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045.考えるのやーめた!

 殿下、クラウス様、そして私を交えた作戦会議の翌日。


 王宮の一室に私たちが通されると、空気が一変した。威厳ある壁の装飾やきらびやかな天井の彩色が、私たちの存在の小ささを強調するようだった。私の横を歩く殿下は、そんな豪華な空間を一切気にする様子もなく堂々とした足取りで進んでいく。

 視線の先に立っていたのは、一人の男だった。長い法衣をまとい、その背筋は凛と伸びている。威厳あるその姿は、この場にいる全員に「典籍卿」という肩書を信じさせるのには十分なものだった。


(……ん? いや、待って)


 私の胸が大きく跳ねた。まさかと思いながら、私は目を凝らしてその顔を見つめる。髪の色、顔の輪郭、その姿勢――やっぱり間違いない。どれだけ視線を逸らしても、もうその事実を否定することはできなかった。


(……ん? え? ……んん? 編集長?)


 目の前に立つのは、私が勤めるカリストリア聖王国通信社の編集長トーマス・グレイン、その人だった。日々山積みの原稿を抱え、私たち記者を叱りつけ、時には不意に笑ってくれる、あの編集長だ。

 私の知る編集長とはまるで別人だった。あの机に座ってインクの染みだらけの手で原稿を手渡してくる姿とは違う。今の彼は、典籍卿という役職にふさわしい高貴さを纏い、貴族の品格すら感じさせる態度で堂々と立っている。

 頭が混乱しているのに、私は黙るしかなかった。目の前の彼がどちらの陣営に属しているのか。それを探ることが、今回の場の目的なのだ。

 その間にも、トーマス編集長――いや、典籍卿トムフォード・グレインハーストの視線が一瞬私の方を掠めた。ほんのわずかな間だったが、その眉が僅かに動き、ぎこちなく感じられる仕草が目に入る。まるで彼もこちらを探っているかのようだ。


 緊張感で喉が渇くのを感じながら、私は殿下の斜め後ろでじっとその場の流れを見守った。ここで余計な動きを見せるわけにはいかない。ただ、彼の言葉を待つしかなかった。


「典籍卿、ようやくお目にかかることができたな」


 殿下の声は落ち着いており、まるで彼がこの場の支配者であるかのようだった。


「こちらこそ、第二王子殿下直々にお呼びいただけるとは、思いもよりませんでした」


 トーマス編集長……いや、典籍卿の返答は慎重そのものだった。


「典籍卿よ。卿の働きにはいつも感心させられる。卿が記録してきたものは、星々の軌道を読み解く地図のようなものだ。卿が紡いできた記録がなければ、この国の人々は夜空を見上げることすらできないだろう」


(……ん?)


 殿下はまるでその星空を実際に目にしているかのように、優雅に言葉を紡いだ。

 そして思った。これは一体、何の会話が始まったのだろうか。


「恐れ入ります。ですが、私などはただの星を数える者に過ぎません。星座を描く才覚を持つ方々のような大役を果たせるほどの器量は持ち合わせておりません」


 典籍卿は一歩引くように答える。その言葉には謙虚さが滲んでいたが、どこか探るような調子も感じられた。


「いや、星を数えるだけと言っても、その一つ一つを正確に記録し、その軌道を守ることができる者などそうはいない。星々が夜空で光を放つのは、卿のような者がいるからだ」


 殿下は静かに微笑んでいたが、その目には冷徹さが隠れているようにも見えた。


「星々が光を放つのはその力によるものです。私のような者は、それを見守るに過ぎません」


 典籍卿の言葉には、微妙に距離を保とうとする意図が感じられた。

 だが、星の数とか軌道とか、もう何がなんだかさっぱりだ。褒めてるのか、牽制してるのか、それとも別のことを話してるのか……。貴族同士の交渉というのは、こんな会話を毎回しているのだろうか?


「だが、その星図の中には、まだ空白の部分があるだろう。その空白に、行方を知れぬ星が隠れている。その星の記録がどうしても必要だ」


 殿下の声には、一瞬の硬さが混じった。


「行方を知れぬ星……ですか」


 典籍卿は眉をわずかに動かしながら答える。


「確かに空白の部分が存在することは否定できません。ですが、その空白を埋めるには、それ相応の時間と労力が必要です。どのような記録をお求めなのか、もう少し具体的に教えていただけませんか?」

「具体的には、失われた星の記録だ。その星がどのような輝きを持ち、どうして闇に覆われてしまったのか。それを記録した星図が、どこかにあるはずだ」


 殿下は確信を込めて言い切った。


「なるほど……。ですが、星図に記録されているものは全てお見せするわけには参りません。それぞれの星が持つ輝きは、その背後にある闇の記憶と共に記されております。そこには触れてはならない事柄も含まれているのです」


 典籍卿は慎重な態度を崩さなかった。

 行方を知れぬ星? 星図の空白? なんとなく「何かを探している」ことは分かるけど、話がまるで抽象画みたいで全然ついていけない。何か重要なやり取りをしているのだけは分かるけど……それだけだ。これは、「魔術研究の資料を探しています」という意味で良いのだろうか?


「庭の中央に咲く美しい花がある。その花の輝きは人々を魅了し、庭全体を豊かにしているかのように見えるが――」


 殿下は一瞬間を置き、典籍卿を見据えた。


「しかし、その花を咲かせるためには、地中深くに根を張る毒草が必要だったとしたらどう思う?」

「毒草……ですか」


 典籍卿は穏やかな笑みを浮かべながら答えた。その笑みの奥には探るような光が宿っている。


「それは、あまり耳にしないお話ですね。その毒草が一体どのように庭に役立っているというのでしょう?」

「役立つどころか、庭全体を蝕んでいる。そして、その毒草の根が張る場所には、いまだ誰も触れていない」


 殿下の声が一段低くなる。


「その根についての記録が必要だ。花が咲くために犠牲になったもの、根に絡め取られたもの。それらを掘り起こさなければならない」

「掘り起こす……」


 典籍卿は視線を落としながら静かに言葉を繰り返した。


「なるほど。ですが、庭を掘り起こすというのは相当の労力がかかる作業です。そして、掘り起こされた根が、他の植物にどのような影響を与えるかも分かりません。それでも掘り起こすおつもりですか?」

「庭が毒に侵されるのを黙って見ている方が危険であろう。掘り起こさねば、いずれ庭全体が枯れ果てる」


 殿下の目が細まり、冷たく光る。


「しかし、毒草の根を掘り起こすとなると、庭全体の構造が揺らぐ危険性もあるのでは?」


 典籍卿は一見穏やかに見える態度を崩さず、さらりと返す。


「毒草が庭に存在する理由もまた、何かしらの必要があったからこそでは? その存在意義を無視することが本当に正しいのか、慎重に考えねばなりません」


 毒草? 根? 掘り起こす? これ、たぶん魔術実験のことを言っているんだろうけど、遠回しすぎて全然分からない。予想外のことで頭を悩ませることになってしまった。どうしよう。会話がどこまで進んだのか分からない、だなんて予想していなかった。


「必要があったかどうかではない。その毒草によって犠牲になった者がいる。その声を拾い上げるためにも、根を掘り起こす必要があるのだ」


 殿下の言葉には、いつもより強い感情が込められているように感じられた。……何を言っているのかは、分からなかったが。


「……その毒草についての記録が、どこかに残されているのだとすれば、慎重に確認する必要があるでしょう」


 典籍卿は一瞬だけ目を伏せた。その仕草には、微かな抵抗と同時に、思案の色が見えた。


「慎重に確認するだけでは遅いのではないか? 星の輝きが庭に毒を落とし、それが土を蝕んでいるのだとしたら?」


 殿下は鋭い目を向けながら続ける。


「記録するだけでは、毒の流れを止められない。卿が見たものをどう伝えるかが、この庭全体の命運を分けるかもしれないのだ。星の輝きが庭の土に毒を落とし、それが根を蝕み、草木を枯らしているのだとしたら? 卿が記録するその星々が、庭全体に影響を与えているというのに、ただその流れを見守るだけで済む話だと思っているのか?」


 典籍卿はわずかに目を伏せ、慎重に言葉を選ぶように続けた。


「星の輝きが庭に与える影響を記録すること。それは私の務めの一環でございます。しかし、庭の土がどう変わるべきか、毒をどう扱うべきか――それを決めるのは星を記録する者の役割ではございません。庭は庭主のものであり、星空の下で育つ命の責任は、その庭を守る者にあるのではありませんか?」

「だが、記録する者が何も語らねば、庭主はその毒に気づくことすらないだろう。卿の記録が、その光の影を指し示す唯一の手段であるかもしれないのだ」


 殿下はさらに言葉を重ね、典籍卿を鋭い目で見据えた。


「星の軌道を知り、庭に落ちる光と影を見てきたお前にしか分からないことがあるはずだ。それでも黙っていることが正しいのか?」


 典籍卿は一瞬だけ沈黙した。その目が微かに揺らぎ、表情には思案の色が浮かぶ。だが、次の瞬間にはその目を落ち着かせ、再び穏やかな微笑みを浮かべた。


「記録とは、見る者に示すものです。それをどう解釈し、どう行動するかは、記録者以外の者の責務です。私は星の輝きと影を記し、その流れを見届ける者に過ぎません。それをどう受け止めるかは、庭の主や星座の守り手に委ねられるべきかと存じます」


 ……毒草? 星? 庭? 星座の守り手? もう頭の中で何が何だか分からない。たぶんものすごく重要な話をしているんだろうけど、私に理解させる気は最初からなさそうだ。貴族の会話って、なんでこんなに回りくどいの?


 でも、あのトーマス編集長が、まさかこんな厳格な顔でこんなやり取りをしているなんて……。あまりにも態度も風貌も違いすぎて、自信を失いかけていたけど、やっぱり目の前で殿下と不思議なやりとりを続ける典籍卿は、トーマス編集長で間違いない。

 ……たぶん、私の味方であるはずだ。いや、多分どころか、きっと……いやいや、そう信じたい!

 わけわからん! 考えるのやーめた!

 とりあえず、私が余計なことを考える必要なんてない。ここで黙って立っているのが、一番賢明だ。きっと……たぶん……そういうことなのだ。

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