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107.(……誰?)

 カリストリア聖王国通信社の空気は、ひどく重かった。

 事件から数日が経ったというのに、誰一人として普段通りに戻れずにいる。告発記事が世に出て、軍防卿が死に、聖審院が動き出した。それでも、この新聞社に満ちているのは虚脱感だった。


 クロニクル・トレイルの記者二名の死。


 私――ロベリアは、机の上に積まれた資料の束を見つめたまま、溜息をつく。記事を書こうにも、思考がまとまらない。目の前にはすでに五割程書き上げた原稿がある。だが、どうしてもそれ以上の筆が進まなかった。

 告発記事は出した。私たちの仕事は、ひとまず終えたはずだ。それなのに、心の中にぽっかりと空いた穴が塞がらない。


(クロニクル・トレイルの二人がいなくなったから?)


 情報はある。動きもある。それでも、あの二人が犠牲となってしまった不条理は、この新聞社にとって想像以上に大きな傷を残していた。


 ふと、視線を上げると、カミラさんが机の上の紙をじっと見つめていた。エクリヴァムの、彼らの最期の言葉を記した紙。彼女は、復帰してから何度も読み返しているようだった。


「……カミラさん、少し休んだ方がいいんじゃないですか?」


 声をかけると、カミラさんはかすかに顔を上げた。目の下には薄く隈が浮かび、唇を噛みしめている。


「……いえ、わたくしなら大丈夫です」


 口ではそう言うけれど、まるで大丈夫には見えない。数日前まで、彼女は新聞社にすら姿を見せず、休暇を取っていた。ようやく戻ってきたものの、まだ完全に気持ちが切り替わったわけではないのだろう。

 他の記者たちも、皆どこかぼんやりとしていた。エドガーさんは机に突っ伏したまま動かないし、リリィさんは何かを書こうとしては手を止めるのを繰り返している。

 トーマス編集長も、いつも以上に寡黙で、ただ原稿に目を通す手だけが動いていた。


 新聞社全体が、まるで葬式のように沈んでいるように感じた。


 その時――扉が開く音がした。


 ぎぃ、と微かに軋む音。だが、誰もそれを気にする者はいなかった。

 入り口から入ってきた男は、まるで自分の居場所に帰ってきたかのような顔で、迷いなく歩いてくる。私は、思わず顔を上げた。


(……誰?)


 黒髪をセンター分けにし、やや長めの前髪がさらりと揺れる。耳にはいくつものピアスが光り、口元にも小さなリングピアスがついている。派手な外見のその男は、誰に断るでもなく椅子を引いて座った。当然のように足を組み、背もたれにゆったりと体重を預ける。そして、彼は誰に話しかけるでもなく、あまりに自然な調子で言葉を紡いだ。


「ただいま。いやぁ、流石に心配かけた? 相棒の方が入院になって、すぐに顔出せなかったからさぁ」


 ……彼は、何を言っているのだろう?

 新聞社の空気が、一瞬で張り詰める。誰も彼に声をかけず、誰も動かない。


「告発記事は無事に出せたみたいだけどさぁ、状況どう? オレだけなら動けるんだけどさぁ、なんか手伝うことある?」


 周囲を見渡すと、皆が何も言わずに男を見つめていた。お互いが顔を見合わせ、トーマス編集長が眉を寄せ、リリィさんがペンを持ったまま動きを止める。カミラさんに至っては目を細め、じっと男を観察していた。

 自分もカリストリア聖王国通信社の人間であるかのように振る舞うこの男は、明らかに見覚えのない顔だった。

 どうやら、この場にいる誰もが、同じことを思っているようだ。


 ふと、静寂が落ちた。

 男は、その沈黙をしばらく受け止めた後、軽く眉を上げた。


「あれ? ……ああ、なるほどね」


 ようやく気づいたらしい。誰も反応していないことに。誰も彼を認識できていないことに。

 男は肩をすくめると、まるで「仕方ないな」とでも言いたげな表情を浮かべながら、懐に手を突っ込む。次の瞬間、男は黒縁眼鏡を取り出し、無造作にかけた。そして、もう片方の手で髪を束ねる。


「……これで分かる?」


 その瞬間――カミラさんが息を呑む音が聞こえた。リリィさんが硬直し、エドガーさんが目を見開いた。トーマス編集長でさえ、一瞬だけ表情を強張らせた。

 誰もが理解した。黒縁眼鏡にローポニーテール。目の前の男は――オカルト雑誌「クロニクル・トレイル」の記者、アーレン・ストラフィルドだった。


 それまでの沈黙が嘘のように、周囲の記者たちが、ざわめき始めた。

 エドガーさんがガタガタと大きな音を立て、椅子をひっくり返しながら立ち上がり怒鳴った。


「だ、誰だお前!」

「はぁ? まだ分かんないの? アーレンだけど?」

「そ、そうじゃないだろ! 生きて……いや、おかしいだろ! なんでピアスまみれになってんだ! なんか違うだろ! お前、そんな感じじゃなかったよな!?」

「あのさぁ、こっちが素なんだよねぇ。慣れてくれる?」

「なんだそれ! わっけわからん! クソッ!」


 口調こそ違うが、少し聞き慣れ始めていたその声を聞いていると、じわじわと彼が生きていたという実感が湧いてきた。

 あの日、屋上から転落し、死亡が確認されたはずの彼が、こうして、何事もなかったかのように新聞社に戻ってきたのだ。


「……さて、と。改めて、オレたちが死んだことになってるから、そこんとこから説明するかぁ」


 アーレンさんは指を鳴らしながら、気だるげに椅子に座り直した。新聞社の空気は、まだ完全には解凍されていない。

 室内には静けさが広がっていた。誰もがアーレンさんの言葉を待っている。けれど、その表情には微妙な違和感があった。納得したいのに、すぐには飲み込めない。そんな迷いが、記者たちの視線や仕草から感じ取れる。


「まず、死んだことになってるけど、見ての通り、オレは生きてる。まぁ、あのまま逃げ切るって手もあったけど、正直に言えば……死んだふりした方が、世間を味方につけやすいと思ってさぁ」


 当然のように言う彼に、私は改めて息をのむ。

 彼が目の前にいるということは、私たちが書いた「クロニクル・トレイルの記者二名死亡」という記事は、計画的な偽装だった。まるで信じられない話だが、アーレンさんがこうして目の前にいる以上、現実として受け止めるしかない。


「軍防卿に追われたのは事実だし、異端として捕まる寸前だった。でも、そこで普通に逃げても『異端者が逃げた』で終わるだろ? だったら、むしろ追い詰められて自殺に追い込まれたことにしたほうが、こっちにとって得じゃねぇ?」


 彼はそう言いながら、口元を歪める。「死者」として同情を集め、世論を操作するための演出――それが彼らの選んだ手だった。

 私は思わず口を開いた。


「でも……そんな形で世論を動かすのって、本当に良かったんですか?」


 彼らが行ったことは、明らかに意図的な情報操作だった。クロニクル・トレイルの記者二名が死に追い込まれたという構図は、確かに人々の感情を揺さぶった。しかし、それがもし虚構だと知られたら、逆に信頼を失う可能性だってある。


「確かにねぇ。でも、お嬢さんは気づいてる? 今、世間がどうなってるか」


アーレンさんは肩をすくめながら、軽く指を弾いた。


「街を歩いてごらんよ。オレたちの慰霊祭壇ができてるし、告発記事に対する反応も上々だ。真実を追及しただけの異端を追い詰める偉いヤツって構図に、疑問を持ち始めたヤツらが増えてんだよ」


 そのアーレンさんの反論に、私は思わず息を呑んだ。


「そんなに……?」

「まあ、全員がそうってわけじゃないだろうけどさぁ。でも、今まで上の言うことを盲信してた連中も、少しずつ揺らぎ始めてる。記事が出た直後から、聖王都のあちこちで『これはおかしいんじゃないか』って声が上がってるらしいしさぁ?」


 私は、新聞社に届いた手紙の束を思い出した。記事が出てからというもの、読者からの反応は明らかに増えていた。中には「クロニクル・トレイルの記者たちの死を無駄にしないでほしい」と書かれたものもあった。


「……そういうことですか」


 私の生返事に、アーレンさんはニヤリと笑った。

 横にいるエドガーさんは「……なるほどな」と苦い顔をする。まんまと世論を味方につけた彼らの策略について、新聞社の記者としては複雑に思う部分もあるのかもしれない。


「結局のところ、オレたちは事実を広めたいだけさ。手段がちょっと派手だっただけだよ。……まぁ、実際にはオレたちの方もギリギリでさぁ。ハロルド――じゃなくて、ハレックの方は負傷しちまって、今も入院中。本当は死ぬ予定だったのはハレックだけだったんだよ。だけど、武器持った相手に囲まれてたし、なんか気分も良かったからオレも死んどくかぁって思っちゃってさぁ。今ハレックは動けないから、オレだけ先に顔を出しに来たってわけ」

「……なるほどな」


 トーマス編集長が腕を組みながら、ゆっくりと頷いた。それを合図に、新聞社の空気が、少しずつ落ち着きを取り戻していくのを感じた。誰もが、まだ半信半疑ではあるが、彼が本当にアーレンであることを受け入れ始めたのだ。


「それで、オレがいない間に、どこまで話が進んだ? 告発記事の第二弾は予定してんだろ?」


 そう尋ねるアーレンさんの声には、いつもの軽さが戻っていた。まるで、「しばらく休んでただけ」のように、自然に話を進めようとしている。

 その瞬間だった。


 室内に、バシンという鋭い音が響いた。

 カミラさんの手が、勢いよくアーレンさんの頬を打ち抜いたのだ。


「……生きてたなら……」


 カミラさんが、震える声で呟く。


「生きてたのなら……生きてたのなら、どうしてもっと早く説明に来てくれなかったんです?! わたくしが、どんな思いで……」


 その問いに、アーレンさんは満面の笑みを浮かべた。


「おっと? オレたちのために泣いてくれる感じ?」

「……泣くに決まっています!」


 カミラさんの目には、すでに涙が滲んでいた。驚愕するアーレンさんの前で、彼女は堪えきれずに嗚咽を漏らす。

 アーレンさんは頬を押さえながら、気まずそうに視線を逸らした。


「わたくしは、あなたがたを目の前で見殺しに……してしまったと……思って……」

「……まぁ、これは、うん……オレたちが悪いよなぁ……」

「本当に……わたくしが、どれほど後悔したことか、わかりますか……?」


 静かな声には、強い感情が滲んでいた。アーレンさんは一度目を閉じ、それから肩をすくめた。


「……まあ、わかってるつもりだよ。でもさぁ」


 カミラさんの手が再び振り上げられる。今度は寸前で止まったが、彼女の手は小刻みに震えていた。


「……許しません」


 彼女は短く、はっきりとした声で言い放った。


「生きていたことは……よかったです。でも、許しません。何をどう言われても、今すぐに気持ちを切り替えることなんて、できません」

「なんでぇ? オレ、ちゃんとこうして戻ってきたしさぁ。今、目の前で『生きててよかった』って泣いてくれたよな? だったらもう、良くない?」

「良くないです!」


 カミラさんは怒鳴った。


「あなたがたが勝手に死んだふりをしたせいで、どれほどの人が絶望したと思っているのですか?! みんな……本当に、あなたたちが死んだと思って……どれだけ……どれだけ……」


 カミラさんの肩が小刻みに震えていた。アーレンさんは、ふっと口をつぐんだ。しばらくの沈黙のあと、彼は僅かに目を伏せ、気まずそうに言う。


「……まぁ、そう言われると、うん……悪かった?」

「悪かった、じゃありません!」


 カミラさんは涙を拭おうともせず、肩で息をしながらアーレンさんを睨みつける。その目には、まだ怒りが宿っていた。

 私はそのやり取りを静かに見守っていた。

 カミラさんは、アーレンが生きていたことに心の底から安堵しているのだろう。でも、それと「許す」という感情は別だった。ずっと彼の死を悼んでいたからこそ、簡単に割り切ることなどできない。


 アーレンは、胸ポケットから煙草を取り出し、それを指の間で弄びながらぽつりと呟いた。


「……で、これからハレックのとこ、行く予定だったんだけどさぁ……行ける人いる?」

「あ!」


 私は、思わず椅子から立ち上がりかけた。


「入院って、もしかして大怪我されてるんですか? どれくらいのお怪我を? ご無事なんですか?」


 アーレンさんは、私の剣幕に「おっと」と身を引いたが、表情は変えない。


「大丈夫。命に別状はねぇさ。ただ、腹が裂けてるから、しばらく安静だな」


 カミラさんが、少し迷うように視線を落としながら、それでもきっぱりと口を開いた。


「……行きます」


 アーレンさんは煙草を指先でくるりと回しながら、カミラさんを見やる。


「まだ怒ってるくせに?」

「怒ってます。でも、それとこれとは別です。ハレックさんが怪我をされているなら、お見舞いに行くのは当然でしょう?」


 カミラさんは頑なに腕を組み、視線をそらす。その表情には、まだわだかまりが残っていたが、それよりも、ハレックさんの安否が気になっているのは明白だった。

 そんなやり取りを見ているうちに、私まで次第に落ち着かなくなってきた。


「……私も行きます」


 自然と、そう口にしていた。アーレンさんが、少し驚いたように私を見た。


「へぇ、お嬢さんも?」

「当然です。お二人には記事のことで散々助けていただいたんですから……私も、お見舞いに行かせてください」


 カミラさんが、私の言葉にこくりと頷く。


「決まりですね。では、すぐに行きましょう」


 結論が出たと判断したのか、アーレンさんは手にしていた煙草を軽く指で弾いた後、オイルライターを取り出して火をつけようとした。

 しかし、その瞬間、パシンッと乾いた音が響き、彼の頭に書類の束が振り下ろされた。


「ここは禁煙だ。吸うなら休憩室に行ってくれんか」


 あきれたような声色でそう告げたのは、トーマス編集長だった。アーレンさんは煙草を咥えたまま、わざとらしく唇を尖らせるが、そのまま肩をすくめ立ち上がった。


「はいはい、じゃあお利口さんに休憩室行きますよっと」


 そう言いながら、だらりとした足取りで部屋を出ていく。カミラさんと私は顔を見合わせ、少しだけ肩の力が抜けた。

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