048.手詰まり
部屋には静寂が戻り、重々しい空気が薄れていくのを感じた。椅子に深く腰掛けながら、私は小さく息を吐いた。殿下もやや気が緩んだのか、肘掛けに腕を預け、片足を軽く組む姿勢を取っている。一方の典籍卿は、指先を顎に添えながら静かに目を閉じていた。三者三様に無言のまま、しばし沈黙が流れる。
典籍卿が椅子の背にもたれ、腕を組みながら軽く頷いた。
「……まあ、殿下のおっしゃることも分かります。真実を暴くための証拠を集める――それ自体には異論はありません。協力は惜しまないつもりですよ。ただ、残念ながら……現時点で私が『典籍卿』の立場として持っている情報といえば、根拠の乏しい噂や、いくつかの断片的な話くらいです」
その言葉に、殿下が少し眉をひそめた。
「噂や断片的な話とは、どの程度のものだ?」
典籍卿は軽く肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。
「例えば、工房の一つで妙な魔術技術が研究されていたらしい、とか。あるいは、集会で発表された理論が教会の規律に抵触しそうだった、とか……そういう類の話です。けれど、それが実験の痕跡に繋がるかどうかは、正直なところわかっておりません」
殿下はその言葉に黙り込むと、肘掛けに肘をつき、視線を落とした。
「つまり、現時点では手掛かりすら曖昧だと?」
「そういうことです。ただし、この曖昧な話の中にも、辿る価値があるものが潜んでいるかもしれません。少なくとも、教会や王宮が触れられたくない部分に近づけば、何かしらの反応があるだろうと見ています。ただし、これはあくまで探りを入れる段階に過ぎません。期待するほどの成果が得られる保証はありません。そこだけは理解していただきたく思います」
典籍卿が椅子にもたれ、足を軽く組み直しながら口を開いた。
「……それで、ロベリアはいつ釈放されるのでしょうか? ロベリアの釈放が遅れると、動き出すタイミングを逃すかもしれません。彼女を記者として動かすために、釈放のタイミングをお伺いできると有難いのですが」
その問いに、私は答えようとしたが、殿下が先に静かに口を開いた。
「……今は、文典卿がロベリアの身柄を保護している。釈放の判断も奴に委ねられている状態だ。律法卿の目を完全に振り切ったわけではないため、時期を慎重に見極めている。軽率に動けば、取り調べが再開される恐れがある」
殿下の説明を聞き、典籍卿は考え込むように顎に手を当てた。
「なるほど。文典卿はこちら側、律法卿はあちら側。文典卿が動いているなら、ひとまずはロベリアの身の安全は保障されていると言って良いでしょうな。殿下、ご配慮痛み入ります。ただ、釈放がいつになるか分からないとなると……ひとまず、ロベリアの釈放が正式に決まるまで、こちらは下準備を整えておきましょう。工房や集会の情報を整理しておけば、ロベリア復帰後に動き出しやすくなるでしょうから」
「卿が釈放後のロベリアをどう動かすつもりか、聞いておこう」
典籍卿は椅子の背にもたれながら、軽く肩をすくめた。
「まずは魔術技術に関連する工房や集会の調査を頼むつもりです。工房は技術師たちの修行の場で、知識や技術が多く集まる場所。集会は新しい技術を話し合う表向きの場ですが、裏で隠されているものもあるかもしれませんから」
◆
この国において、魔術技術は教会と王宮がその権威を保つための要として扱われてきた。魔術技術は生活や軍事のあらゆる場面で用いられ、その発展は国家の繁栄に微力ながら寄与している。だが、その根幹を支える魔術技師たちの活動は、表向きの秩序とはやや異なる独自の文化の中で営まれていた。
魔術技師たちが拠点とする工房は、単なる作業場に留まらない。そこは知識の蓄積と技術の継承が行われる場であり、一種の「知識の保管庫」としての役割を果たしている。工房に集まる技師たちは、師匠から弟子へと秘伝を伝えることで自らの技術を磨き、さらに新たな魔術を編み出していく。教会が魔術を管理し、知識を典籍卿が管理しているとされてはいるが、個々の工房はその独立性ゆえに、完全な統制下には置かれていない。
また、魔術技術の発展には、工房の技師たちが定期的に開く「集会」が大きな役割を果たしている。集会とは、技師たちが互いの技術を公開し、議論を交わす場であり、新たな魔術の理論や技法が生まれる貴重な機会だ。この集会において発表される内容が、時として王宮や教会の政策にまで影響を与えることも少なくない。
だが、この文化には影がつきまとう。工房や集会の裏には、禁忌の研究が行われているとの噂が絶えないのだ。魔術技術の発展を推進する一方で、教会や典籍卿はその力が暴走しないよう監視の目を光らせているとされている。しかし、それでも陽の光が届かない場所があり、そこにはこの国の秩序を揺るがす何かが潜んでいるのではないか――そんな不穏な空気が、魔術技師たちの独特な文化を取り巻いていた。
工房と集会。それらは表向きには国家と教会の魔術技術を支える基盤だ。しかし、その内側には、誰にも知られたくない秘密が隠されている可能性があった。
◆
典籍卿が腕を組み直し、落ち着いた口調で語り出した。その目は冷静さを保ちながらも、現実的な視点を伝えようとしているようだった。
「正直なところ、工房や集会について調べれば何かしらは出てくるだろう――くらいの話で動くしかないですね。魔術技師たちは秘密主義なところがありますが、それでも何か痕跡を残しているかもしれません。ただ、私は『単なる書庫番』に過ぎません。こちらに情報を持ってくるかどうかは、魔術技師たちの気分次第といったところでしょうね」
その言葉に、殿下が少し眉を上げながら問い返した。
「卿は『単なる書庫番』と言うが、それはあまりに自分の役割を軽視しているのではないか? 魔術技師たちの書類を保管する義務を負っている立場であろう? 卿であれば、もう少し具体的な情報が掴めるのではと思うが」
典籍卿は軽く肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「殿下、それが本当に『単なる書庫番』なのですよ。確かに、正式な書類や発表された技術なんかは保管しています。でも、それは完成品だけの話。研究段階の資料や、集会で公にならなかった技術なんて、そもそも私には回ってこないのです」
彼は一拍置いてから、皮肉めいた口調で続けた。
「要するに、私が保管しているのは『見せてもいいもの』だけ。それ以外の肝心な部分は、工房や集会の中に隠されていると思うべきでしょうね」
その答えを聞きながら、私は典籍卿が自嘲気味に語る姿を見つめた。殿下の指摘ももっともだが、典籍卿の言葉には現実の厳しさが滲んでいた。
典籍卿の管理下にある書庫には、許された情報しか入らない。裏で何が行われているのか――それは、外に出て直接足で調べない限り分からないのだ。
殿下は視線を落とし、低く静かに言葉を返した。
「……つまり、現時点では『工房や集会を追う以外に出来ることがない』ということか」
その言葉を聞きながら、私は胸の奥に重たい感覚が広がるのを感じた。工房や集会を追うしかない――その言葉は、私にとってどこか心許ない響きを持っていた。無駄足になるかもしれない。それどころか、どんな情報が出てくるのかも分からない。期待を抱くどころか、ただ進むしかない不透明な道筋。それが、今の私たちの現状だった。
けれど、私が怯えて動かなければ、何も変わらない。そう思いながら、指先が小さく震えるのを誤魔化すように膝の上で拳を握りしめた。
始まってもいないのに感じてしまう手詰まり感に、三人揃って大きなため息が出た。




