114.ちゃんと伝えたい真実
静まり返った室内に、波音だけが微かに届いていた。明かりは最小限で、質素な家具と椅子が並ぶ空間。海辺の空き家を少しだけ手入れしたような、そんな部屋だった。
その一角で、私はヴァリクさんを見つめていた。
「五年半前……軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーが初めて指揮に立った戦いで、たくさんの聖騎士が死にました。あの件について、ヴァリクさんは何かご存じではありませんか」
私は出来る限り平静な声で言葉を紡ぐように努めた。しかし、内心には記者としての責任と、ひとりの娘としての強い感情が渦巻いていた。
ヴァリクさんは、すぐには返事をしなかった。その大きな体がわずかに揺れ、目を伏せたまま沈黙が落ちる。
「……知ってます。でも、話せません」
絞り出すような声だった。その直後、彼は突然踵を返して駆け出した。彼は顔を背け、出口の方へ向かう。わずかによろめくような足取りで、ドアの向こうへと消えた。
「……ごめんなさい。無理だ」
「なんでですか! 一体、何があったんですか!」
その声が背中越しに届き、私はただその場で見送った。追いかけることもできず、ただ彼の姿が消えた扉の方を見つめ続ける。
室内に静けさが戻る。その沈黙の中、レオンハルト殿下がゆっくりと息を吐き、静かに口を開いた。
「ガルヴェイン……貴様は、あれに取材しようとしていたのだな」
「……はい。本来は、軍防卿に記者として直接話を聞くつもりでした。私が記者を志したのは、父の死が理由です。でも、それがもう叶わなくなったから……」
私は一度言葉を切り、深く息を吸い込んで気持ちを整える。
「だから、もしかしたら立場上、知っているかもしれないヴァリクさんに取材がしたかったんです。あの戦場で、何があったのかを。父から届いた手紙は一体何だったのかを」
殿下はしばし黙っていたが、やがてゆっくりとうつむいた。
「……そなたが軍防卿に問おうとしていたこと。我があの場でその機会を奪ってしまったこと、改めて詫びよう。すまなかった」
その声音は静かで、揺るぎない真摯さに満ちていた。
「いえ……私の方こそ、私情を挟んでしまってすみません……でも、私の父の仇のように思っていた人なので……こんなことを言っては不謹慎ですが、少しだけスッキリしました。ありがとうございました……」
「……そうか」
殿下が短く返事をして、再び沈黙が部屋を包む。波音だけが、遠くで変わらずに響いていた。
その時、扉が静かに開いた。
「……お久しぶりです、ロベリア殿」
姿を現したのは、親しみやすい笑顔を浮かべ、左右に髪を分けた端正な顔立ちが目を引く男、ヘンリーさんだった。
「ヘンリーさん……!」
私は立ち上がりかけたが、彼はゆるやかに片手を上げて制した。
「移動でお疲れでしょう。お構いなく。ヴァリク様は、不器用な方です。ロベリア殿にどう伝えるべきか、言葉を迷っているご様子です。どうか、お許しください」
その直後、彼の背後から、さらにもう一人の男が姿を現した。杖をついて歩くその男は、疲労の色を濃く滲ませていた。整えられた鼻下の口髭に、鋭い目元には真剣な光を宿している。
私は、その男が誰なのかを思い出すのに、数秒を要した。少し頬がこけていて、初対面の時とは印象がまるで違っていたのだ。
「……ダリオンさん……ですか?」
私はおそるおそるその名を口にした。彼が誰であるか、心のどこかでは既に理解していた。だが、確信を持ちたくて、あるいは口にすることで現実味を帯びさせたくて、問いかけるように名を呼んだ。
目の前の男――ダリオンさんは、わずかに頷いた。深い影を落とした顔には、今はただ深く、静かな悔悟の色がにじんでいた。彼は片手に分厚い紙束を抱えていて、そっとそれを私の方へと差し出した。
「すまない、遅くなった。エリザベス・クロフォードの論文と、被験者たちに関する過去の記録を……思い出せるだけ思い出して、技術的な補足も加え、自分なりにまとめた。……役立ててくれ」
その声には、かつて魔術実験に関わった者の責任と、深く刻まれた後悔が滲んでいた。私は、一瞬だけ迷うようにその資料を見つめ、そっと手を伸ばした。指先が紙に触れた瞬間、思ったよりもその束が重たいことに気づく。重さ――それは物理的なものだけではない。そこに綴られているのは、おそらく多くの人が知りたがりながらも、知らずにいた方が幸せだったかもしれない真実たちに思えた。
「カリストリア聖王国通信社から……依頼していた……! 論文の……!」
かすれそうな声でそう言いながら、私はその紙束を両手で抱きしめるように受け取り、膝の上にそっと乗せた。ページの隙間から、幾重にも折り重なった文字と図面が覗く。それらはどれも手書きで、丁寧に、慎重に書き記された跡が見て取れた。
分厚い紙束。だが、ただ分量があるだけではない。そこに込められた時間と痛み、そして贖罪の想いが、その重さを何倍にも増幅させている気がした。
ダリオンさんはそっと息を吐いて、ゆっくりと続ける。
「ああ。ノルドウィスプでは……仕上げきれなかった。告発記事には……間に合わなかったか」
「気にしないでよ、おじさん。あくまで、あれは第一弾だからさぁ。聖王国教会の出方が分からない状況で、何もかも大っぴらに報道するわけにはいかなかったんだよねぇ」
「えっと、この人は我が社の協力者のアンドリューさんで……ここに辿り着くまでにご協力頂いています。第一弾の告発記事の公開にもご協力頂いた方です」
私はひとつ咳払いをすると、胸に手を当てて僅かに頭を下げた。
「ダリオンさん。ご協力、ありがとうございました」
「……ヴァリクの取材、無理矢理でかまわない。続けてはもらえないだろうか」
ダリオンさんは、返事の代わりに
「……ガルヴェインの初陣に、ヴァリクも同行していたんだ。実戦に出すつもりじゃなかった。あくまで後方で様子を見る予定だった……が、ガルヴェインの想定以上に展開が崩れた」
ダリオンさんの声は、静かで重たかった。まるで一言ごとに何かを背負うように、ゆっくりと語られていく。
「聖騎士たちは多くが斃れた。無残な姿で……あの場にいた者で、何かが変わらなかった者はいなかった。ヴァリクは、それを目の当たりにした。――だから、ヴァリクは戦場に出るようになった。自分が代わりに戦えば、他の誰かが死ななくて済むと、そう思い込んで」
私は膝の上の資料に視線を落としながら、耳を澄ます。ダリオンさんの語りは続く。
「彼は、死んだ聖騎士たちのポケットや鎧の隙間から、手紙や形見を拾い集めた。名前が書かれていれば、それも一つ一つ記憶していた。何か抱えてるとは思ってたが……まさか、そんなことをしていたとは思わなかった」
ダリオンさんの視線が遠くを見つめる。
「手紙や形見は俺が受け取った。ヴァリクは、自分が出したと知られるのことで遺族に恨まれると思っていた。それに、手紙の出し方なんて知らない。だから、ヴァリクの代わりに俺が少しずつ、匿名で遺族へ送った。検閲が入ったせいで、一部の手紙は届けられなかったが……それでも、何割かは届いたはずだ」
……届いた。
その言葉が、私の胸を打つ。父の訃報の後、私のもとに届いた、あの父の手紙――震える字で書かれていたあの文面。あれは、確かに戦場からのものだったのだ。
そして、それを、届けてくれたのは。
「ヴァリクは、自分が死ねない存在であるにもかかわらず、あの場で自らを犠牲にしなかったことを……聖騎士たちを大勢死なせたことを、……それを悔いている。そして、自分が殺したと思い込んでいるんだ。今でもな」
私の中で、何かが弾けるように動き出した。
「……そういうことだったんですか」
私が発した言葉は、音になっていなかった。でも、心の中は嵐のようだった。
そうか。そういうことだったんですか。
私に届いた、あの手紙。父が最期に書いた、短い、震える文字。それは、誰かに拾われ、誰かの手を経て、検閲をすり抜けて、私のもとへと届いた。
それを運んでくれたのが――ヴァリクさんだった。拾い集め、守ってくれたのが、彼だった。
それを託され、届ける手配を整えてくれたのが、ダリオンさんだった。
あの言葉があったから、私は今まで前を向いてこられた。あの手紙があったから、私は記者になった。あの文字があったから、父の死をただの消失ではなく、意思のある最期として受け止めることができた。ずっと心の支えだったんだ。たった数行の手紙が、どれだけ私を救ってくれたことか。
なのに、あの人は――ヴァリクさんは、あんなにも怯えた顔をして、私から逃げた。まるで私に責められるとでも思っているかのように。
違います。そんなわけない。
私にとってヴァリク・ヴェルナードは、憎む相手なんかじゃない。――感謝するべき相手だ。
彼がいたから、父の言葉が届いた。彼がいたから、私はここまで歩いてこられた。
それなのに――
どうして、そんなに自分を責めるんですか。どうして、そんなふうに目を逸らすんですか。どうして、そんな大事なことを、何も言ってくれなかったんですか。
ありがとう、の一言さえ言わせてくれないなんて、不器用にもほどがありますよ。
胸の奥が熱くなる。怒りとも、悲しみともつかない感情が、渦を巻いていた。
私は立ち上がった。手には、ダリオンさんから受け取った資料。ぎゅっとそれを抱きしめてから、アンドリューさんに押し付けるように手渡した。
揺るぎない何かが、私の胸の中に灯っていた。
あなたに、ちゃんと伝えたい真実があるから。
「やっぱり、今、聞かなくちゃいけません。ヴァリクさんにインタビューしなくちゃいけないって、分かりました」
「……レオンハルト殿下たちとの話は、こっちでやっておくよ」
重そうな書類を軽々と掲げるアンドリューさんを一瞥し、それから殿下、ヘンリーさん、そして最後にダリオンさんを見つめた。
「ダリオンさん、父の形見、届きました。ありがとうございます」
私は僅かに目を見開いた彼から視線を外し、しばし天井を仰いだ。そして、静かに立ち上がる。
「……行ってきます」
私は扉の方へと足を向ける。そして、夜の空気を裂くように扉を開けて、外へと飛び出した。




