018.死の宣告
ヴァレンフォード家の広大な敷地を出て、夜道を歩くダリオンの胸には不快感が渦巻いていた。ヘンリーの勤務態度について報告を求められたときには、これがただの形式的な呼び出しだと気づいていた。それでも断るわけにはいかず、彼は忠実にヘンリーの仕事ぶりを説明した。
「勤務態度に問題なし」
と伝えたときの貴族の気の抜けた反応を思い出し、ダリオンは溜息を吐いた。「こんな時間を無駄にして、何になる……」と心の中で呟く。
街並みが徐々に遠ざかり、ヴァリクの邸宅が近づくにつれ、いつもなら感じる安堵感が今日は薄かった。逆に、何かが胸の奥でざわついている。
邸宅に着いたダリオンは、深呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。そして扉を開ける。しかし、普段なら玄関まで出迎えてくれるヴァリクの姿がない。
「ヴァリク様……?」
声を掛けてみるが、家の中は静まり返っている。玄関の薄暗い光がやけに冷たく感じられ、いつもとは違う不穏な空気に包まれていた。
靴音を忍ばせ、ダリオンは慎重に居間へと向かった。居間の扉を開けた瞬間、背中に突如として強い衝撃を受け、床に叩きつけられる。
「何の真似だ!」
ダリオンは叫ぶが、声がかき消されるように冷たい手が腕を後ろ手に縛り上げた。動こうとしても、力強い拘束に逆らうことはできない。
顔を上げて居間を見渡すと、そこには五人の聖騎士たちが立っていた。そのうちの一人が、上半身を裸にされ椅子に縛り付けられたユアンの隣に立ち、警戒するように目を光らせている。
「ユアン!」
ダリオンが名を呼ぶが、ユアンはぐったりとして反応がない。彼の顔には殴られた痕があり、口元には乾いた血が滲んでいる。よく見れば上半身にもいくつかのミミズ腫れが浮いていた。ユアンが拷問を受けたことは明らかであった。
居間のソファーには一人の女が腰掛けていた。女は背中を向けたまま、無造作に脚を組んでいる。女は手に煙草を持ち、吸うでもなくただその煙を燻らせている。その姿にダリオンは言葉を失った。
「……嘘だ……」
声にならない声で呟く。まさか、彼女がここにいるはずがない。
女は煙草の火をコーヒーテーブルに直接グリグリと押し付けた後、ゆっくりと振り返った。豊かにうねる金色の髪に、疲労からか深く刻まれた目の下の皺。そのすぐ上には、鷹のような鋭い眼を持っている。白衣を肩にかけ、身体のラインが見えるような細身のワンピースを着た女は、その冷たい目でダリオンを貫いた。
「久しぶりね、ダリオン」
皮肉めいた微笑みと共に放たれたその声に、ダリオンは背筋が凍る思いをした。
「エリザベス……」
名前を呟いたとき、体中から力が抜けるのを感じた。悪逆非道な魔術実験の中心人物であり、全ての悲劇を引き起こした張本人がここにいる。
「被験体は生きていたわね」
エリザベスは冷ややかな声で告げた。その言葉に、ダリオンは困惑する。
「そんなはずはありません!」
ダリオンは反射的に否定した。
「私は確かに、彼らの死亡をこの目で確認しました。蠢く山脈の岩と岩に挟まれてすり潰されたり、底が見えないような谷に落下したりして……」
言葉を詰まらせたダリオンは、記憶の中の光景を思い出していた。自分ではとても登りきれそうにない険しい山道を、ぴょんぴょんと飛び跳ねて進んでいく子供のうちの一人の姿が突然消える。かと思えば、別の子供は通り抜けようとした岩と岩に挟まれ、言葉にできないような悲鳴をあげてもがいた後、静かに意識を失う。
自分が脱出しよう等と提案し、それを実行したせいで子供達を……ヴァリク以外全員を殺してしまったのだ!
ノクスリッジ山脈に登り始めるまでは誰一人気付かなかった。カリストリア聖王国の目の前に立ち塞がるように存在するこの山脈。日々眺めていたのに、誰一人分からなかった。誰一人気付かなかった。この山脈は、まるで脈打つように一定のリズムで動いていたのだ。まるで呼吸をするかのように!
「……でも実際には被験体は生きていた。ダリオン……あなた、嘘の報告をしたということよね?」
エリザベスの言葉は鋭く、反論の余地を与えない。
「待ってください、私は嘘をついたわけでは……」
ダリオンは必死に抗議するが、エリザベスは意に介さない。
「では、今日、街で暴れたライラは何なのかしら?」
その言葉に、ダリオンの心が一瞬揺れた。目の前で岩と岩に挟まれ身体がペシャンコに押し潰され、絶叫の後に静かに絶命していったように見えたライラが生きている──その事実に、喜びが込み上げてくる。しかし、すぐにその感情が恐怖と混ざり合い、ダリオンの表情を曇らせた。
エリザベスはゆっくりと立ち上がり、ダリオンの前に歩み寄る。その目には冷酷な光が宿っていた。
「……雑念が多いと魔術に染まりにくいからこそ、無垢な子供を実験対象にしてきた。でも……大人の体で試してみるのも、面白いかもしれないわね。だって、どうせこの後処刑されるんだもの。その前に何をしたって自由じゃない。ねぇ、あなたもそう思うわよね? ダリオン」
囁くように言いながら、ダリオンの顔に手を伸ばす。その仕草はどこか慈悲のように見えたが、ダリオンを見つめるその目には一切の慈悲など存在していなかった。エリザベスが発したその言葉は、ダリオンを絶望に叩き落とした。
「……処刑?」
ダリオンの声は震え、唇がわずかに動くだけだった。
「ええ、無意味な実験でも、確認にはなるでしょう? やはり子供でないと、魔術を直接身体に刻み込むことなど出来ないって」
極寒の微笑みを向けるエリザベスの言葉に、ダリオンは全身から血の気が引いていくのを感じた。
「しかし、そんなことをすれば、ヴァリクはもうあなた方に逆らうと決めるかもしれない……ヴァリクを制御下に置くために、私の命が必要だったのではないのですか!」
「フ……フフフ……フフフフフ……」
精一杯の主張を、笑いで返される。
「……やはり馬鹿ね。愚かだわ。そんなことだから、何もかも中途半端な男なのよ」
薄らと笑みを浮かべたエリザベスは、俺の目の前の床に右手を突いた。そして、聞き慣れない詠唱をしながらゆっくりと立ち上がる。そのエリザベスの右手と床の間には、見慣れない複雑な魔法陣が浮いていた。
「……まだ分からないかしら。あなたが被験者を勝手に逃した後のこの六年間、ただヴァリクを弄り回して遊んでいたわけではないのよ。六年前は間に合わなかった魔術式が完成したわ。『不死者を殺す魔法』……つまりどういうことか、あなたにも分かるように教えてあげましょうか?」
エリザベスは手の中の魔法陣を掻き消し、先ほどと同じようにダリオンの顔に手を伸ばし──と思いきや、思いっきり髪を掴んで無理矢理に上を向かせた。淀んだ瞳のエリザベスと目が合う。
「──あなた、もう用済みなのよ」
居間に響く静寂の中、ダリオンは目を閉じた。自分がこれからどうなるのか、その未来があまりにも明確だった。
「こんなところで終わるのか……」
心の中で呟いた言葉は、彼に残された最後の希望をも奪い去った。
(ヴァリク……せめて、ヴァリクだけでも……)
それは、虚空に溶けていくような、あまりにも無意味な願いだった。




