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119.ノルドウィスプの混乱

 薄曇りの空が広がっていた。

 私――リリィ・マクダウェルは、ノルドウィスプの町にたどり着いた。


 ひとりで町に足を踏み入れるのは、これが初めてではない。けれど、今回の空気はどこか違っていた。土を踏み固めた街道を踏みしめるたび、足元に広がる湿った泥が靴底に重さを加える。その音すらも、やけに耳に残った。

 妙に静かだった。この町はもう少し賑やかだったはずなのに、今はただ、雨上がりのような湿った匂いと、重苦しい沈黙だけが支配している。人影はまばらで、誰もが急ぎ足で移動しているように見えた。

 広場に差しかかると、私は息を呑んだ。そこにあったのは、明らかに異常な光景だった。


 泥の上に座り込まされている農夫たち。手足を縛られ、うつむいたまま、まるで処罰を待つ囚人のように並べられている。捕縛……されている? どうして?

 その周囲には、聖騎士たちの姿があった。白銀の鎧を身に纏い、長槍を構えた騎士たちは、言葉ひとつ発せず、黙々と警戒に当たっている。彼らのただならぬ気配が、広場全体――いえ、町全体の空気を凍らせていた。


(……何があったの?)


 私は立ち止まり、辺りを見渡した。捕らえられている農夫の中には、見覚えのある顔もあった。前回の取材でノルドウィスプに来た時、町を散策していて出会った人だった。彼らは時折声を潜めつつも、温和な態度で話を聞かせてくれた、おとなしくて誠実そうな人たちだ。それが……どうして?

 声をかけることもできず、私は広場の端をそっと歩いた。聖騎士たちの視線に気づかれないよう、極力目立たぬように。ここで下手に動けば、何かを誤解されるかもしれない。そんな緊張が、背中にじんわりと滲む。

 空気は重く、冷たい。私は、知らず知らずのうちに肩に力が入っていることに気づき、そっと息を吐いた。


(第二王子殿下は……やはり、もういらっしゃらないのかもしれない)


 今回の目的は、殿下への取材だった。けれど、ここに殿下の姿があるとは思えない。代わりにあるのは、捕らえられた民衆と、口を閉ざす聖騎士たちだけ。広場の奥には、重々しい軍用馬車の影が見えた。あれも、何か関係しているのだろうか。

 私は手帳をそっと撫でた。けれど、今はまだ、何も記せない。事態の全貌が見えないうちに言葉を残すのは、記者としてあまりに軽率だ。

 そのとき、視線の先に懐かしい建物が見えた。ヴァレンフォード邸――以前の取材で一度だけ訪れたことがある、あの屋敷。町がこの有様でも、その佇まいは変わらず、門は静かに閉ざされている。

 私は、そっと足を向けた。あの場所なら、何かが掴めるかもしれない。少なくとも、広場で無言を貫く騎士たちよりは、言葉を交わせる者がいるはずだ。


(……何が起きているのか、確かめないと)


 そう心に決めて、私は静かに歩き出した。


 ヴァレンフォード家の屋敷は、私の記憶にある場所と何ひとつ変わっていなかった。石造りの門と背の高い鉄柵に囲まれたその敷地は、ノルドウィスプの中心から少し離れた場所に位置していて、広場の喧噪からは距離がある。以前、ダリオンさんに取材したときに通ったこの道を、私はしっかりと覚えていた。


 重い門の前に足を止めると、すぐにその向こうから誰かが姿を現した。


「……おや。お見受けしたところ、リリィ様でいらっしゃいますね」


 落ち着いた声だった。門を開けて現れたのは、上背のある白髪の老人――ヴァレンフォード家の執事、確か名前は……シグルドさんといったか。黒の礼装に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばしているその姿は、以前見かけた時と変わっていないように思えた。


「はい。お久しぶりです。カリストリア聖王国通信社のリリィ・マクダウェルです。突然の訪問で申し訳ありません。もし可能であれば、第二王子殿下にお話を伺えないかと思いまして……」


 私の言葉に、シグルドさんは深々と一礼し、穏やかな口調で応じた。


「恐れ入ります。第二王子殿下は現在、この地にはおられません」

「……そうですか」


 少し落胆が声に滲んでしまったのを自覚する。でも、それなら――。


「でしたら、農地卿アティカス様にお話を伺いたいのですが、ご在宅でしょうか?」

「はい。ですが現在、アティカス様はご静養中でございます。ご様子を見てまいりますので、まずはどうぞ中へ。リリィ様が来られた際には、お通しするよう仰せつかっております」


「えっ……?」


 思わず驚きの声が漏れた。まるで私の訪問を予期していたような口ぶり。でも、私はこの町に着いてから誰にも声をかけていないし、事前に連絡を入れていたわけでもない。

 けれど、問い返す前に、シグルドさんは無言で門を開いた。


「お足元にお気をつけて」


 その声は落ち着いていて、以前と変わらぬ口調だったはずなのに、どこか底知れぬ深さを感じさせた。広場で見た異様な光景が、また脳裏をよぎる。


 私は軽く会釈して門をくぐった。敷地内はよく整えられており、季節の草花が咲き、外の張り詰めた空気とは打って変わって静謐さすら感じられる。案内された邸内の応接室には、白を基調とした家具が並び、小さなテーブルの上には、すでに温かいお茶が一人分用意されていた。

 これが偶然の準備とは思えない。あまりに整いすぎていて、胸の内に不穏なざわめきが広がった。


「アティカス様は、体調を崩されているわけではございません。ただ、ここ数日お疲れがたまっておりまして、現在はお部屋で静養されております」


 私が腰を下ろすと、シグルドさんが静かにそう告げた。表情には変化がない。それなのに、丁寧すぎる言葉の選び方が、逆にこの家に流れる緊張感を浮き彫りにしている気がした。


「……やはり、広場で見たことと何か関係が?」

「判断は、リリィ様にお任せいたします」


 正面から問いかけても、やはり答えはもらえない。けれど、否定もされないことが全てを物語っている気がした。私は指先でカップを持ち上げ、湯面を見つめる。広場の泥、捕らわれた農夫たちの沈黙――あの光景が、茶の表面に揺らめく幻のように浮かんで消えていく。

 お茶に口をつけた。熱すぎず、ほんのりとした香りと柔らかな味。優しいはずの温もりが、なぜか心に重く沈んでいく。


「少し落ち着かれましたか?」


 シグルドさんが問いかけてくる。私は、微かに頷いた。


「……ありがとうございます。けれど、ひとつだけ……気になることがあって」


 カップをソーサーに戻しながら、私は率直に問いかけた。


「先ほど仰っていましたよね。『お通しするように仰せつかっている』と。それは、一体どなたから……?」


 シグルドさんは、少しだけ間を置いてから、変わらぬ口調で答えた。


「第二王子殿下のご命令と、ロベリア様のご助言により、リリィ様がお越しの際にはお迎えするように、とのご指示を預かっております」

「えっ……?」


 口の中が乾いた。ロベリアさんが……? 第二王子殿下が……? でも、私は何も知らせていない。なら、どうやって……?


「すみません。ひとつだけ、聞いてもいいですか。そのご連絡は……どうやって?」


 シグルドさんは、ほんの少しだけ目を細めた。そして、やわらかく、しかしはっきりとした声で返した。


「恐れ入りますが、その件につきましては……私の口からご説明することはできません」


 やんわりと、けれど確実に遮られた。私はそれ以上、踏み込むのを躊躇った。強く問い詰めることはできない――それがこの場の空気だった。ここは取材先の屋敷であり、私はあくまで外部の来訪者。今はまだ、歓迎されている範囲に留まっているにすぎない。


「……そう、ですか」


 ぼそりと返す。シグルドさんは何事もなかったように、机の上の茶器の位置を整えていた。

 私は自分のノートを軽く開いた。メモを取るべきか迷ったけれど、書けることは少ない。肝心な情報には触れられず、今のところ得られたのは、第二王子殿下から私宛に準備されていたということ。


「……アティカス様には、お目にかかれますか?」


 考えても答えが出そうにない問いを一度棚上げし、私は話題を切り替えた。もともと、私は農地卿アティカスへの取材を目的にこの町へ来たのだ。その目的に立ち返るべきだと思った。

 するとシグルドさんは、少しだけ困ったように眉を下げ、手を組んだ。


「アティカス様は現在、ご自宅にてご静養中でございます。……お怪我や病ではございませんが、精神的にお疲れのご様子でして」


 ……やはり。今の広場の光景を見れば、その『お疲れ』の内容が、単なる公務の疲れではないことは明らかだった。


「面会をご希望であれば、わたくしからお取次ぎいたします。ただ……ご静養中でございますゆえ、長時間の面会は難しいかもしれません」

「それでも構いません。短時間でも……少しだけ、お話を伺いたいのです」


 シグルドさんは深く頷いた。


「承知いたしました。少々お待ちくださいませ」


 そう言って彼が部屋を後にしたとき、私はそっと息を吐いた。静かな部屋の中に、自分の鼓動がやけに大きく響いている気がした。ここノルドウィスプで、いったい何が起きているのか。広場の空気、シグルドさんの応対、そしてあの言えない連絡手段。

 探らなければならないことは、思った以上に多そうだった。


 応接室の扉が、静かに開いた。


「お待たせいたしました」


 戻ってきたシグルドさんは、最初に見せた微笑みをそのままに、私の前に再び座った。


「アティカス様にお取次ぎいたしました。ご面会自体は――可能とのことでございます」


 その言葉に、私は小さく息を吐いた。許可がもらえるとは、思っていなかったわけではない。けれど、これまでのやり取りの中で、ほんの少し不安があったのも事実だった。こうして言葉にしてもらえて、ようやく肩の力が抜けた気がした。


「ありがとうございます」


 思わず少し深く頭を下げてしまう。だが、すぐにシグルドさんの言葉が続いた。


「ただし……」


 その一言に、私は顔を上げる。


「……本日はあまりご気分が優れないご様子でして、面会時間は短めにしていただきたく存じます」


 私は頷いた。気持ちは十分に分かる。あの広場の出来事を目の当たりにした後で、何も感じずにいられるはずがない。アティカス様が静養中であるという表現の裏には、きっともっと複雑な、心の乱れがあるのだろう。そう思えば、会えるだけでもありがたい。


「もちろん、ほんの少し、お話を伺えれば」


 私がそう答えると、シグルドさんは、まるでそれを見越していたようにすぐに立ち上がった。


「では、ご案内いたします。どうぞ、こちらへ」


 私はノートを胸に抱え、シグルドさんのあとに続いて応接室を出た。

 館内の廊下は、驚くほど静まり返っていた。昼間だというのに、まるで誰も息をひそめているような、そんな張りつめた空気が満ちていた。シグルドさんの歩く速度はゆったりとしていたが、私の鼓動は早まっていた。いったい、何から聞くべきなのか。私が今ここで引き出すべき言葉とは、どんなものなのか。何より――このノルドウィスプという町に、何が起きているのか。

 角を一つ曲がったところで、シグルドさんがふと立ち止まった。


「……アティカス様は、書斎におられます。すぐにご案内いたしますが……」


 彼は、少しだけ声を落とした。


「どうか、あまり刺激なさらぬよう……お願い申し上げます」


 その目は真剣だった。私はただ、静かに頷くことしかできなかった。

 すでに心が乱れているのは、広場のあの光景を見れば明らかだった。アティカス様は、貴族として国に仕える身でありながら、聖騎士たちが農夫を拘束する姿を黙って見ていた。いや、見ているしかなかった。そんな状況が、どれほど人の心を追い詰めるか、想像に難くない。

 大丈夫。ほんの少しだけ話ができればいい。

 この混乱の中で、何が起きて、何が間違っているのか。それを一言でも、彼の口から聞くことができれば、それだけでいい。


「……準備はできています」


 私はそう自分に言い聞かせるように呟いた。そして、シグルドさんが扉のノブに手をかけた時――私の心は、静かに覚悟を決めていた。

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