053.瓦礫の中の救済
五日後。
広場には張り詰めた空気が漂っていた。夕刻の赤みがかった空の下、処刑台が中央に据えられ、民衆たちはその周りを取り囲んでいる。私と殿下は、侍女服を着て変装し、群衆の中に紛れ込んでいた。
ここへ到着する前の殿下は、いつもの唇がぽってりとした少女の仮面を着けようとして、その手を止めて仮面を机に置いた。その代わりにマントを羽織り、そのフードを目深に被った。どういう意味か図りかねたが、殿下のその儀式めいた行いを、クラウス様も私も咎めることは出来なかった。
ざわざわと落ち着きのない民衆の声に取り囲まれている。しかし、私の耳にはほとんど届いていなかった。
ダリオンは絞首台の前に立たされていた。首に縄が掛けられたまま、両腕は後ろに縛られている。その足元には一段高くなった台座が置かれ、そこに足を乗せて静かに立ち尽くしている。広場全体を覆う冷たい空気の中、彼の背中は小さく震えていた。
深く俯いた彼の表情は見えない。しかし、その肩がかすかに上下しているのが分かる。彼が何を考えているのかは想像するしかなかった。恐怖か、怒りか、それとも諦めか――どれも、彼をここに立たせるには十分すぎる理由だろう。
背後に控える聖騎士たちは、無表情で周囲を睨んでいる。その静寂が不気味で、全てが冷たく無機質に思えた。私は広場の端からその光景を見つめるしかなかった。
(どうして、こんなことに……!)
怒りとも悲しみともつかない感情が胸を渦巻き、拳が自然と固く握られる。だが、この場で動けば、私も捕らえられるだけだ。それは分かっている。今は動くべき時ではない。
「……貴様が言っていたライラという少女は、あの男を慕っていたのだったか?」
隣で冷静に周囲を観察していた第二王子が、小声で問いかけてきた。
「……はい。父親のように思っていたみたいです」
「……そうか」
殿下の返事は、ほとんど聞こえない程に小さく、沈痛な思いをその声色に滲ませていた。
ふと、処刑台の近くで人々がざわつき始めた。その視線を集めるのは、フードを深く被った一人の少女だった。そのフードから白く長い髪が二束、風になびいていた。その髪の先は、儀式のリボンのように美しく結ばれている。その少女がゆっくりと処刑台へ歩み寄っていく。迷いのないその足取りに気圧されたのか、人垣が徐々に徐々に亀裂を深めていく。
全身が見えたその時、少女の手がようやく見えた。右手に斧を引き摺り、左手には銀色に光る短い槍を手にしていた。
(ライラ……?)
心の中で彼女の名を呼びながら、その姿を見つめる。胸が騒ぎ立つ。何をしているのか、何をしようとしているのか。第二王子もその姿に気づき、興味深げに眉を上げる。
「……まさか、あれか? 何をしようとしている?」
ライラが右手に持つ斧は、その大きさと異質さからただの武器ではないことを容易に感じさせた。
「止まれ!」
ライラの接近に気付いた聖騎士の一人が声をあげるが、彼女はまるで聞こえていない様子だ。壇上のすぐ目の前で足を止めると、そこでやっと顔を上げた。
聖騎士の一人がライラに駆け寄ろうとしたその瞬間、ライラはフードを跳ね上げ、顔を露わにする。左手にあるその槍を――呪いの道具のようなそれを、くるっと半回転させた後、刃の側を自らの額の前でピタリと止めた。
「ああああ……やっぱり、痛い……痛いは嫌い。嫌になる。痛いは辛い。でもっ!」
彼女はその槍をゆっくりと自分の額に押し当て、ずぶずぶと頭蓋へ侵入させていく。血と透明な体液が混ざったものが噴き出し、彼女の白い髪を淡い赤色に染めていく。そんな彼女の奇行に、群衆からも壇上の聖騎士からも悲鳴が上がる。
「でも、この『痛い』のおかげで、パパ様を迎えに来れた!」
残りの槍の長さが手のひら大になった時、蕾が花開くように、魔術で構成された光がライラの後頭部に浮かび上がった。
――そして、群衆は眼前で目撃することになったのだ。英雄とは違うシルエットの、英雄と同じ光の羽根を背中に広げる少女の姿を。映写魔法で何度も目にした、「救国の英雄」その人と、そっくりな姿をしたその少女を。
「百億回でも、二百億回でも! 千億回でもっ! 何度でも迎えに行く!」
彼女はそう叫ぶと、血に塗れたその瞳で壇上を鋭く睨みつけた。額に突き立った槍から滲む魔力が、まるで彼女のシルエットを覆うように揺らめき、周囲に異様な圧力を放っている。ライラは一瞬その場に低く身を沈めたかと思うと、右手に握った斧を構えた。その動きは、まるで獣が獲物に襲いかかる寸前のような静かな緊張感を漂わせている。
深呼吸をひとつ――その瞬間、彼女の全身が淡く発光した。斧を振りかぶり、彼女は信じられないほどの跳躍を見せた。まるで空そのものを引き裂くかのように、斧が彼女を高く空中へと運ぶ。飛び上がるその姿に、聖騎士たちは一瞬視線を奪われた。
「囲め! 落下地点を抑えろ!」
一人の声が響く中、聖騎士たちが一斉に剣を抜き、彼女の落下地点を予測して陣形を組む。だが、その次の瞬間、斧の刃が空を裂く音とともに振り下ろされた。
轟音が周囲に轟き、斧が壇上に叩きつけられると、爆発的な衝撃波が周囲へと放たれた。まるで大地そのものが叫びを上げたかのように土埃が立ち昇り、聖騎士たちの一部をその場で吹き飛ばすか、膝をついて転倒させるかして、公開処刑の舞台そのものに大きな亀裂が入る。
「なんだ……この力は……!」
崩れるように倒れ込んだ聖騎士たちが驚愕の表情を浮かべる中、立ち上がる者の前にライラが歩み寄る。彼女は斧を軽く振り上げ、柄の部分を構えると、瞬く間に次の標的に向かって突進した。その動きは速さと重さが完璧に調和したもので、斧の柄が敵の剣を弾き、体勢を崩させた。しかし、彼女は斧で聖騎士を一人ずつ薙ぎ払い壇上から叩き落しはするが、その刃を向けることはなかった。一人一人、まるでこの舞台には相応しくないとでも言うかのように、半壊した壇上から落下させていく。
「うわああああ!」
聖騎士たちの叫びが上がる。ライラはその声に耳を貸すことなく、鋭い眼差しで次々と役者を見据えていく。そのたびに斧の柄が正確に突き刺さるような一撃で彼らを吹き飛ばし、その体勢を崩す。彼女の動きには一切の躊躇いも迷いもなく、まるで炎が風に煽られるように前へ進んでいった。
振り下ろされた斧が聖騎士の剣を砕き、そのまま柄で相手を突き飛ばす。その様子はまるで踊るように美しく、それでいて圧倒的だった。
(ライラ……なんて力……)
私は息を呑んでその光景を見つめるしかなかった。彼女が聖騎士の命を奪わないように立ち回っていることは明白だった。それでも、その力の凄まじさに誰も近寄ることができない。
絞首台の目の前では、ダリオンが身動きできずにいる。ライラは聖騎士たちを蹴散らしながら、ついにダリオンの目の前に立った。そして、手にした斧を振り上げる。
「やめろ! これは神聖なる儀式だ!」
と聖騎士の一人が叫ぶが、ライラはそれに耳を貸さない。
斧が振り下ろされる刹那、空気が切り裂かれる鋭い音が耳を貫いた。絞首台の支柱に衝撃的な一撃が叩き込まれると、木材が弾け飛び、破片が四方に散る。地面に響き渡る轟音とともに、絞首台全体がぐらりと揺れた。
わずかな沈黙の後、支柱が耐え切れず崩れ落ちる。台全体が軋むような悲鳴を上げながら傾き、次の瞬間には重力に従って崩壊していく。舞い上がる埃と砕け散る木片。その中で、ダリオンの身体が崩れ落ちる絞首台と共に壇上の床へと投げ出された。
「パパ様ぁ!」
視界が晴れると、そこには瓦礫の中で斧を構えたライラの姿があった。彼女の額には槍が刺さったまま、全身から怒りがほとばしるような気迫を放っていた。その目には覚悟と決意が宿り、まっすぐダリオンを見つめていた。
ダリオンもまた、驚愕の表情でライラを見つめていた。その瞳には戸惑いと安堵が入り混じり、何かを言おうとしているようだった。
「パパ様……遅くなってごめんね。迎えに来たんだよ」
ライラのその声には震えも迷いもなく、彼女の中に燃え盛る感情を静かに伝えていた。
崩れた絞首台の中央で、ライラはダリオンを優しく抱きしめた。瓦礫に埋もれかけていた彼の身体をそっと引き寄せ、その肩を抱きしめる手には微かに震えが見える。それでも彼女の表情は穏やかで、どこか安堵したような笑みを浮かべていた。
「パパ様……ごめんね……痛かったよね……」
ライラの小さな声は、瓦礫の間を通り抜けて微かに響いた。彼女の額には未だ刺さったままの槍があるが、それを気にする様子もなく、ただダリオンを包み込むように抱きしめている。その場に崩れるように座り込んだダリオンは、まるで全ての力を失ったかのように呆然としていた。彼の目は虚ろで、口元が小さく震えている。あまりに突然の出来事に、何も言葉が出てこないのだろう。
「ライラ……なのか……?」
ようやく搾り出すように言葉を紡いだ彼の声は、弱々しいものだった。そんなダリオンの問いに、ライラは顔を上げて笑みを浮かべる。
「うん、ライラだよ!」
その瞬間、ロベリアの背筋に冷たいものが走った。隣にいる第二王子――レオンハルト殿下に目を向けた。彼は崩れた絞首台を見つめていたが、その表情はいつもの冷静なものではなかった。彼の唇がわずかに上がった。その笑みには喜びとも嘲りともつかない不気味な感情が宿っており、見ている私の心に冷たい恐怖を刻み込んだ。
(殿下……?)
思わず、驚愕に目を見開く。殿下が何を考えているのかまでは分からない。しかし、ただの驚きや動揺ではないことは明らかだった。むしろ、何故こんなにも凶悪に顔を歪ませるのか――私にはその理由が全く分からなかった。ただ、普段の第二王子の姿とはあまりにかけ離れていて、その笑みを目にした瞬間、胸に冷たい恐怖が広がるのを感じた。
しかし、私の考えを中断させたのは、ライラの行動だった。ライラは瓦礫の中からダリオンをそっと抱き上げた。その動作は驚くほど優しく、それでいて強い意志を感じさせた。彼女の腕の中に抱えられたダリオンは、ただ呆然とした目で彼女を見上げていた。
「行こう! パパ様、わたしが守るから!」
ライラは勢いよく立ち上がると、そのまま瓦礫を踏み越えて駆け出した。
「あははははっ! パパ様生きてた! 迎えに来れたぁ!」
喜びに満ちた声が広場に響き渡る。その足取りは踊るように軽やかだった。ライラの笑い声が混乱した広場の空気を切り裂き、彼女の強い感情が周囲の空気を支配していく。
「誰か止めろ!」
聖騎士たちの怒声が響くが、誰も彼女を止めることはできなかった。崩れた瓦礫や倒れた聖騎士たちを器用に避けながら、彼女はダリオンを抱えたまま迷いなく突き進む。ライラの無邪気に響くその笑い声は、この場の全てを否定し、覆そうとする純粋な強さに満ちているようにさえ感じられた。
私はその光景を呆然と見つめていた。何がどうなっているのか、その全てが現実感を欠いているようだった。視線の端では、既に第二王子が冷静な表情を取り戻しているのが見えた。だが、その目の奥にはまだ、深い思惑が渦巻いているように見えた。それに気づいた瞬間、私の胸には説明しようのない不安が広がった。
ライラが走り去るその背中を見送りながら、私はふと胸の奥に確かな決意が芽生えるのを感じた。
ダリオンが――生き延びた。この事実を、必ずヴァリク様に伝えなければならない。この命の繋がりを知れば、きっとヴァリク様も救われるに違いない。
私の中に湧き上がる強い思いが、そう確信させていた。




