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035.紛失

 割れた窓から、殿下が先にするりと入り込んだ。その動きは軽やかで、普段の威圧的な態度からは想像もつかないほど静かだった。私もそれに続き、足を上げて窓枠を越え、中へと飛び込む。


 財務局の室内は、夜の静けさに包まれていた。月明かりが薄暗い部屋を淡く照らし、整然と並んだ書類棚や机がぼんやりと浮かび上がる。壁際には重厚な金庫が鎮座しており、その存在感は部屋全体に緊張感を与えていた。

 殿下は迷いなく金庫の前に膝をつき、懐から工具を取り出した。どうやら手慣れているらしい。ダイヤルに触れる指先はまったく躊躇がなく、まるでこの瞬間を待ち望んでいたかのようだった。


「本当に開けられるんですか?」


 思わず声を潜めて聞いた私に、殿下はわずかに口角を上げた。


「下町での経験が無駄にならねばよいがな」


 その冷静さに、私の緊張も少しだけ和らいだ。とはいえ、ここは財務局。下手をすれば捕まるだけでなく、それ以上の罰を受けることになるかもしれない。そう考えると心臓が音を立て、息をするのさえも慎重になった。

 ダイヤルを回す音が静寂の中で小さく響く。その音だけが空間を支配する中、私は窓際に立ち、外の気配を探った。夜の街は静まり返っており、人の気配はない。それが逆に不気味に思える。


「開いた」


 殿下の低い声に振り返ると、金庫の扉が静かに開け放たれていた。中には書類の束がびっしりと詰め込まれている。殿下はその中から一つの紙束を取り出し、手早く紙をめくり始めた。


「な、何が書いてあるんですか?」


 私が身を乗り出して聞くと、殿下は書類に目を走らせながら静かに答えた。


「我が国が建国された時から伝わる『錫杖』の……詳細な意匠に関して記載されているようだ。遠くから見ることしかない民草は、祭儀卿の手元に何があるか、知らぬ者も多いようだが……『錫杖』は、祭儀卿が重要な儀式で用いる国宝の一つだ。特定の詠唱を行いながらこれを振れば、空に光が浮かび上がる。その様子は国の守護と繁栄を象徴するものとして、人々の信仰を集めてきた……と、我は聞いている」

「空に光……祭儀卿の、降竜祭(こうりゅうさい)ですか?」

「ああ、それだ」


 聖王国における最も荘厳なる祭典、降竜祭。年に一度、聖なる夜に執り行われるこの儀式は、空と大地を繋ぐ祝福の瞬間であると語り継がれている。

 中央広場には、銀の紋章を刻んだ祭壇が設えられ、煌めく灯火のもと、民衆が静かに集う。年若い祭儀卿は、純白の祭服を纏い、その手には神々しく輝く錫杖を携える。彼女が祭壇の中心に立つと、人々のざわめきは波のように静まり、ただ夜空に向かう祈りの声だけが響く。

 やがて、錫杖が空高く掲げられたその時、緊張が最高潮に達する。祭儀卿が力強く錫杖を振ると、まばゆい光が夜空を貫き、大地から天へと赤々と燃え上がる巨大な炎の軌跡が現れる。その炎はまるで竜のごとくうねりながら、ノクスリッジ山脈方面へと軌跡を描きながら飛翔していく。人々はその光景に息を飲み、目を閉じ、聖なる加護を心から願う。

 この祭りは、天と地、そして人々の魂を繋ぐ神聖なる儀式。降竜祭は単なる祝祭ではなく、守護と繁栄の象徴だった。


 殿下の指が紙をめくる音が、月明かりの下でやけに鮮明に響く。その音と殿下の声だけが、異様なほど静かな部屋の中で際立っていた。


「だが、これは……『錫杖』の複製品の発注書であるようだ」

「複製品……ですか? 何に使うものなんですか?」


 殿下は一瞬だけ考え込むように目を伏せた後、淡々と続けた。


「……いや、これだけでは判断がつかん。しかし、儀式で用いる『錫杖』を偽のもので代用するなど、聞いたことが無い。……本物が紛失したのか、あるいは破損したのか、それとも別の理由があるのか……ただ、この記録を見る限り、必要に迫られて複製品を用意せざるを得なかったようだ」


 私は驚きと困惑が入り混じった気持ちで殿下を見つめた。国宝である錫杖が行方知れずの可能性など、信じがたい話だ。そんな状況を隠し通している財務局の行動に、薄ら寒いものを感じる。


「『錫杖』を含め、国宝の管理は財務卿の管轄だ」


 殿下はさらに書類を確認しながら続けた。


「問題は、複製品を作るための資金がどこから出たかだ。ここに無記名の計上記録がある。金額がおおよそ同じ……農地卿の取り分から捻出されているようだな」

「農地卿の……?」

「そうだ。つまり、財務卿は農地卿の予算を横領し、『錫杖』の複製品を作るために流用した可能性が高いということだ」


 殿下は書類から顔を上げずに、ぶつぶつと呟くように言葉を続けた。


「何らかの理由で本物が使えなくなり、複製品を作らざるを得なかった……その背景はわからぬが、これで財務卿の首を締め上げる材料が揃った」


 その言葉には冷静ながらも確信めいた響きがあった。私は彼の横顔を見つめながら、錫杖を巡る問題の大きさを改めて実感した。



 ◆



 破れた窓枠から吹き込む冷たい風が、財務卿コルネリウス・ハーヴェルクの汗ばんだ額を撫でた。室内は混乱の極みで、部下たちが割れた金庫の周囲を這い回りながら必死に()()()()を探している。


「ない、ない! ……書類がない!」


 財務卿は金庫を指さしながら叫んだ。その中には、錫杖の複製品発注に関する書類や計上記録が保管されていたはずだった。それは、財務卿のこれまでの不正の中で最も重大なものであり、発覚すれば取り返しのつかない結果を招くものだった。


「馬鹿な……あり得ん! 誰が、どうやってこんなことを!」


 部下の一人が、割れた窓を指さしながら震える声で報告する。


「財務卿! 不法侵入の形跡が……おそらく何者かが金庫を破り……」

「そんなことは見れば分かる! 問題は中身だ! あの書類が露呈すれば、どうなるかわかっているのか!」


 財務卿の額には滲む汗が、焦りと恐怖を露骨に示していた。部下たちは言葉を失い、ただ金庫の周囲を調べ続けるしかなかった。


 そのとき、扉が勢いよく開かれた。重厚な音が響き渡り、全員の視線が入口に向かう。現れたのは、第二王子レオンハルト・アルデリック・カリストリアだった。その後ろには侍女の姿——そばかすの浮いた眠そうな顔の若い女が控えている。


「どうやら、大変な騒ぎになっているようだな」


 第二王子の冷ややかな声が、室内の騒動を一瞬で凍りつかせた。財務卿は一瞬息を呑み、顔が青ざめる。


 財務卿は第二王子レオンハルト・アルデリック・カリストリアが苦手だった。

 王位継承権がないと言い切っても良い立場であるのに、あの野心的な目がどうにも怖い。どんな状況でも目の奥に秘めた何かを覗かせる視線は、財務卿の胸をざわつかせた。

 さらに、見透かすような物言いが、常に彼の神経を逆撫でする。誰も彼もが知られたくないことを抱えているのに、レオンハルト殿下はそのすべてを理解し、わざと楽しむように言葉を操る。

 そして極めつけは、あの凶悪に微笑む顔だ。どれだけ場の空気が重くても、彼は薄く微笑む。その笑顔が嘲笑にも冷笑にも見え、財務卿の心に冷たい手を這わせる。


「第二王子殿下……これは、何者かが不法侵入し、窃盗を働いた結果でございます」


 震える声で弁明を始める財務卿を、第二王子殿下は無表情で見下ろした。その瞳には、冷たい光が宿っている。


「盗まれた、か」


 殿下は懐から一枚の書類を取り出し、高く掲げた。それは財務卿が探し回っていた——否、恐れていた書類そのものだった。


「もしや……これが、貴様が必死に探しているものか?」


 財務卿は目を見開き、唇を震わせた。


「そ、それは……一体どこで……」


 財務卿は言葉を詰まらせながらも、脳裏にはある仮説がよぎった。

 まさか……この男の刺客が盗んだのか?

 その思いが口をついて出る。


「犯罪だ! 第二王子殿下、それは明らかに不法行為です! 窓を割り、金庫を破り、書類を盗むなど、許されざる蛮行! いくら殿下といえども、このような行為は……王国の秩序を乱し、信頼を損ねるものであり……」


 財務卿は声を張り上げ、続けざまに糾弾を試みた。しかし、彼の言葉が尽きる前に、第二王子の冷ややかな声が室内を貫いた。


「で? 我に言いたいことはそれだけか?」

「我を糾弾し、捕らえたくば、捕えれば良かろう。だが捕えた暁には、この書類と共に、貴様の悪事が露呈するがな」


 財務卿は言葉を失い、冷や汗が背筋を伝う。部下たちの視線が自分に向けられるのを感じ、心の中で叫んだ。

 なぜだ……なぜ、この男がこのことを知っている!

 第二王子殿下は書類を懐に戻し、ゆっくりと部屋を見渡した。その目が次に向けられたのは、金庫の残骸だった。


「……して、財務卿コルネリウス・ハーヴェルクよ。本物の『錫杖』はどこだ?」


 鋭い質問に、財務卿の喉が音を立てて鳴る。だが答えは出せない。沈黙が室内を支配する。


「横領か?」


 第二王子殿下が一歩前に出る。


「破損か? 紛失か?」


「紛失」の言葉にピクリと反応してしまったことを見逃さない第二王子殿下は、薄く笑みを浮かべた。


「ふーん、そうか。紛失だな? 国庫の守護者も地に堕ちたものよ」

「おやめください! ここでそんな話を……!」


 財務卿は懇願するように叫ぶが、第二王子は無情だった。彼は部屋中の視線を集めるように、声を張り上げた。


「聞け、皆の者! カリストリア聖王国の三百年の歴史において、財務卿がこのような醜態をさらしたことなど一度もない! 我が国の国宝の中で、最も尊ぶべき『錫杖』の紛失である! これが守護者たる者の姿か!」


 部下たちがざわめき始める。事情を知る者は青ざめ、事情を知らぬ者は驚愕に目を見開いている。

 財務卿はその場に崩れ落ちそうなほどに追い詰められていた。


「やめろ! ここでそれを口にするのはやめてくれ!」

「なぜだ? 貴様が何をしでかしたか、皆に知ってもらう良い機会を与えているのだぞ?」

「やめろおおおお!」


 財務卿は叫びながら第二王子に縋りつこうとするが、王子は冷たい眼差しで見下ろすだけだった。


「……では、交換条件だ。一つ問う。英雄の居場所を知っているな?」


 財務卿の喉が音を立てて鳴る。答えなければならないという圧迫感と、答えればすべてが終わるという恐怖が胸を締め付けた。彼は視線を彷徨わせ、言い訳を探すが、第二王子の冷たい目がそれを許さない。


(第二王子殿下は、実験のことまである程度確信を持っているというのか? ……知っていることを言えば、この窮地を脱することができるやもしれん。元はと言えば、巻き込まれた立場。しかし、この野心家な第二王子殿下が、それを知って何を……)


 脳裏を巡る葛藤のせいか、額に汗がにじむ。


「答えよ」


 第二王子の低く鋭い声に、財務卿の膝が震えた。ついに観念したように、震える声で答える。


「知っております……」


 その言葉が喉から出た瞬間、財務卿は自らの声が他人事のように聞こえた。これで全てが終わったのだ。

 第二王子は満足げに頷き、短く命じた。


「仔細、全て話せ。案内せよ」


 その瞬間、財務卿の心の中で、これまで築いてきたすべてが音を立てて崩れていくのを感じた。

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