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120.それでこそ、記者よ

 書斎の扉が、重く、静かに閉じられた。

 中に足を踏み入れた瞬間、私は自然と息を呑んでいた。部屋は薄暗く、カーテン越しの曇り空の光だけが、細く差し込んでいる。

 窓際の椅子に、男の背中があった。

 農地卿アティカス・ヴァレンフォード――かつては堂々とした姿を聖王都で見せていた彼の背は、今や小さく、どこか沈んで見える。だが次の瞬間、椅子が軋む音とともに、彼はゆっくりと振り返った。


「……来たか」


 たった一言。けれど、その声には、何重にも重ねられた疲労と覚悟が滲んでいた。

 私は一歩進み、丁寧に頭を下げた。


「カリストリア聖王国通信社のリリィ・マクダウェルです。本日は、お時間を頂きありがとうございます。ノルドウィスプで起きた一連の出来事について、現地の状況を確認させていただきたく……。とりわけ、今朝の広場での件と、第二王子殿下のご動向について、可能な範囲でお話を伺えればと思っております」


 アティカス様はしばし沈黙したまま、私を見据えていた。その瞳は鋭いが、決して敵意のあるものではなく、むしろ、こちらの本気を量ろうとするような眼差しだった。


「今朝、広場で一部の農民が拘束されている光景を目にしました。何が起きたのか、どのような判断の末だったのか、教えていただけますか?」


 私の問いかけに、アティカス様は机に肘をつき、額に手を添えた。ほんのわずかに目を伏せたその仕草が、答える前から、彼がどれほど心を痛めているのかを物語っていた。


「……吾輩は止めようとしたのだ。だが、すでに手遅れだった」


 ゆっくりと語られる声には、怒りと、悔しさと、それを押し殺す理性が混ざっていた。


「動いたのは、聖騎士団の一部。彼らは前軍防卿ガルヴェイン・ストラグナ―の命令を根拠に、異端の疑いありとして吾輩の農夫を拘束した。……命令そのものは古いものだった。だが、死者の意志は時に、生者を呪縛する。今や騎士たちは、彼の亡霊の命令に従って動いている」


 私は手帳に言葉を記しながら、耳を澄ませた。


「広場では、吾輩も抗議した。怒鳴り散らし、剣を抜こうとした者すらいたが......それでも、何も変わらなかった」


 アティカス様は拳を握りしめた。指の節が白くなるほど強く。


「……ザフラン様も動員されていた。吾輩は彼を退けようとしたが、それも叶わなかった。彼は……命令された存在に過ぎぬ。あの目を見れば分かる。もはや自らの意思で行動してはいない」


 その名を聞いて、私も僅かに息を呑んだ。新英雄と称されていたザフラン様が、まさかそんな形で広場に現れるだなんて。私はそっと筆を止め、目を上げた。


「そうした経緯があったのですね……。私が現地で見た光景は、あまりに異様で……。けれど、あなたが声を上げていたという事実を、今知ることができて、取材の意味が少し報われた気がします」


 ペンの先が手帳の上で一度止まる。私は視線を上げ、目の前の男に問いかけた。


「次に、お伺いしたいのは……レオンハルト殿下のご動向についてです。現在、殿下はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」


 短くも真っ直ぐな問い。けれど、アティカス様はすぐには答えなかった。机の上に組んでいた指がわずかに動き、数秒の沈黙のあと、低く呟くように言った。


「……吾輩が逃した」


 その言葉には、告白とも、決意ともつかぬ重さがあった。


「殿下は、この国を変えるおつもりだ。その覚悟を、吾輩は誰よりも近くで見てきた。ノルドウィスプに残っていては、その意志は潰されてしまう。だから……吾輩が逃した」


 その声音には、迷いのない静けさがあった。私は息をひそめて、続きを待った。


「この国は、『神託』という名の制度に支配されておる。王位継承も、政策も、法も。すべては神託という形で正当性を与えられた者の手に委ねられてきた」


 アティカス様は立ち上がり、窓のほうへと歩み寄る。灰色の空がその背中を鈍く照らす。


「だが、その神託は……本当に、今の王に与えられるべきものなのか? 現王が、王に相応しいのか? ……殿下は、そこに真っ向から異議を唱えようとしておられる」


 静かに振り返り、今度は私の目をまっすぐに捉えた。


「だから、『神託の儀式』を行う。神の名のもと、この国に問いかけるのだ。誰が王にふさわしいのかを――正統なる者は誰なのかを」


 私は、胸の奥がわずかに高鳴るのを感じながら問い返す。


「神託の儀式……それはつまり、第二王子殿下が『正統なる王位継承権を持つ者』であることを証明するための儀式、ということですね?」

「その通りだ。単なる政治的な正当性ではない。『神の選定』という、この国の根幹に触れる問いだ。それを、神に問う。殿下の道は、ただの反逆ではない。正面からこの国のあり方を問い直す行動なのだ」


 私は手帳を開き直し、細かくメモを取りながら言葉を選んだ。


「その儀式について、現時点でお話しいただける範囲の情報はありますか?」


 アティカス様は少しだけ肩を落とし、ため息にも似た呼吸のあと、再び椅子に腰を下ろした。


「場所は、『アルマ・ノエルの礼拝堂』だ。新聞記者であれば知っているだろう。カリストリア聖王国の建国初期から聖王都に存在する、由緒ある聖域。かつては、王家に継承の神託が下される儀式の場でもあった」


 私は頷く。地図上では聖王都の外れに近い場所だが、古い記録にたびたびその名が登場する。


「時期については……数日以内だ。詳細な日時は、しかるべき手段で改めて各報道機関に伝達する。殿下は、万が一にも『無効』の言い逃れができぬよう、正式な儀礼と準備を整えようとしておられる」

「報道機関の立会いも……想定されているのですか?」

「当然である。神託の結果は、閉ざされた礼拝堂の中だけに留めてはならぬ。民草に、カスパールに、正統なる者が誰かを知らしめねばならん。だからこそ、リリィ殿よ」


 そこで、アティカス様の声が少しだけ強くなった。


「貴殿には、その現場を見て、そして記せと伝えたい。誰かの意図に寄らぬ、ただひとつの真実を。記者としての矜持があるのならば、殿下の歩まれるその瞬間を、紙面に残してくれ」


 私は、ゆっくりとペンを置いた。数秒の静寂のあと、しっかりと顔を上げて、アティカス様を見つめる。


「……はい。お引き受けいたします。その時が来たならば、私の目で見て、耳で聞き、正しく記録し、伝えます」


 それが、記者としての務めであり、私に託された使命だと、自然に思えた。


 アティカス様は、目を閉じ、静かに頷いた。


「……それでこそ、記者よ」


 ふと、外の窓に目を向けると、曇り空の隙間から、わずかに陽の光が差していた。厚い雲に覆われながらも、確かにその先には光がある。私がこの手で記すのは、まさにその光でなくてはならないのだと、改めて思った。


「……本日は、貴重なお話をありがとうございました。頂いた情報は、大切に扱わせていただきます」


 私はそう言って深く頭を下げる。アティカス様は特に何も答えず、ただ椅子にもたれたまま、静かに目を閉じていた。

 沈黙の書斎。情報と覚悟が交差する空間で、私は再び手帳を抱えて立ち上がった。

 神が誰を選ぶのか。それを伝える筆になれるかどうかは、この先の私次第だ。

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