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052.ライラの世界

 わたしの知る世界は、きっと狭かったのだと思う。パパ様はいつも言っていた。いつか、外に出れる日が来たら、ライラを連れて海を見せてあげるって。わたしは、海がどんなものかよく分からない。水がたくさんあるということは分かった。でも、それってどういうこと?


「見えるところが全部、海水なんだよ」


 ヴァリクが右手を水平に動かしながら言う。床と並行に引かれるその線の意味はよく分からなかった。


「それって、こういうこと?」


 そう言って手にしたコップの水を床に流すと、ヴァリクが困ったような顔になって頬を指で掻いた。ヴァリクは話が下手だから、ヴァリクから海の説明を聞いてもよく分からなかった。

 フィオナとかセシルとかヴァネッサとか、他の人からも説明されたけど、よく分からなかった。


 前の「手術」から何日かは、経過観察の時間だからパパ様が毎日来た。パパ様はいつも、こっそり絵本を持ち込んで字を教えたり、足し算を教えたりしてくれた。足し算は嫌いだけど、パパ様と一緒にいられるから、わたしはこの時間が好きだった。

 パパ様は多分、無口な人だ。でも、優しい人なのを知っている。

 一番昔の記憶。何かの手術の後だったんだと思うけど、頭が痛くて泣きながら目を覚ました。そしたら、目の前に男の人がいた。その人は、苦しそうな顔をして、目に涙をいっぱいに溜めていた。この人もどこかが痛いのかもしれない。そう思って手を伸ばしてその髭のある顔を撫でたら、もっと泣いてしまった。それがパパ様だった。


 ダリオン様という名前なのはその後知った。小さい頃に読んでくれた絵本の中に、家族で海に遊びに行く話があった。家族が何なのかよく分からなかったけど、兄妹というのがヴァリクとかユリウスとかザフランとかのことで、パパというのがダリオン様なんだと思った。だから、パパって呼んだら怒られた。とても悲しそうな顔だったから、「様」が無くて悲しんでいるんだと思って、ダリオン様とパパをくっつけて「パパ様」と呼ぶことにした。




 そんなパパ様が、みんなを逃がそうとした時、ヴァリクがパパ様を殺したのを見た。

 絶対に見たって言ったけど、誰も信じてくれなかった。ヴァリクがそんなことするわけないって言われた。ユリウスが、ヴァリクとパパ様が生きてはいたと思うって言って、それで話は終わった。それより、いなくなったヴァネッサを探さなくちゃいけないって、大騒ぎになった。珍しく、オスカーが顔を真っ青にしてガタガタ震えてた。


 だから、みんなとここで別れて、一人で山脈沿いをずっと端まで歩いて、途切れているところがないか探しながら歩いた。元の場所に戻って、パパ様を殺したヴァリクに、なんで殺したのか聞こうと思った。でも、何日も歩いたのに山脈が途切れる場所はなくて、だんだん森が無くなって、砂っぽくなって、目の前に大量の水が表れた。ヴァリクが右手を水平に動かしていた意味がようやく分かった。海は平らだった。

 ここにパパ様と来たかったって思ったら、涙がぽろぽろ溢れてきて、そこで一晩中泣いた。

 朝日が出て来て、海の上には山脈がないことに気付いて、ここをぐるっと回り込めば元の場所に戻れるかもしれないと思って、ざぶざぶと水を進んでいった。でも、足がつかないくらい深いとは思わなかった。気がついたら元の場所に戻ることができなくなってて、そのまま流されていくしかなくなった。

 最初は浮き方が分からなくて、何度も心臓が止まった。ごはんも食べれなくて、海の水はしょっぱくて飲めなくて、どんどんガリガリに細くなっていったけど、死なないから気にしなかった。何度か気絶しながら、あちこちに漂着して、そこでしばらく過ごして、また流されて、時々知らない人に助けてもらって、そうやって辿り着いた。

 そしたら、パパ様は無事だった。ヴァリクがドジなだけだった。

 みんなが言っていた通りだったから、ちょっと反省した。あと、ヴァリクはいつも雑魚そうだったのに強かった。




 そんな、昔の夢を見た。今では、もう少し旅のやり方も分かるようになったと思う。最初の二年くらいは、本当に酷いものだった。地図というものを知らなかったから、漂着したわたしを拾ってくれた人に教えてもらって、それで初めて知った。それでも見方が分からなかったから、何度も何度も説明されて、ようやく鳥みたいに上から見た様子だと分かった。

 その地図の中には、元居た国は描いてなかった。ユリウスたちと越えた山を指差して、この向こうは何? と聞いてみたけど、海なんじゃないかと言われた。


 ヘンリーに保護されてからというもの、昔の話をすることが多くなった。そのせいか、うたた寝をすると昔の夢を見ることが増えた。

 北の町から馬車で戻る途中、広間でヘンリーが立札から何かを引き剝がしていた。でも、それが何かを聞いてみたら、教えてもらえなかった。大したことじゃなかったのかもしれない。

 辺りがすっかり暗くなって、うとうとしてしまった。だからか、わたしはつい眠ってしまったのだ。




 馬車が止まった気配がして、ふと目を開ける。顔を上げると、ヘンリーがわたしの顔を覗き込んでいて、目が合った。


「着いたの?」


 ヘンリーに訊ねると、目を逸らされた。何か言いにくいことがある時の、みんなの姿を思い出す。


「何か隠してる?」


 そう聞くと、ヘンリーが顔を青くした。

 屋敷に入ると、ヘンリーの家の侍女さんとかが、動きやすい服に着替えさせてくれた。場所によって何回も着替えるのは何故だろうと思っていたけれど、お腹を締めない服とお腹をギチギチに締める服があって、家でゆっくり過ごす時には締めない服の方が良いのだと分かった。

 着替えが終わったら、ヘンリーに呼び出された。部屋に行くと、怖い顔をしたヘンリーがソファーに座っていた。


「ライラ、君に伝えなくてはならないことがある」

「あ? なに?」

「ダリオン殿の――」


 パパ様の名前が出て、思わず笑顔になった。でも、その後の言葉で時間が止まった。


「ダリオン殿の、処刑が発表された」

「……あ?」


 嫌な予感が身体全部を蝕む。

 処刑って何だろう? 処分という言葉なら知っている。被検体が殺される意味だ。


「パパ様が、何?」

「処刑だ。殺されてしまうのだ」


 目の前が真っ白になった。わたしたちを逃がそうとしただけのパパ様が、何故殺されるのかよく分からない。


「……なんで?」

「表向きは聖王国教会に対する冒涜罪……となっているが、おそらくはヴァリク様を街に遊びに行かせた際の……否、その場合は私たちが対象であるはずだから、おそらくはダリオン殿の過去の行いの為か……」

「だ、だったら、その時に処分なんじゃないの? なんで今処分なの?」

「詳しい理由は分からない。だが、処刑の告知があったのだ」


 ヘンリーがくしゃくしゃになった紙を見せてくる。それを受け取って見てみると、冒涜的……とか、色々書いてあってよく分からなかった。けれど、「絞首による公開処刑」という言葉だけは分かった。

 首を絞めるってことは、普通は死んじゃうはず。


「なんで?」

「そ、それは……」

「ねえ、なんで? わたし、馬鹿だから分かんない。おねがい、ちゃんと説明して」

「ヴァリク様が、ダリオン殿を庇っていたと言っていたではないか。それが理由だと……」


 分かんない。どうしよう。どうして、パパ様が処分になるんだろう。実験の後はいつも痛いになる。今は痛いにならないはずなのに、心臓がぎゅっと握りしめられたみたいに痛い。


「……ヴァリク様と、市街地で戦闘をしただろう? それが引き金であるとは思う」

「……なんで……?」

「それは……私がヴァリク様を市街地に」

「じゃあ、ヘンリーがパパ様殺すの? 違うよね? じゃあ──」


 ヘンリーが泣きそうな顔になった。分かんない。分かんないよ。わたしは馬鹿だから、自分の行動で何がどうなるかなんて考えたことがないし、誰の行動で物事がどう変わるのかも、深く考えたことがない。ただ、それでも想像するだけで息が止まりそうになるくらいに、パパ様が処分になるのが、自分のせいなのかもしれないということは分かってきた。分かってしまった。

 両の目から涙が止め処なくぼろぼろとこぼれる。目の前が滲んで何も見えなくなる。


「これって、わたしのせい……? わたしが、ライラが、何も考えないでヴァリクと戦ったせい?」


 自分が導き出したその結論に、胸が苦しくて張り裂けそうになる。思わず、膝をついて肩を抱き寄せる。喉の奥から悲鳴のような嗚咽が漏れた。


「そんなことはっ……!」

「でもっ! 多分、ライラがヴァリクを殺そうとしなければ、ヴァリクもパパ様も捕まらなかった! なんで捕まったのか分かんないっ! でも、なんのきっかけで捕まったのかは分かる! ライラのせいだよ!」

「……」


 どうして自分はそこまでの考えに至れないのだろう。愚かな自分が憎らしい。自分をどう罰すればいいのか分からなくなって、頭を掻き毟りながら思い切り額を床に叩きつけた。鈍い音が響いて、額が割れる。血がぽたぽたと床に花を散らすかのように赤い染みを作っていくが、それが一体なんだと言うのだろうか。多少血を流したところで、わたしには何の罰にもならない。


「ああああああ……! ライラのせいだ。ライラがヴァリクと戦って建物めちゃくちゃにしたから! ライラが馬鹿な行動したから、それでパパ様処分になっちゃう……! ライラが馬鹿だから! ライラが馬鹿だからっ! ライラが馬鹿だからっ!」


 何度頭を床に打ち付けても、いくら血を流しても、気が晴れることはない。自分が馬鹿だったせいで、大切な人をまた失うことになってしまうのだ。

 ああ、どうか、この世に神様がいるなら、この愚かで馬鹿なわたしの首を掻き切ってはくれないかな。そしたら、さすがに死ねると思うのだ。

 そうやって何度も額を床に打ち付けていると、強く両肩を掴まれて顔を上げた。泣くのを我慢してるみたいに、顔を真っ赤にしてぎゅっと目を瞑ったヘンリーだった。


「私では、どうすることもできないっ……! 私には、無責任に誰かの背中を押したり、落ち込んだ様子を察して励ましたりすることしか出来ない。戦う力もない。……だが、それでも寄り添うことはできる」


 目を開けたヘンリーが、胸の前で拳を作って言った。


「ライラ、処刑をぶち壊してやろう。ダリオン殿を、ライラが救うのだ!」


 ヘンリーのその言葉に、わたしは何度も何度も頷いた。

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