017.暗闇に立った計画
今から六年ほど昔に遡る。
まだ、英雄と担ぎ上げられる前の話。
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孤児院地下の薄暗い廊下には、どこか重たい冷気が漂っていた。動くたびに湿った空気が肌にまとわりつき、息を吸い込むと喉の奥にじっとりとした違和感が残る。この場所の空気そのものが、希望を押しつぶそうとしているようだった。壁に埋め込まれた魔力灯が淡い光を放っているが、それすらもどこか病的で、不気味な静けさを際立たせていた。
ヴァリクは小さな部屋の片隅で膝を抱え込んでいた。荒い呼吸が喉から漏れ、額には汗が浮かんでいる。つい先ほど、「実験」と呼ばれる苦痛の時間が終わったばかりだった。今回は、「人体の強度向上」を名目とした実験だと言われ、セラフの聖槍の効果を確認するために、腕に鉄製のハンマーを何度も叩き込まれた。鈍い衝撃が骨に響くたび、何度も意識が途切れそうになった。それでも、痛みの中で心が折れないよう、ただひたすら時間が過ぎるのを祈るしかなかった。
個室に戻された後も胸の奥に鈍い痛みが残る。しかし、身体に刻まれた魔術式は、残酷なほどに速やかに俺の肉体を修復していく。どれだけ叩かれても、裂かれても、傷は跡形もなく消える。痛みの記憶だけは、体中に刻まれたままだというのに。こういう日は、立ち上がる気力すら奪われる。魔術式が「回復」ではなく、ただ命を延命させるための道具に過ぎないことを、嫌というほど理解させられる。
「ヴァリク、少し話がある」
静かな声が扉の向こうから聞こえ、ヴァリクは反射的に顔を上げた。扉が開き、そこに立っていたのはダリオン様だった。薄暗い光の中でも、顔は冷静さを崩していない。
「ダリオン様……」
俺はすぐに目を伏せ、小さな声で応じた。自分のような被験者が、観察官である彼に対して不用意に目を合わせることは許されない。
「今日の実験は終了と言われましたので……ここに」
ぎこちない敬語で説明すると、ダリオン様は小さく頷き、部屋の中に足を踏み入れた。扉をそっと閉める音が小さく響く。その瞬間、室内の空気が張り詰めたように感じた。地下の静寂が、ダリオン様のわずかな動きにすら重みを与える。俺の胸が、無意識にぎゅっと縮こまる。
「……あの、次の実験ですか?」
俺は恐る恐る尋ねた。ダリオン様が訪れる理由はほとんどが次の実験に関する指示だったからだ。ダリオン様は指示をする時、決まって酷く悲しそうな顔をする。しかし、今日の彼の顔にはそういった悲壮感は漂っていない。
「いや、違う」
ダリオン様は低く首を振る。その一言に、俺は少しだけ肩の力を抜いた。彼は部屋の中央に腰を下ろすと、俺をじっと見つめた。視線を受け止めきれず、俺は再び俯いた。
「ヴァリク、ここから逃げたいと思ったことはあるか?」
唐突な問いだった。
俺は目を見開いたが、すぐに言葉を失った。「逃げる」という言葉そのものが、この場所では禁忌だった。誰かがそれを口にするたび、捕らえられて罰を受ける。時にはその罰で命を落とす者もいた。耳にするだけで、寒気が背筋を走る。
過去、十年程前には逃亡を企む子供も多かった。しかし、すぐに捕まってお仕置きがされる。否、お仕置きなら良い方だ。
二回か三回の逃亡で、殺処分の対象となるのだ。俺の心臓に魔術式を刻むのに、逃亡した子の心臓で先に実験をした。いくつかの結果を得て、その子は殺処分されたと聞いている。今は、いくつかのサンプルだけがこの国のどこかに保管されているらしい。
俺は、体格が良くて体力があったから、生存を許されているようなものだ。
……この国の歪さを寄せ集めて出来たのが、この場所なのだろう。そんなことを毎日考えてしまうほどに、この実験はどうかしていた。
「……いえ、そんなことは……」
ぎこちなく答える俺に、ダリオン様は短く息を吐いた。その顔には、自嘲のような笑みが浮かんでいる。
「そうか。お前はそう思わないかもしれないが……俺はお前たちを逃がしたいと思っている」
驚いて顔を上げた。
「え……逃がす、ですか……?」
「そうだ」
ダリオン様の声は静かだったが、その瞳には強い意志が宿っていた。
「こんな場所にお前を置いておきたくない。それだけだ」
淡々と語るダリオン様の言葉には、自分自身への怒りのような感情が滲んでいた。
「でも……ダリオン様、それは……危険すぎるんじゃ……」
「分かっている」
俺の問いに、ダリオン様は短く答えた。その顔は冷静さを保っているが、その奥に秘められた決意が見て取れた。
「俺がこんなことをするのは、ある意味エゴかもしれない。お前たちをここから逃がしたいと思うのは……ただ、俺自身がそうしたいからだ」
俺は言葉を失った。その言葉が、本当にエゴなのか、それとも何かもっと別のものなのか、自分には判断がつかなかった。
「具体的にどうやって……ですか?」
ようやく口を開いた俺の声は、かすれていた。それでも、ダリオン様の言葉を聞き逃すまいと耳を傾ける。
「守衛の交代がある。その一瞬の隙をつく」
ダリオン様は簡潔に言った。彼の口調には迷いがなかった。
「俺が道を開ける。その間にお前たちが逃げるんだ」
「……他の子たちも、ですか?」
俺が小声で尋ねると、ダリオン様は頷いた。
「そうだ。他の被験者たちも連れて行く。そのためには、お前の存在が必要だ」
「俺の存在……?」
俺は困惑した表情でダリオン様を見つめた。
「一番年上のお前を、兄のように慕う奴も多い。誰にでも反抗的なライラやザフランも、お前の言葉には素直に従うことが多い。子供達をまとめるには、お前の協力が必要だ」
唯一優しく接してくれるダリオン様に頼りにされていると思うと、少しだけ勇気が湧いてくる。が、顔を合わせる度に膝裏に蹴りを入れてくるライラや、何かしらの凶悪な悪戯を仕掛けて遠くから無表情で観察してくるザフランが、俺の言葉には素直……と言われると、若干の腑に落ちなさは感じてしまう。
「準備はこれからだ。無理をしないようにしろ。次に俺が来たとき、動く準備をしておいてくれ」
ダリオン様はそう言うと立ち上がり、扉の方へ向かった。
「ダリオン様……本当に、大丈夫でしょうか。成功するのでしょうか」
俺が震える声で問いかけると、ダリオン様は振り返らずに答えた。
「成功させるしかない。それだけだ」
ダリオン様の言葉は淡々としていたが、その瞳には強い決意が宿っていた。それがどれほど危険なものであるか、そして彼自身がどれほどの覚悟を背負っているのかを、言葉以上に感じ取れる気がした。
扉が閉まる音だけが響き、部屋に残された俺は、胸の奥に小さな光が差し込んだような感覚を覚えた。
ここから出られるかもしれない。もしかしたら、元の国に帰って両親と再会することだって叶うかもしれない。両親は、魔術式の影響で真っ白になってしまった俺の髪を見てどう思うだろうか。それでも、俺の知る父上と母上は、喜んで迎え入れてくれる……そう思っている。
俺は、いつの間にかすっかり傷が癒えたのを確認して、立ち上がってベッドに潜り込んだ。
今日はよく眠れそうだ。




