034.ガシャアアンッ!
汗が滲む額を手の甲で拭いながら、私は足を引きずるように元いた建物へ向かった。
息を整えようと深呼吸を繰り返すが、喉は焼けるように乾いていて、心臓が耳元で鼓動する音ばかりが響いていた。
入り口の前で足を止め、壁に手をついてうなだれ、必死に呼吸を整える。
「何事だ」
背後から静かだが鋭い声がした。私が跳ねるように振り向くと、そこにクラウス様が立っていた。白い手袋をはめた手がピシッと背中に添えられ、微動だにしない姿勢でこちらを見下ろしている。その表情にはいつものような冷静さがあり、私を鋭く観察するような視線が向けられていた。
「す、すいませ……」
言葉を絞り出そうとするものの、息が整わずうまく喋れない。私はとりあえずの意志を伝えようと、階段を登った先、渡り廊下のさらに先の部屋の方向を指差した。
クラウス様は一瞬だけ眉を動かしたものの、何も言わずに私の前を歩き出した。
部屋の前には監視と思われる聖騎士が立っていた。
体格のいい男が、無表情で直立している。その重々しい姿に、一瞬足がすくみそうになる。
クラウス様は特に気にした様子もなく、聖騎士の前で立ち止まると、短く命令を下した。
「この部屋の者に食事と水、着替えを用意せよ。関わったとされる異端について聞き取りを行うため、三時間後以降に部屋前に戻るように」
淡々とした口調だったが、その言葉には逆らえない威圧感があった。聖騎士は無言で一礼すると、その場を離れていく。
クラウス様はその背中を確認すると、懐から取り出した鍵束を手に取り、三つある南京錠を一つずつ外し始めた。鍵がカチャカチャと回る音が、静かな廊下に響く。
室内に入ると、クラウス様は手際よく内側に同じ南京錠を取り付け始めた。その動作は無駄がなく、すべてが整然としている。
(外にいるときは外から鍵を、中にいるときは内側から……逃げられないようにしているんだな……)
私は鍵を取り付ける様子をぼんやりと見つめながら、そう考えた。
「殿下、今しばらくはそのままでお聞きください」
クラウス様がシーツの方向を向いてそう告げると、布の中から親指を立てた手がにゅっと出てきた。サムズアップである。
「ロベリアが戻ったところに遭遇したため、お連れしました。何かしらを得たようです」
「あ、で、でも、ヴァリク様の居場所とは関係ない話だったので、役に立つかは……」
私が言い訳じみた言葉を口走ると、サムズアップしていた殿下の親指がスッと中指だけを立てた形に変わった。
「う、嘘です! 嘘です! おそらく重要な情報です!」
私は大慌てで言葉を訂正する。
その時、扉が控えめにノックされる音が聞こえた。
クラウス様が、私が扉の装飾だと思っていた、扉から浮き出た部分を軽く押すと、小さな窓が現れた。そこから侍女らしき女性が顔を覗かせ、トレーを差し出してくる。
クラウス様がそれを受け取り、続いてもう一人の侍女が畳まれた布、おそらくは服を差し出す。クラウス様の代わりに私が受け取った。
クラウス様は小窓を閉め、最後に扉の装飾部分もきっちりと閉じる。
「で、何の情報を得たのだ?」
シーツから侍女服のままの殿下がするりと体を起こす。立膝をついて堂々とした姿勢で、私をじっと見据える。
「実は……」
私は、教会内部で見たこと、聞いたことを順を追って説明した。廊下で耳にした不審な会話、金庫についての話、そして密室でのやり取りまで。
話が終わると、殿下の眉がピクリと動き、鋭い目が見開かれた。
「ククク……祭儀卿に知られたくない、複製品……? ……これは僥倖」
殿下が低く笑い、やがて高笑いに変わる。
「まさか……!」
隣でクラウス様が冷や汗を流しているのが見えた。私はまだ状況を飲み込めず、困惑したまま二人を交互に見つめる。
殿下の高笑いがようやく収まると、彼は一瞬だけ何かを考えるように視線を落とし、再び顔を上げた。
「……して、その証拠となる書類は金庫の中か。どの金庫かは把握できているのか?」
「は、はい。金庫に入れる時の会話だったようなので、その部屋にあるのだと思います」
「外からどの部屋か判断することはできるか?」
「可能です」
「何階だ?」
「一階でした」
殿下は私の返答を聞きながら、軽く顎に手を当て、興味深そうに「ふーん」と声を漏らした。
「……では行くか」
その言葉に、思わず目を瞬いてしまう。
「どちらに……?」
「金庫を暴きに行こうではないか」
殿下が平然と告げた瞬間、私もクラウス様も顔を引きつらせた。思わずお互い目配せする。
「殿下、それはさすがに……!」
「問題はあるまい。我は下町の悪い遊びを存分に習ってきておる。金庫破りくらい、雑作もない」
その言葉を放つと、殿下はテーブルに置かれていた食事に手を伸ばし、何事もなかったかのように食べ始めた。
私は内心で思わず突っ込む。
(それは……私のなんじゃ……)
そんな私の横で、クラウス様が軽く咳払いをしてをから口を開いた。
「……ひとまず着替えが必要であれば、殿下が退室後に着替えると良い」
私にそう言い残し、クラウス様は南京錠を外して部屋を出ていった。
しばらくして、クラウス様が手にトレーを持って戻ってきた。それを見た瞬間、私は心の中で確信した。
(やっぱりあれ、私のだったんだ……)
そう思いながら、ようやく自分の食事に手をつけた。冷えた空気の中で、少しずつ体力を取り戻すように食べ進める。
窓がないためどのくらい日が落ちたのか分からないが、おそらく夜になった頃。
顔は仮面をつけたそのまま、唇がぽってりとした女の子の状態の殿下が、服装を平民風の質素なものに着替えて私のいる部屋に訪れた。
その姿は奇妙なほどちぐはぐだった。首から上と下の印象が全く違い、どこか作り物じみている。
その後ろには、顔を若干青ざめさせたクラウス様がついてきていた。
「……殿下、おやめください」
クラウス様が低い声で懇願するように言うと、殿下は一瞬だけ振り向き、冷たい目で見返した。
「やかましい。卿の分際で我に指図をするな」
そして、私の方を向き直ると、殿下は低い男の声で命じた。
「ロベリアよ。案内せよ」
私は殿下とクラウス様を交互にきょろきょろと見つめたが、殿下の圧に押されるようにして部屋を出た。
廊下を歩きながら、私はそっと後ろを振り返った。
クラウス様が大きなため息をつき、こめかみを揉んでいる姿が見えた。
夜の聖王都教会本部は、白い建物が月明かりを反射し、幽玄な雰囲気を醸し出していた。
灯りを持たずに移動していたが、建物の白さと月明かりのおかげで足元は十分に見えた。
聖騎士の見回りもほとんど無く、静寂があたりを支配している。私はひやりとした空気を吸い込みながら、足を進めた。
財務局に到着すると、私は建物の横をぐるっと回り込んだ。
白く輝く壁が月明かりを反射しているが、どこか無機質で冷たい雰囲気を漂わせている。周囲は静まり返り、足音を抑えて歩く私たちの気配だけが不自然に浮いているように感じられる。
私は目的の窓の前で立ち止まり、指差した。
「ここです」
その瞬間、背後で何か殿下が動いた音が聞こえた。振り返ると、殿下の手にはすでに拳大の石が握られていた。
状況が飲み込めないまま目を瞬かせる私の前で、殿下は無表情のまま窓に向かって大きく腕を振り上げた。そして、躊躇することなく石を叩きつける。
ガシャアアンッ!
鈍い衝撃音とともに、ガラスが割れる音が周囲に響き渡った。破片が床に散らばり、月明かりに反射してキラキラと光る。それは一瞬美しくも見えたが、私の心臓は跳ね上がり、手が震えた。
「え? えええ?」
思わず声が漏れ、口を押さえて慌てて周囲を見回す。だが、幸いなことに誰も駆けつけてくる様子はない。
「窓の破損等、後に財務卿を締め上げれば問題あるまい」
殿下が淡々とした口調で言った。
(ど、どういう理屈でそうなるの!)
心の中で叫びたかったが、言葉は喉の奥で固まったままだった。




