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019.決裂の山脈

 時は再び六年前—―。



 ◆



 森の中を走る馬車は、悪路を進むたびに大きく揺れ、車輪が軋む音が不気味に響いていた。被験者たちは馬車に体を預けながら、どこか安堵と疲労の入り混じった表情を浮かべている。誰もがすでに限界に近かったが、逃げ続けるしかないという現実が、彼らを無理にでも動かしていた。

 木々は次第に背が低くなり、道らしきものも途切れ途切れになっていく。時折馬が足を滑らせ、前輪が傾いた。それでも馬車は無理やり進んだ。走るというより、崩れた道を這うように進む形だった。


 遠くから蹄の音が聞こえた。振り返ると、一人の騎乗者が馬を駆りながらこちらへ近づいてくる。馬車の中からザフラン—―年齢は十一歳前後と言ったところ。褐色の肌に白髪の少年で、見える場所には傷らしきものは見えない—―がその姿を見つけると、冷めた声で呟いた。


「遅い、ダリオン」


 馬に乗ったダリオンが馬車の横に並び、疲れた面持ちの子供たちに視線を向けた。ぎこちなく微笑んでみせるが、その笑顔には隠しきれない緊張が滲んでいた。


「大丈夫だ、あと少しだ。ここを越えればいくらか安全なはずだ」


 ダリオンの言葉は希望を含んでいたが、その内容に確証はなかった。それでも、彼の声には被験者たちを奮い立たせる力があり、疲れ切った顔に微かな光が戻る者もいた。


 馬車は次第にその限界を迎え、軋み音が一際大きくなった後、ついに車軸が折れた。馬車内ではヴァリク以外の七人が各々悲鳴をあげ折り重なるようにひっくり返り、御者をしていたヴァリクは身体が前に投げ出され、馬の横に転がるように首から落下した。喉の奥から「グェッ」と蛙を潰したような声が出る。


「いてー! ヴァリク、てめぇこの野郎! 原初の闇の徒(ズァキル・ァグル)めが!」


 馬車内で抗議の声を上げたのは、セシル—―白髪に右眼球表面とその周囲に魔術式を刻んでいる十五歳前後の少年—―だ。その横で、ザフランが無言で何度も頷きながら俺を指差してくる。


「ご、ごめん! 皆大丈夫か?」


 慌てて起き上がり、左に大きく傾いた馬車内を覗き込む。


「痛い……パパ様どこ? パパ様抱っこして……」


ライラが呟く横で、がばりと身体を起こしたフィオナ—―白髪ポニーテール。鎖骨あたりから下全てに魔術式が刻まれている少女で、年の頃は十五歳前後か—―が叫ぶ。


「ああ! わたしの顔に槍が刺さってしまったではないかっ! ええい、顔には何も刻まれておらぬというのにっ! 全く以て()()()である!」


 フィオナが左目に槍を突き刺したままヴァリクを振り向き睨む。よく見れば零れ落ちた眼球がぶらんと顔に垂れ下がっており、振り向いた拍子に血飛沫がヴァネッサにかかり、彼女が「きゃあ!」と小さく悲鳴をあげた。

 馬車の後方、暗がりにはオスカーの姿がある。白髪を真ん中分けにした青年。頭の横に大きな傷と両耳の周囲に魔術式が刻まれている。そのオスカーが、何故か一人だけ全く無事な様子で隅に立っている。オスカーはそんな面々を見渡し、溜息をついて、手で耳を塞いだ。

 ヴァネッサ—―綺麗な真っ直ぐの長髪白髪の十七歳前後の少女、首元に魔術式が刻まれている—―が、喉を押さえ、何やら喉笛を押してパキリと鳴らしてから喋り出す。このヴァネッサの喉を押すのは、彼女の昔からの癖だ。


「フィオナちゃん、落ち着いて頂戴ね。お目目が零れちゃってるわ」

「む! ヴァネッサ姉、槍を抜いてくれっ!」

「やだぁ、無理ぃ……自分でやって頂戴」


 そんなオスカー以外の面々の足元、正確には尻の下から、声がする。


「……ガキ共、良いから退いてくれ。いい加減重い」


 最後に口を開いたのはユリウス—―歳はヴァリクに一番近い。ツンツンと逆立つ白髪に顔全体に魔術式を刻んでいる—―だ。彼はオスカー以外の全員に身体のどこかしらを踏まれ、立ち上がれずに呻いたのだ。

 年齢の若い順に、ライラ、ザフラン、フィオナ、セシル、ヴァネッサ、オスカー、ユリウス、ヴァリク。孤児院地下の研究施設で、これまで生存を許されていた計八名だ。

 何かしらの文句や無言の抗議をヴァリクに向ける面々に、ヴァリクはペコペコと頭を下げながら「ごめん、ごめん」と繰り返し、馬車の下を覗き込む。すぐにセシルが馬車を飛び降りて、ヴァリクの横から同じように馬車の下を覗き込む。馬を降りたダリオンもヴァリクのすぐ横に来た。


「……左前の車軸が折れてやがる。これじゃもう馬車は使えねぇぞ」


 セシルがヴァリクを睨みつけ、ヴァリクの尻に回し蹴りを入れる。


「こンの木偶の坊めが! 豚のように肥え太りやがって! てめぇが重いから折れちまったじゃねぇか!」

「あ、ちょ、やめ! やめて!」


 ヴァリクは尻にセシルの蹴りを受け思う。

 体が重いのは確かだが、身体は結構筋肉質だと自分では思っているのだ。それを、豚呼ばわりはいくらなんでも理不尽ではないか、と。


 動けなくなった馬車を捨て、被験者たちは徒歩で森を進むことになった。歩き始めてすぐは誰かしらの軽口が聞こえてきたが、次第に誰も言葉を発さなくなった。誰も何も言わず、ただ前を向いて歩き続けた。そこにあるのは無言の緊張感だけだった。




 風が止むことはなかった。目の前に待ち構える岩肌むき出しの山脈は、無言の威圧感を放ち、ヴァリクたちを拒絶しているかのようだった。足元には崩れた瓦礫が散らばり、冷たい風が吹き抜けるたびに小石が音を立てて転がった。それでも顔に諦めの色を見せることなく険しい山肌を見上げていた。

 ここまでの道中、高低差を感じることはなかった。聖王都を出て山脈の中で比較的低い箇所を目指し前進する道中、険しい道は無かった。森の中でもそれは変わらず、時折なだらかに地面が隆起しているような気がする程度である。

 それが、この山脈からは一変する。

 唐突に表れた壁のように、突然にそびえる山。まるで大地そのものが不自然に歪み、力ずくで押し上げられたかのような違和感があった。その急勾配は、自然の成り行きではなく、何か別の意志が形作ったもののように見える。

 ヴァリクは先頭に立つダリオンの背中を見つめ、彼の静かな指示を聞いていた。


「ここを登る。これが最後だ」


 ヴァリクはダリオンが少しだけ振り返り、彼らを励ますように頷いたのを見た。その瞬間、彼の胸には奇妙な不安が走った。これは本当に「最後」なのだろうか、と。

 登攀が始まった。ザフランが小柄な体を生かして素早く崖を登っていくのを見て、ヴァリクは心の中で驚嘆していた。素手で切り立った岩に取り付き、軽々と足場を乗り越えていく彼らの動きには、通常の人間では考えられないほどの正確さがあった。

 ヴァリクは胸の奥に押し寄せる焦燥感を感じながらも、ザフランに続きライラ、ユリウス、セシルと続く面々を見守る。ヴァリクの横ではオスカーが足を止め、耳を澄ませていた。


「この辺り……変な音がする」

「……なんなのだここは。肌がビリビリするではないか」


 フィオナが自分の両肩を撫でながら、ぼそりと呟く。二人はその身体に感知系の魔術式を刻まれている。この山脈に、一体何があるのだろうか。

 グッと眉間に力を入れたフィオナが岩場に手をかける。その後を追おうとして少し躊躇していたようだったヴァネッサの前を、オスカーがひょいひょいと進み、ヴァネッサの一歩目を補佐するために岩に捕まっていない側の手をヴァネッサに差し出した。


 ヴァリク自身も遅れることのないよう、登攀を開始した。手に触れる岩肌は冷たく、滑らかな部分が多い。それでも、体は自然に動き、足場を探し出しては一歩ずつ進む。風が吹き付けるたびに目を細め、小さな石が崩れて落ちていく音が耳に残った。


 途中、ザフランとセシルの声が聞こえた。


「そこ、掴める!」

「分かった……でも岩が揺れ—―」


 そちらを向くと、ザフランが足を滑らせて宙にぶら下がり、セシルがその手を掴もうとしているところだった。二人とも足場を失い、もがきながら必死に岩に取り付こうとしていた。しかし、その努力もむなしく、二人は崩れた岩とともに、切り立った岩場の向こう側に姿を消した。


「ザフラン! セシル!」


 ヴァリクは声を張り上げたが、下からは何の返事もなかった。崩れた岩の音が谷底へと吸い込まれるように消えていく。風の音だけが空気を満たし、そこに人の気配は感じられなかった。


 何か変な音がするとオスカーは言ったが、ヴァリクには何も聞こえなかった。仲間たちの足音と風の音が、その不気味な静寂を覆い隠していた。崖から落ちた程度で死ぬことはないだろう、早く迎えに行かねば—―と全員が考えているだろうと、ヴァリクは心の中で思う。

 さらに進む中、フィオナが疲労の色を隠しきれなくなっていた。彼女の肩が小刻みに震えているのがヴァリクの目にも明らかだった。その時、フィオナの足が滑り、彼女は岩肌にしがみついたまま動けなくなった。


「フィオナ、大丈夫か!」


 ヴァリクが声をかけると、彼女は小さく頷き、力を振り絞って体を持ち上げようとし—―その瞬間、顔色を変えた。


「岩が動いた! 足が抜けない!」


 フィオナが絶叫する。

 そして次の瞬間、フィオナが落下した。落下していく彼女の身体には違和感がある。右足の膝あたりから下が消失していた。そのまま落下したフィオナは、頭を逆さにして岩と岩の間に突き刺さるようにして墜落し、逆さまのまま、おそらくは頭を潰してしまったであろう状態で静止した。よく見れば彼女の腕と足が小刻みに痙攣している。


 その瞬間、背後で光が揺れ動くのが見えた。ヴァリクは振り返り、崖の下を見下ろした。地面に松明の明かりが蠢いている。聖騎士たちが追いつこうとしているのだ。


「追ってきている……!」


 ヴァリクの頭に緊張が走る。登らなければ、追いつかれる。だが、すでに幾人かの仲間が足場を失い、姿を消している状況で、これ以上登り続けることが正しいのか、判断がつかなかった。崖下に残したままのダリオンは間違いなく、捕縛されて処刑されてしまう。

 他の仲間はどうなった? どうしてこんなにも、皆足を取られたり、落下したりしているんだ?


「オスカー!」


 その時、ヴァネッサの叫び声が聞こえた。そちらを見るとオスカーの身体が岩に引っ掛かって、ぶらんと垂れ下がっている。そのオスカーの首はあり得ない角度に曲がっていて、既に骨は絶たれてしまっていて肉と皮だけで繋がっている。そんなヴァネッサが立つ岩場が唐突に割れ、ヴァネッサの身体が「きゃあ!」と最後の言葉を残し、その真っ黒な亀裂の中に飲み込まれた。


 さらに逆方向で悲鳴が上がった。ライラが岩に挟まり、絶叫している。彼女の小柄な体が岩の間で押し潰されそうになり、動けなくなっていた。


「ぎゃあああ! 痛い痛い痛い! 平らになっちゃう! わたし、ぺちゃんこになっちゃう!」


 ただの人であるダリオンの方が、被検体より余程死に近い。ヴァリクは迷うことなく足を止め、崖を飛び降りた。

 崖を駆け下りると、聖騎士たちがついに目の前に現れた。彼らはダリオンに視線を集中させている。ヴァリクは迷わず槍を胸に突き刺し、魔術を解放した。

 背中から光の羽根が広がり、体から恐怖が消え去るのを感じた。だが、理性は残っている。いくらかの手加減をして聖騎士たちを殴り殺さないように意識しながら牽制し、ダリオンを抱えこの場を去ればいいんだ。そう決意して奥歯を噛み締める。


「ヴァリク、やめろ。お前も逃げ――」


 その瞬間、ヴァリクの拳が、止めに入ろうとしたダリオンのこめかみに当たり、彼は意識を失った。


「しまった……!」


 ヴァリクは動かないダリオンを助け起こそうとしたが、彼は目を覚まさなかった。慌ててその身体を抱えて意識を取り戻させようと強く身体を揺するが、彼はぴくりとも動かない。激しく揺らしたからか、ヴァリクの血を被って真っ赤に染まっていく。

 振り返ると、聖騎士たちが無言で剣を構えている。ヴァリクは深く息を吐き、決意を固めた。


「他の仲間は回復不能なくらい欠損した。多分ほとんどが死んだ! 降伏する。……だが、これは俺が提案した計画だ。だから、ダリオン様を処刑しないでくれ!」



 ◆



 唯一無事だったユリウスがライラの元へ駆け寄り、岩を押し上げて彼女を引き出した。ライラは唇を噛み締めたまま、ユリウスに抱きかかえられ、助け出される。内臓が飛び出し、ほとんどの血液を流し終えてしまったように見えるが、挟まることを免れたライラの頭は、崖下を睨みつけている。


「ヴァリクが、パパ様殺した……わたし見た……」


 ライラの瞳には涙が滲んでいたが、その奥にはヴァリクへの激しい憎悪が燃えていた。


「パパ様弱いのに……ヴァリクが殴って殺した。許さない……絶対殺す……ヴァリク、絶対殺す」

「……はぁ? ヴァリクが?」


 次第に啜り泣き始める身体がぐちゃぐちゃになっているライラを見て、不審に思う。ヴァリクに至って、そんなことをするわけないだろうが。

 ユリウスは、山脈に点在する仲間たちの身体をどう回収するか、考えを一巡させた後、一人溜息をついた。

 ヴァリクとダリオンが捕まったか。流石に、すぐ行って彼らを救出することは難しいだろう。

 これが今生の別れにならないことを祈る他なかった。

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― 新着の感想 ―
非道な実験を繰り返されてはいても、各々に個性があっていいですね。状況は本当に悲惨なんでしょうが、それでも未成年らしいコミカルさがあって救われます。
第1章の終わりまで拝読させていただきました。 話の入り方がうまく、ほのぼのと読んでいたところからの、衝撃の英雄の真実でした。 ヴァリク様の人となりもいいですね。 個人的にはダリオン様がお気に入りで、急…
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