105.(おっぱい、でっっっっか!)
王都の空は鈍色に曇り、冷たい風が街を吹き抜けていた。まるで、この日を象徴するかのように、湿った空気が王都全体を包み込んでいる。
前軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーの国葬。聖騎士団本部の前にある広場には、厳粛な雰囲気が漂っていた。
彼の死は、カリストリア聖王国にとって大きな転換点だった。カリストリア聖王国の聖騎士団を統括し、魔の軍勢と戦場を指揮していたとされる男。
だからこそ、彼の死を惜しむ声は多かった。だが、それと同じくらい、彼の死を歓迎する声もあった。
参列する民衆たちの反応は、一様ではなかった。
「軍防卿がいなくなって、聖騎士団は大丈夫なのか……?」
「魔の軍勢と戦うのが、ザフラン様だけになって大丈夫なのか?」
不安を口にする者たちがいる一方で、低く囁かれる声もあった。
「奴がいなくなって、ようやく少しはマシな世の中になるかもしれん」
「あんな冷酷な男が消えて、せいせいしたな」
彼は、北の防衛の要でありながら、その手法は過酷だった。秩序の維持のために無駄に民草に血を流させることを躊躇わなかった。それでも、国を守るという一点において、彼の考えは揺らぐことはなかった。
――その結果、彼は第二王子レオンハルト・アルデリック・カリストリアに殺害された。
民衆の間には、誰が彼を討ったのかまでは伝わっていない。だが、少なくとも、その死が単なる事故ではなかったことは、誰もが察していた。
列を成して並ぶ聖騎士たちは、誰も表情を変えない。彼らの胸にあるのは、忠誠か、あるいは沈黙か。
その中で、全身真っ白な喪服に身を包んだ男が、一歩前に出る。
リヒト・ストラグナー。
新たな軍防卿に就任する、ガルヴェイン・ストラグナーの息子。
彼は、沈痛な面持ちで棺を見つめていた。その顔には深い悲しみが刻まれているように見えた。
だが、実際のところ、その内心はまるで違った。
◆
(親父殿が、やっと死んでくれた。本当は、おれが殺したかったけど)
リヒトは、目の前の棺を見下ろしながら、心の中でそう呟く。口には出せないが、これが本音だった。
父、ガルヴェインは、おれにとって「英雄」でも「偉大な軍人」でもなかった。彼はただ、息子であるおれにとっての「最大の障害」だった。兄を死に追いやり、死んだ兄の代わりに産ませたおれに、絶え間ない鍛錬を強いた親父殿。
親父殿はリヒトが期待通りでないと判断するたびに、おれを殺し、その母も殺し、次の子を鍛えると言った。それが冗談ではないことを、おれは身をもって知っていた。だから、その言葉で脅される度に酷く怯えた。
(おれがこの手で葬るはずだったのになぁ)
だが、それもかなわなかった。彼は何者かによって討たれ、その死の瞬間すら見届けることができなかった。
新たな軍防卿として、おれはこの場に立たなければならない。そして、これからおれは親父殿の代わりとして、聖騎士団を統率する立場になる。
(……まあ、テキトーにやるか)
喪服の袖口を弄りながら、適当に涙ぐんだ表情を作る。そうしておけば、周囲は「父を悼む息子」として、適当に処理してくれるだろう。
聖職者たちが祈りを捧げる中、一人の人物が静かに前へと進み出た。
黒と金を基調とした法衣に包まれたその女性は、その場にいるだけで周囲の空気を支配していた。威厳と冷徹さを兼ね備えた端整な顔立ちに、冷たい鉄のような青灰色の瞳。鋭く整えられた眉が、その厳格な性格を如実に物語っている。
彼女の漆黒の髪は短く切り揃えられている。襟足が僅かに流れる程度のショートカットで、整然とした印象を与える。額をすっきりと見せる髪型は、その端正な顔立ちをより際立たせていた。動くたびに艶やかな光を帯び、厳格な雰囲気をさらに強調している。
並ぶ聖職者たちは、彼女が通るたびに思わず一歩引いた。長身で無駄のない立ち姿。背筋は微動だにせず、歩くたびに靴音が静かに石畳に響く。金の刺繍が施された法衣の裾が揺れ、肩にかかる黒いマントが威圧感をさらに強めていた。
しかし、彼女の存在感を決定的なものにしているのは、その胸元だった。超然とした威厳に満ちた姿とは裏腹に、豊満な胸が法衣を押し上げ、腕を組んだ瞬間――。
――パチンッ!
鋭い音が響く。胸元のボタンが弾け、勢いよく飛んでいった。傍らにいた聖職者の一人が無言でボタンを拾い、慣れた様子で袖にしまう。誰もそのことには触れない。これが彼女の日常であるかのように。
彼女は、そんな些事には目もくれず、堂々と棺の前に立った。その姿は、まるで王国の秩序を見下ろす鉄の審判者のようだった。
(……なんか、おっぱいがすげぇのがいるな)
リヒトは、その光景を無表情で見ていた。
葬儀が終わり、参列者たちが静かに広場を後にしていく。出席していた他の貴族の面々も所定の礼を終え、それぞれの持ち場へと戻っていった。
おれもまた、形ばかりの弔いを終え、内心ではうんざりしながら足を進める。これでようやく、この退屈な儀式から解放される。そう思った矢先、周囲から微かに漏れ聞こえる言葉に違和感を覚えた。
それは、広場の端に集まった聖職者たちのひそひそとした会話だった。白い喪服姿の聖職者たちは、どこか神妙な顔つきで互いに言葉を交わしている。
「……やはり動くのか」
「これだけの事態だ。当然だろう」
「しかし、ここまで早いとは……」
「王室とどう折り合いをつけるつもりなのか……」
おれはそれとなく足を止め、聞き耳を立てた。何かの話をしている。それも、どうにも厄介ごとの気配がする。
次の瞬間、聖職者の一人が口にした言葉が、耳に鮮明に届いた。
「聖審院が動く」
その言葉を聞いた瞬間、反射的に顔をしかめた。
(……は? 聖審院?)
それが何なのか、今すぐには思い至ることができない。だが、どう考えても面倒な話であることだけは察せられた。
(ふざけんなよ……葬儀が終わったばかりだってのに、もう次の話かよ)
おれは軽く舌打ちしながら、聖職者たちの談笑の輪から目をそらした。
カリストリア聖王国に、何かが起ころうとしている。
そんな曖昧な予感が、リヒトの歩調を早めた。
◆
前軍防卿ガルヴェインの国葬が終わってから数時間後、王都に新たな報せが流れた。
――聖審院が正式に設立される。
それは、王国の三百年の歴史の中でも、数えるほどしか例のない事態だった。
聖審院とは、聖王国教会の中でも王室と八卿を監査する特別機関である。平時には一切活動せず、国の体制そのものが揺らぐような事態が発生した際にのみ、その役割を果たす。
王国の秩序を守るために動く最後の砦――そう称されることもあるが、実態はそれだけではない。
聖審院の審議の対象は、単なる聖職者や貴族に限らない。王族、そして八卿すらも、その監査の対象に含まれる。その権限は絶大であり、必要と判断すれば、王が受けた神託すら取り消すことが可能なのだ。
神託の取り消し。
それは、カリストリア聖王国の体制を根本から覆しかねない、一種の禁忌とも言える行為だった。聖王こそが神に選ばれし存在であるというこの国の根幹に関わる事柄を、聖審院が否定し得るということを意味する。
聖審院が動くということは、すなわち「王権そのものへの介入」でもある。
聖審院の設立が発表されたのは、単にエリザベス・クロフォードの問題に端を発したものではない。今回、教会が聖審院を設立するに至った背景には、王国全体の秩序が揺らぎ始めていることがある。
ダリオンという処刑対象者の取り逃がし。彼は処刑されるべき存在であったはずにも関わらず、王都からの脱出に成功した。その処刑すべきとする理由も、聖王国教会としては腑に落ちない点が多かったのだ。
そして、その英雄ヴァリクの脱走。カリストリア聖王国の象徴の一つとされていた男は、目撃した聖騎士たちの証言と照らし合わせると、どうやら第二王子レオンハルト・アルデリック・カリストリアと合流した。これは、単なる「一兵士の脱走」として片付けられるものではない。
教会にとって、ヴァリクは信仰の証として民に示すべき存在だった。その彼が自ら役割を離れ、第二王子側についたという事実は、教会の威信そのものに大きな打撃を与えかねない。
さらに、新英雄ザフランに対する教会内の不信感。ヴァリクに代わる新たな英雄として新たに現王側から提示され、聖王国教会が推しているザフラン。だが、その彼もまた、未だ実際の活躍が広く知られていない。ザフランが本当に「新たな信仰の象徴」となり得るのか――教会内部ですら、その点に疑念を抱く者は少なくなかった。
これらの出来事が重なり、王国の秩序は明らかに揺らぎ始めていた。そして、この混乱の中、王室は沈黙を貫くことで、未だにエリザベス・クロフォードを擁護し続けている。
――このまま王室と足並みを揃えるのか、それとも……
教会は今、重大な決断を迫られていた。聖審院の設立は、その決断を下すための布石だった。
この知らせは、聖王都全体を揺るがせた。
王国の未来を問う審議が始まるのだ。
王国において、王が神の名のもとに統治を行うのならば、教会は神の意思を司る機関である。もし王の決断が、神の意にそぐわないと判断された場合、聖審院がそれを「無効」とする権限を持つ。そして、それが「神託の取り消し」にまで及べば――王の正統性すらも揺らぐ可能性がある。
この発表を受け、すでに民衆の間では、「王室と教会は決裂するのではないか」という噂が飛び交い始めていた。
そして、聖審院を率いるのは、オクタヴィア・アイゼンハート。
冷徹なる審判者と呼ばれる彼女が、この混乱の中でどのような判断を下すのか。その動向が、今や王都全体の注目を集めていた。
◆
リヒト・ストラグナーは、執務室の椅子に座り、ようやく肩の力を抜いていた。国葬という名の面倒な儀式も終わり、これで少しは静かに過ごせる――そんな淡い希望を抱いていた。
不意に、控えめなノックの音がした。
「ん?」
誰か尋ねる間もなく、扉が開く。入ってきたのは、祭儀卿フィロメーヌ・セラピム・ロートレイクだった。
「リヒト! 大変なことになったのじゃ!」
その瞬間、おれは嫌な予感がした。フィロメーヌが真剣な顔で駆け寄ってくるときは、大抵ろくでもない話が舞い込む。フィロメーヌが「大変なこと」と言う時は、だいたい本当に大変なことになる。
「……何だよ」
気だるげに問いかけると、フィロメーヌは手に持っていた手紙を勢いよく机に叩きつけた。
「聖審院が動くのじゃ!」
「……聖審院?」
思わず眉をひそめる。聞き覚えのない言葉ではない。だが、何だったか――しばし考えた後、記憶の片隅に引っかかったものを引っ張り出す。
(……ああ、あれか)
おれが思い出したのは、教会が持つ監査機関のことだった。滅多に動かない組織だと聞いた覚えがある。だが、動いた時は……何かが決定的に変わる時だとも。
おれは手紙に目を落とした。内容は簡潔で、だが、無視するにはあまりにも重大な事が書かれていた。
「……ってことは、おれ、審議される側かよ」
思わずため息をつくと、フィロメーヌがどっかりと椅子に座り込み、憂鬱そうな顔をした。
「わらわは祭儀卿……本来ならば、審議の場には立たぬ身じゃ。しかし、聖審院では別。聖審院において、教会と王室の間を取り持つのは、わらわの務め。その場に祭儀卿がいなければ、双方の思惑がすれ違うことにもなりかねぬのじゃ……」
「つまり、クソガキとしては行きたくはないが、行かざるを得ない……ってことか」
おれはフィロメーヌの言葉を聞きながら腕を組んだ。彼女が政治に関わるのを避けたがっているのは知っている。だが、今回ばかりは、彼女が顔を出さなければならない立場なのは明らかだった。
無言で手紙を見つめていると、フィロメーヌはじっとおれを見つめてきた。
「お主も同行するのじゃ、リヒト!」
クソガキが発した言葉に、思わず顔を上げた。
「……は?」
「聖審院の会議に、わらわ一人で行くのは嫌なのじゃ!」
「いや、おれ審議される側だろ」
「オクタヴィアならギリ許してくれるのじゃ! めっちゃ良いヤツなのじゃ!」
「……それ、おれに言うか?」
「言うのじゃ! 一人は嫌なのじゃ! わらわに、他に連れて行ける知り合いがいると思うておるのか?!」
思わず頭を抱えたくなった。どうせ断っても無駄なのは分かりきっている。
「……ったく、仕方ねぇな」
観念して答えた途端、フィロメーヌの顔がぱっと輝く。
(こいつ、分かりやすっ……)
――だが、聖審院の会議室に入った瞬間、おれはすぐに後悔した。
重厚な空気。並ぶ聖職者たちの冷ややかな視線。そして、会議の中心に立つのは――聖審院、聖審長のオクタヴィア・アイゼンハート。
一瞬で場違い感を察した。
黒と金を基調とした法衣を纏い、厳格な雰囲気を纏う彼女は、一目で只者ではないと分かる人物だった。青灰色の目は冷たく研ぎ澄まされ、短く整えられた黒髪が、その鋭さをより際立たせている。彼女の姿には無駄がなく、整った顔立ちと相まって、威圧感というよりも「揺るぎない自信」に満ちていた。
とはいえ、胸元に関しては特別な圧倒的な存在感がある。法衣の布地がピンと張っているのを、おれは思わず見てしまった。
(おっぱい、でっっっっか!)
なんでよりによって、あんな完璧に整った顔と鋭い雰囲気の持ち主が、胸部だけそんな規格外のバランスをしているのか。見てはいけないと分かっていても、視界の隅で無理やり意識に入ってくる。
そんなおれの内心など知る由もないオクタヴィアは、おれをじっと見据えた。そして、ほんのわずかに眉をひそめ、静かに問いかける。
「……軍防卿が、何故ここに?」
(だよなぁ!!)
心の中で全力で同意しつつも、おれは表情を崩さないように唇を噛み、背筋を伸ばした。
(やっべ……完全に来るべきじゃなかったやつじゃねぇか?)
聖審院の会議室に満ちる静けさが、より一層の重みを持って圧し掛かる。並ぶ聖職者たちも、おれを見る目が「なぜ?」という無言の問いに満ちている。
入室して数刻、おれの脳内にはすでに結論が出ていた。
(よし、帰ろう)




