それが吾輩の使命であり、宿命である。そんな愛すべき者たちが暮らすこの王国が、腐敗し続けるのを、黙って見過ごすことなどできぬのだ。そんな王に従い続ける等、これ以上耐えられぬのだ」


 兄上の拳が机の上で固く握られる音が、私の耳に届く。私は思わず息を呑んだ。兄上の背筋はいつにも増して真っ直ぐで、その瞳には確かな炎が燃えていた。言葉の一つひとつが私の心に突き刺さり、胸の奥が熱くなっていく。


(兄上……これほどまでに深い怒りと、民への愛を抱えていたのか……)


 私の心は揺れ動く。兄上が語る愛すべき者たち――それはヴァレンフォード家の全ての人々を指していた。農夫も、その家族も、家臣も。兄上はその全てを抱え、己の信念を曲げずに生きているのだ。

 彼の言葉は、私の迷いを一瞬で打ち砕いた。これまで「家を出る」と決意し、孤独に戦う覚悟を固めたつもりだった。しかし、兄上の背中を見ていると、その孤独な選択がいかに浅はかであるかを痛感せざるを得なかった。

 兄上の声がさらに静かに響いた。それは、かえってその決意を強く感じさせるものだった。


「……今すぐ屋敷を畳む準備を始める。聖王都に留まる理由はもうない。我々は北の町に新たな拠点を築く」


 その言葉が部屋に広がった時、私はまるで天秤が大きく傾く瞬間を目撃したような気がした。ヴァレンフォード家という広大な畑が、新たな地で種を蒔き、芽吹こうとしている。その鍬を握り、土を耕す兄上の背中は、あまりにも大きく、力強かった。

 兄上の決断を前にして、私は言葉を失った。視界がぼやけるのは、目頭が熱くなっているせいだと気づく。私は震える唇を噛みしめ、兄上の横顔を見つめた。


「……分かりました。兄上の決断に従います」


 その言葉を絞り出すと、兄上は一瞬だけ微笑んだ。その微笑みは、これまで見たどんな表情とも違っていた。まるで、全てを悟りながらも、未来への希望を抱いているような、そんな不思議な強さを感じさせるものだった。

 その瞬間、私は心の底から思った。この人の弟で良かったと。この人の背中についていけることが、私にとってどれほどの誇りなのかを。



 ◆



 公開処刑の翌日、もぬけの殻となったヴァレンフォード家の屋敷に私は一時的に戻ってきた。既に使用人や必要な荷物は全て運び出されており、屋敷内には私とライラ、そしてダリオン殿だけが一時的に身を寄せていた。

 執事のシグルドは、北の町への移動を手配するため、まだ屋敷に残っている。私たちがここにいるのも束の間、すぐに出発の準備を終えて北へ向かうつもりだった。

 その時だった。廊下からシグルドの慌ただしい声が響いた。


「ヘンリー坊ちゃま、大変です! 殿下が……第二王子殿下がいらっしゃいました!」


 耳を疑った。第二王子が? 何故このタイミングで? 私の頭は瞬時に最悪の事態を想定した。現王の命を受けた追っ手だとすれば、私たちに逃げ場はない。だが、それにしては奇妙だった。護衛も連れず、ただ一人で来るなど――。


「分かった、書斎にお通ししてくれ」


 私は心の中の焦りを抑えつつ、書斎へと向かった。

 書斎の扉を開けると、フードを深く被った第二王子レオンハルト・アルデリック・カリストリアが、埃を払うこともなく残されていた椅子に腰掛けていた。その落ち着いた様子に、私の警戒は少しだけ和らぐ。だが、同時に新たな疑念が浮かぶ。殿下は、何が目的でここへ来たのであろうか。

 彼が羽織るフード付きのマントは姿を隠すためのものだろう。その下に身に着けているのは、特別な装飾のないシンプルなシャツと長めのブーツ。王子然とした華美な装いとは言い難い、どこか平民的な実用性を感じさせる服装だ。だが、ただの隠密行動というわけでもない。きっちりとアイロンがかけられた襟元と、指に光る一つの指輪が、彼がただの男ではないことを静かに主張しているようだった。


「ヘンリーと言ったか。なるほど……我も間抜けなものよ。まさか隠し玉を持った男だと見抜けぬとは」


 何故殿下が私の名を知っているのだろうか――その言葉に込められた意図が掴めず、私は立ち尽くした。彼は顔を上げ、フードの奥から鋭い視線を向けてきた。その目に宿る光は、ただ事ではないものを語っているようだった。


「殿下……一体、何のご用でしょうか?」


 私の問いに、彼は椅子に深くもたれかかり、口元に薄い微笑を浮かべた。


「貴様も公開処刑に立ち会ったのだろう? あの少女――ライラと言ったか。我も見ていたのだ、この目で」


 予想外の発言だった。私は返答に詰まり、僅かに息を呑む。


「……彼女に何のご用でしょうか?」

「単刀直入に言おう。我は、『魔術実験』について知っている。そして、典籍卿経由で、貴様がライラとやらを匿ったのも知った。そして、昨日の公開処刑での一件だ」

「そ、それは……」


 彼の鋭い視線を受けるたびに、全身に冷たい汗が滲む。だが、次の言葉は予想外だった。


「ヘンリーよ、よくやった。様々な小細工を考えていた我が馬鹿馬鹿しくなるほどの、素晴らしい立ち回りであった。闇を暴きたければ、光ある場所で暴れてしまえば良かったのだ」

「……えっ?」

「我は、この国の暗部を、父上の所業を太陽の元に晒し出してしまおうと思っていたのだ」


 殿下の言葉が持つ重みを噛み締めながら、私は返答を探すこともできずにいた。そして、彼の口から飛び出した次の提案が、私をさらなる動揺の渦に巻き込む。


「……農地卿らは、既に北の町に向かったか? 我も同行する」


 その言葉に、私は凍りついた。殿下が、離反を決めたヴァレンフォード家が待つ北へ? それはつまり、王位継承を巡る反乱を意味するのではないか。否、ヴァレンフォード家が急に静まったこと等、知れ渡っているはずがない。殿下は、どこでこれを察したのであろうか。


「殿下、それは……」


 その目は揺るぎない決意を湛えていた。私は動揺しながらも、第二王子殿下という協力な味方の出現にどこか安堵していた。しかし、離反を決めた兄上と、父親の悪行を表沙汰にしようとする第二王子殿下を引き合わせることが、良いことなのか判断がつかなかった。

 殿下はそれ以上何も言わず、立ち上がった。そこに、再びシグルドが駆け込んできた。


「ヘンリー坊ちゃま! 今度は、文典卿クラウス・グランディエ様がお見えに……!」


 私は動揺を隠せず、殿下に目を向ける。しかし、彼の表情は変わらず冷静で、深い思索の中にいるようだった。


「……通せ」


 殿下の静かな指示に、シグルドは一礼して足早に戻っていく。私たちは玄関へと向かい、そこでクラウス様を迎えた。

 玄関先で待っていたのは、息を切らしながら立ち尽くすクラウス様だった。その顔には焦燥と悲しみが浮かんでおり、目の奥には止められない何かを訴えるような光が宿っていた。


「殿下……どうか、お考え直しください。この行動はあまりにも危険です」


 彼の必死の訴えに、第二王子は一瞥を向けた。冷静な視線が、クラウス様の言葉を受け止めながらも、何も揺るがさないという意志を示している。


「クラウスよ。卿の忠告には感謝する。しかし、我が決意は揺るがぬ」


 殿下の声は穏やかでありながら、その裏には鋼の意志が感じられた。クラウス様は眉を寄せ、もう一歩踏み込むように声を上げる。


「ですが、殿下……この道を選べば、後戻りはできません。現王と対立することは、民を巻き込むことにも繋がります。それでもなお、進むおつもりですか?」


 その問いに、殿下はわずかに微笑み、静かに頷いた。


「我は既に動き出している。貴殿も貴殿の信じる正義に従って動くが良い」


 クラウス様がもう一言口を開こうとしたが、殿下は彼に背を向け、馬車へと向かう。私も慌ててライラとダリオンを促し、後に続いた。

 馬車の前で立ち止まると、殿下はクラウス様に最後の言葉を投げかけた。


「……クラウスよ、世話になった」


 その言葉は驚くほど静かで、どこか寂しさを孕んでいた。クラウス様の目が揺れるのを、私は横目に見た。


 殿下が馬車に乗り込むのを確認し、私もライラとダリオンを手招きして馬車の中へ入った。ライラが躊躇いがちに乗り込むと、ダリオンはゆっくりとその後を追った。私は最後に振り返り、玄関先に立ち尽くすクラウス様の姿を目に焼き付けた。

 馬車がゆっくりと動き出す。軋む車輪の音と共に、聖王都の石畳が次第に遠ざかる。窓越しに広がる景色を眺めながら、私の胸には複雑な感情が渦巻いていた。


(これで良かったのだろうか……)


 その問いが胸を締め付ける。だが、振り返ることはもうできない。馬車は新たな道を進み始めていた。

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