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102.我が父上は

 夜の空を駆けるように、一つの影が疾走していた。

 ユアン――聖王国の元聖騎士であり、現在はヴァレンフォード家で雇われている使用人の一人。しかし、その正体はアストラル帝国の調査員であった。彼は、まるで空中に飛び石が置かれているかのように、音もなく空を走っていた。


 彼の背には、ぐったりとしながらも強引にしがみついている男が一人。セシル・ラグナ――ヴァリクたちと共に過去を共有する、被験者仲間の一人だ。


「おい、ユアン……もうちょい、降下しねーか? あの、ほんと、そろそろ気持ち悪くなって……き……」


 セシルが青ざめた顔で言うと、ユアンは「あちゃー」と言い、軽く笑った。


「気持ち悪くなっちゃったっすか?」

「うん……今の俺、落ちたら本当に死ぬと思ったら……なんか……吐きそ……」

「……一旦休むっすか?」

「休みたい……てか、もう空はいい! ここからは歩く!」


 セシルが叫ぶと、ユアンは軽い調子で「りょーかいっす」と言いながらゆっくりと降下し、着地する。セシルはユアンの背中からゆっくりと離れると、街道の端にしゃがみこんだ。

 ユアンは降り立った地面を靴底で均しながら、額に脂汗を浮かべるセシルを観察する。


(肉体的な変化はあまり無いように見えるが、やはりこれまでとの変化が大きすぎたか。心労によるものか、あるいは不死の魔術式というのが、疲労まで回復させていたのか。いずれにせよ、セシルを無理に移動させるべきではないか)


 ユアンはそんなことを考えながら、せっせと焚火の準備をし始めるのであった。



 ◆



 南の漁村に着いたその日の夕暮れ。

 俺、ヴァリクは宿として使われる石造りの建物に身を寄せることになった。普段は繁忙期に農地卿配下の農夫たちが寝泊まりする民泊のような建物らしいが、漁の閑散期の今は誰も管理する者はいない。簡素な調度品だけが置かれた部屋の椅子に全員で腰を下ろし、久々に落ち着いた空気を吸った。

 だが、静けさも束の間だった。


 レオンハルト殿下が開口一番に口にしたのは、俺たちにとって衝撃的な話だった。

 ――ユアンは、アストラル帝国の調査員だった。

 最初にその言葉を聞いた時、何を言われたのか理解できなかった。ユアンが、帝国の人間? 調査員? この、カリストリア聖王国という閉ざされた国に、アストラル帝国が? 俺は驚いて殿下の顔を見つめたが、彼は真剣な表情のまま続けた。


「ユアンは帝国から派遣され、カリストリア聖王国の調査を行っていたようだ。とはいえ、我と敵対する目的ではないとだけ、聞かされている。この国の異常性を分析するための、比較的自由に動いていた調査員だったようだ」


 俺が言葉を失っている間、フィオナもまた目を見開いていた。 


「ユ、ユアンが調査員? ええと、色々とおかしくないですか? だって、俺に対して、数年前の聖王都の流行の話もしていたし……アストラル帝国には……こ、子供の調査員もいるんですか?」

「わたしは見たぞ! たしかに、ユアンはアストラル帝国の軍事通信を使用していたのだ!」

「そ、そんな……ユアンが」


 俺は無意識に呟いた。 

 確かに、ユアンにはどこか謎めいた部分があったような気がする。剣の腕や身体能力の高さは確かで、浅学だと自称する割には妙に鋭い瞬間があるような気がする。


「……流石大国であると言わざるを得ない。まさか、救国の英雄の傍らまで入り込まれているとは思わなかった。言葉のままに受け取るなら……アストラル帝国が、我に協力的であることが救いか……」 


 レオンハルト殿下がぽつりと呟くと、フィオナが静かに言葉を重ねた。


「であれば……大陸において、一番大きな国であるのだし……強力な味方と見て良いのではないか? あの……わたしの仲間のオスカーは、何をしているのかまでは知らないが、アストラル帝国に滞在していると聞いている。わたしは、オスカーなら味方になってくれると思っているのだ」


 思わず、大きな溜息が漏れる。すでに大国に目を付けられ、内部を探られていたのだという事実に変わりはない。

 しかし、ライラだけは何も言わず、きょとんとしたまま俺たちを見つめていた。


「……ユアンって、悪い人なの?」


 そう言葉を発したライラは、テーブルの端で小さく身を縮こませている。当然だった。ライラはそもそも、「帝国」というものをよく分かってないんだ。


「悪い……人とは思いたくはないが……ともかく、帝国の者というだけのことだ」


 レオンハルト殿下は、短くそう答えた。


「ユアンは、帝国の者というだけのことだ」


 ユアンは、悪意を持って俺たちに近づいていたわけじゃないと信じたい。帝国の諜報員ではなく、調査員と名乗っているのがその証だと思いたい。


「……あ」


 レオンハルト殿下の声に、俺とフィオナとライラは一斉に彼を見つめた。彼は、額をガシガシと搔きながら大きな溜息を吐いた。


「……ユアンの実年齢だが、三十二歳だそうだ」

「え、えぇ?」

「はぁ?」

「……あ?」


 ユアンの衝撃の実年齢に、この場は一気に大混乱に陥った。

 俺とフィオナは思わず声を上げ、椅子を軋ませながら立ち上がった。レオンハルト殿下の言葉を反芻するが、どう考えても信じられない。数年一緒に過ごしてきたユアンの顔を思い浮かべても、三十を超えているようには到底見えない。

 レオンハルト殿下はため息混じりに、ユアン本人がそう言っていたと改めて説明した。それを聞いてもなお、俺もフィオナも納得できず、互いに顔を見合わせるばかりだった。


 そんな中、ライラだけはきょとんとした顔で椅子に座ったまま、ぽつりと呟く。


 「……あ? ユアンって、おじさんなの?」


 その一言で、さらに混乱が広がった。



 ◆



 夜の漁村は静かだった。

 昼間は活気のあるこの場所も、漁師たちが家へ戻り、港の灯りがぽつぽつと揺れる頃には、波の音だけが響く落ち着いた空間へと変わる。

 俺たちは拠点としている石造りの明かりを灯した。この宿には、厨房らしい厨房が備わっているが、調理道具は簡素なものばかりだった。


「……さて、今日だけは炊事を我々でどうにかしなくてはならない。夕飯をどうするかだが」


 レオンハルト殿下がテーブルに腰を下ろしながら、ため息混じりに呟く。その声に、俺は少し不安になった。


「えっと……誰か、料理できるっけ?」


 恐る恐る尋ねると、フィオナが腕を組んで「無理だ!」と元気良く即答し、ライラは「火は起こせるよ」と淡々と言う。


「貴様ら、料理くらいできんのか」


 レオンハルト殿下が、呆れたように言う。


「えっと……まぁ、なんとかなるんじゃないですか……?」


 俺が少し曖昧に答えると、殿下が眉間に皺を寄せて、大きくため息をついた。


「……仕方あるまい。我がやる」

「お、俺も手伝います!」


 レオンハルト殿下が厨房へ向かうことになった。仕方ないとはいえ、一人に任せるのは気が引ける。俺は少し迷った後、静かに立ち上がり、厨房へ向かう殿下の背中に付いていった。

 その時、殿下がぽつりと口を開いた。


「……そういえば、ヴァレンフォード家の使用人たちが、ヘンリーと共にここへ来るのは明日午後か、遅ければ明後日になるそうだ」

「ヘンリーも来るんですね」

「当然だ。奴が面倒をみているダリオンという男もここに移動すると聞いている。だから、今夜だけは我らでどうにかしなくてはいけないのだ」


 殿下はそう言って、包丁を手に取る。


「すみません、俺もやります」


 さすがに申し訳なくなって、俺も包丁を持った。俺にも野菜の準備くらいはできるだろう。皮を剥いて、適当な大きさに切るだけだ。そんなに難しい作業じゃないはずだ。

 俺は、まな板の上に並べられた野菜を手に取り、慎重に包丁を入れた。刃が沈む感触を確かめながら、ゆっくりと力を込める。

 ……よし、悪くない。


「……あっ」


 だが、気づいた時には手が滑って手のひらを包丁でざっくり切りつけていた。鋭い痛みが走る。赤い血がじわりと滲み、手首を伝って床に落ちる。


「貴様ァ!」


 レオンハルト殿下の怒声が響き、俺は思わず背筋を伸ばした。


「邪魔だ! 今すぐ出ていけ!」

「あっ、えっと……す、すみません……」


 殿下の剣幕に押され、俺はしょんぼりと手のひらを眺めながら厨房を後にした。

 フィオナとライラの方へ向かうと、俺とレオンハルト殿下のやりとりを聞いていたらしいフィオナが苦笑している。


「わたしたちに料理ができるわけがないではないか。そんなもの、見たこともやったこともほとんど無いのだから」

「い、いや……俺は少しはできるよ」

「わたしも料理できるよ。魚の焼き方教えてもらった」


 自信満々に言うライラに、思わずフィオナと二人で苦笑いをする。


「ライラのはなんか違う……気がする」


 とはいえ真向から否定するのも違う気がして、俺はやんわりと否定するにとどめた。




 俺がキッチンから追い出された後も、殿下は淡々と料理を続けていた。

 こっそり覗いてみると、驚くほど手際がいい。まな板の上では魚があっという間に三枚におろされ、その隣では野菜が均等なサイズに刻まれていく。


「殿下って、こんなに料理上手だったのか……?」


 思わず呟くと、俺の隣で同じく覗いていたフィオナが腕を組む。


「王族って、普通こんなことするのか?」

「……食えなければ、生きていけない」


 殿下は手を止めずに淡々と答えた。


「……いや、それはそうだと思います……けど」


 俺が戸惑っていると、殿下は少しだけ視線をこちらに寄越す。その視線には、妙な真剣さがこもっていた。


「……誰かが作ってくれるのを当たり前に思っている奴は、いざという時に何もできなくなる。そんなものは王族だろうが庶民だろうが関係ない」


 思わず、言葉に詰まった。

 なるほど、たしかに殿下の言うことは正しいような気がしてくる。けれど、王族が自ら包丁を握る必要があるのかと問われれば、普通は「ない」と答えるだろう。


「……我が父上は……我が父は、そういうことを思う人ではなかったようだがな」


 殿下は一瞬だけ遠くを見つめ手を止めたが、すぐに作業に戻る。


「黙って待っていろ」


 ……どうやら、今は邪魔をしない方が良いらしい。

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