031.不審な会話
財務局の廊下は静かだった。モップを握り、清掃係を装っているとはいえ、足音ひとつ立てまいと神経を尖らせながら進む。
どこかで人の気配を感じた。私はモップを動かす手を止め、慎重に耳を澄ませる。近くの部屋から、何か話し声が聞こえてきた。
廊下を挟んで少し先、扉の向こうから男性の低い声が漏れている。
(……中で誰かが話している?)
私はモップを動かすふりをしながら、少しずつ声のする部屋に近づいた。扉越しに、はっきりと二人の声が聞こえた。
「……うむ、一旦これでよいか。祭儀卿の承認を貰ってきてくれ」
「承知しました! では、届けて参ります!」
突然、扉が勢いよく開いた。私はモップを握り直し、反射的に顔を伏せる。目の前には、大量の書類を抱えた若い男が飛び出してきた。
「ちょっと待て」
彼の後ろから、別の男が現れる。明らかに慌てた様子で若い男を引き留めた。
「この一枚は、私から確認する必要がある」
「え? でも、儀式関係であれば、祭儀卿の署名が必要になるのではありませんか?」
「いや、この一枚は後で処理する。他の書類はそのまま回して問題ない」
若い男は一瞬困惑した表情を見せたが、納得したように頷き、書類の束から一枚を抜かれてそのまま廊下に出て行った。私は彼と目が合わないように軽く頭を下げ、清掃に集中しているふりをする。
扉が閉じる音が聞こえ、私はそっと息をついた。しかし、すぐに再び部屋の中から声が聞こえてきた。
「危なかった……祭儀卿に渡っていたら、財務卿のお首が飛ぶぞ」
「……複製品の件、うまく隠せると思うか?」
「隠しきらないと、我々もただでは済まない」
扉越しに聞こえる会話の内容に、私の心臓が早鐘のように打ち始めた。
(複製品……何を隠そうとしているの? これ、ただの雑談じゃなさそう)
私は物音を立てないよう細心の注意を払いながら、そっと扉の近くに身を寄せる。扉の向こうで、さらに声が続く。
「金庫にしまえ。絶対に目につかないようにしておけ」
「台帳も合わせて確認しておこう。後で財務卿に報告だ」
金庫。台帳。言葉が重く響き、何か大きな秘密に触れている感覚が全身を支配する。息を殺し、会話の続きに耳を傾けた。
ふいに、足音が近づいてきた。扉の向こうから、誰かがこちらに向かって歩いてくる気配がする。
(まずい……!)
私はモップを掴み、慌てて動かし始めた。掃除をするただの下働きのふりを装う。
扉がゆっくりと開き、男の顔が廊下を覗いた。鋭い視線が廊下を走り、私の姿を捕える。
「……なんだ、掃除係か」
その一言とともに、扉が再び閉じられる音がした。
私はようやく息を吐いたが、手のひらがじっとりと汗で濡れていることに気づく。
(危なかった……でも、この話、どう考えても普通じゃない)
言葉が耳にこびりついている。「複製品」「金庫」「台帳」。それらが何を意味するのかを解き明かした方が良いのかもしれない。この先に進むのは危険だが、もう少し情報収集をしておきたい。
私はモップを持ち直し、意識を集中させた。気を緩めれば、次は本当に気づかれてしまうかもしれない。
(ヴァリク様の居場所に繋がる情報ではなさそう。でも、『財務卿のお首が飛ぶ』ほどの重大な何か……)
再び廊下に足音が響く。私は静かにモップを動かし、廊下を離れる。後ろで扉の閉まる音が聞こえた気がしたが、振り返ることはしなかった。
モップを片手に廊下を進みながら、私は必死に頭の中で次の行動を整理していた。金庫、台帳、複製品。この情報はこの情報で、レオンハルト殿下にお伝えした方がいいのだろうか。
ふいに、廊下の向こうから軽快な足音が聞こえた。女性の声が私の方へと投げかけられる。
「ねえ、あなた。この時間に掃除なんてあったっけ?」
一瞬、心臓が凍りついた。私はモップを動かす手を止め、振り返ることもできずに言葉を探した。
「えっと……どうでしょうね」
「いや、どうでしょうって……」
相手の声が段々と近づいてくる。近付かれすぎれば、何かおかしいと気づかれるに違いない。私はぎこちない笑みを浮かべて振り返った。徐々に後退り距離をとる。
「あ、あはは。新人なもので、割り当てがうまく把握できてなくて……時間を間違えてしまったのかもしれません」
「新人さんなの? じゃあ、今の割り当て、確認してあげようか」
相手の表情は親切そのもので、まったく疑っている様子はなかった。だが、それが逆に厄介だった。
「い、いえ! 大丈夫です! もうすぐ終わりますので!」
私は慌ててモップを片付けるふりをし、その場を去ろうとした。だが、背後から相手が足早に追いかけてくる気配を感じた。
「ちょっと待って! 割り当て時間確認するだけだから!」
その言葉を聞いた瞬間、私は踵を返し、できる限りの速さで早歩きを始めた。そして、廊下の角に差し掛かると、素早く方向を変えて曲がり抜ける。
(どうして追いかけてくるの! 親切なのはありがたいけど、今は困る!)
私は足音を聞きながら、次にどの方向へ行くかを必死に考えた。とにかく建物の出口を目指して走り続けるしかない。
(冷静にならなきゃ。ここで焦ったら不自然になりそう)
そう思いながらも、背後から聞こえる足音に冷静さを保つ余裕はなかった。私は建物の出口を目指しながら、少しずつペースを上げた。
ようやく出口が見えたとき、私の心は一瞬だけ安堵した。だが、ここで立ち止まれば、追いかけてきた女性に出口で捕まる可能性がある。
私はそのまま、するりと出口を通り抜けることにした。
建物の外に出ると、眩しい日差しが再び私を迎える。光が目に入ってきて視界がぼやけるが、それどころではない。
横目でちらりと見ると、まだ追ってきているのか、視界の端に女性の姿が見えた気がした。私は、息を切らしながらも早歩きから走りに切り替え、距離を離すことに注力する。先ほどの門から入れば、聖王国教会本部からやってきたことをしっかりと見せつけることになってしまうかもしれない。私はぐるりと聖王国教会本部の外壁を大回りして別の門から中に戻るルートを選んだ。モップから滴る水を気にも留めず、まばらに人がいる商店の通りへと飛び込む。
そしてしばらくの間走り続け、背後に気配を感じなくなった瞬間、少しだけ足を緩める。
(追いかけてこなくなった? 本当に……?)
そう思って振り返りそうになるが、また追いつかれるのが怖くて、私は再びペースを上げた。
「はあ、はあ……こんなこと、想定してなかった……!」
どのくらい走ればいいのかもわからないまま、私は足を動かし続けた。靴が地面を擦る音と、自分の荒い息遣いだけが耳に響く。
(これ以上、こんな風に走り回るのは無理!)
それでも、ここで捕まるわけにはいかない。私は足の痛みをこらえながら、どうにかして第二王子の元に帰ることだけを考えていた。




