099.それぞれの道へ
クロニクル・トレイルの記者二名が屋上から転落し、死亡してから三日が経った。カリストリア聖王国通信社の編集部には、重苦しい沈黙が支配していた。
告発記事は、世に出た。しかし、それは二人の命と引き換えに生まれたものだった。
彼らが遺した言葉を紙面に載せ、新聞を全国に流通させたとしても、彼らが戻ることはない。その現実が、新聞社の人間たちを、今なお押し潰していた。
エドガー・ヘイワードは机に突っ伏したまま、頭を押さえていた。二日酔いのせいで、鈍い痛みが額の奥で脈打っている。昨夜、馴染みの店で酒に溺れるように飲み続けた結果、ほとんど眠っていない。喉の奥に残るアルコールの嫌な味が、胃のむかつきを誘っていた。
酔いを醒まそうと飲んだコーヒーをこぼしたままの跡が、机に染みを作っている。今朝、乱暴にカップを置いたのは覚えているが、拭こうという気力はなかった。今も、それを片付ける気にはなれない。
「……これが正義か?」
誰に言うでもなく呟いたその言葉に、答える者はいない。エドガーは乱暴に髪をかき上げ、苦々しく顔をしかめた。昨夜、酔った勢いで吐き出した怒りは、朝になっても消えていなかった。むしろ、二日酔いの不快感とともに、より強く胸の奥で渦巻いていた。
告発記事は、出せた。だが、それは二人の死を踏み台にした結果だ。その事実が、彼を苛立たせていた。
「俺たちは、見殺しにしただけじゃないか……」
エドガーの声が、静まり返った編集部に響く。
トーマス・グレインは、静かに椅子に座ったまま、黙り込んでいた。手元の書類には目を落としていたが、実際には何も読めていなかった。
この三日間、まともに眠れていない。それでも、何かを決めなければならない立場にある。
――このまま報道を続けていいのか?
この問いが、彼の頭の中を離れない。クロニクル・トレイルの記者たちは、勇敢に戦い、そして命を落とした。ならば、次に狙われるのは、この新聞社の記者たちだろう。これ以上、犠牲者を出すわけにはいかない。
――だが、このまま沈黙していいのか?
長年記者として生きてきた彼の経験は、「否」と告げている。それでも、編集長として守らなければならないものがある。今はまだ、その答えを出せずにいた。
リリィ・マクダウェルは、震える手で紙を握りしめていた。エクリヴァムに記された、クロニクル・トレイルの二人の最期の言葉。何度も、何度も読み返した。
「……何を思って、彼らはこの言葉を残したんだろう」
かすれた声で呟いた彼女の目には、涙が滲んでいた。何度読んでも、彼らの想いを全て理解することはできない。だが、彼らが命を懸けて守ろうとしたものがあるのは、確かだった。
――このまま、私たちは何もしなくていいの?
彼らの死を無駄にしてしまうのではないかという恐怖が、彼女を苛んでいた。
編集部の扉が、ゆっくりと開かれた。
カミラ・ロシュが、新聞社に戻ってきたのだ。彼女には、目の前で起きた惨劇に対する特別措置として、五日間の休暇を与えられていた。それでも、彼女は休むことができなかった。
頬は少しこけていたが、その表情は平然としていた。淡々とデスクへ向かおうとする姿は、まるで何事もなかったかのように見える。
しかし、ロベリア・フィンリーは見逃さなかった。
「……カミラさん?」
声をかけると、彼女は振り向いた。
「おはよう。そろそろ戻ろうかと思いまして」
軽い口調。しかし、ロベリアの目には、カミラの指先が微かに震えているのが映っていた。
「……無理しない方がいいですよ」
「え?」
「……あの、無理しなくていいですから……」
その言葉が、決壊の合図だった。
カミラの肩が震え、目に涙が滲む。カミラは堪えきれず、ロベリアの胸に顔を埋めた。
「……止めるべきだったのに、ごめんなさい……」
静まり返った編集部に、カミラの押し殺した嗚咽が響いた。誰も、何も言えなかった。カミラの泣き声が、編集部の静寂に溶け込んでいく。
クロニクル・トレイルの記者二名が死亡した。ヴァリク・ヴェルナードが去った。そして――軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーが死んだ。ロベリアの心には、喪失感と虚無感だけが残されていた。
ロベリアは、デスクに広げたままの原稿を見つめながら、思考の渦に飲み込まれていた。ロベリアはずっと、真実を追い求めてきた。ペンを握り、言葉を紡ぐことで、真実を人々に伝えなければならない。それこそが、ロベリアが知っている「記者」という生き方だった。
――だが、それは本当に正しかったのだろうか。
クロニクル・トレイルの二人は死んだ。権力に追い込まれたの末、二人は屋上から転落し、命を落とした。記事が世に出たとしても、それが二人の死に報いることになるのかどうかは、誰にも分からない。
今、記者達の手元には彼らが残した言葉がある。だが、もう二人に問いかけることはできない。
ヴァリク・ヴェルナードもまた、ロベリアの前から消えた。「これ以上の取材は、しないでください」と、静かに言い残して。
ヴァリク・ヴェルナード。自分が助けたかったはずの男。
彼が命令に従い、救国の英雄という肩書を背負わされ戦わせられてきたことを知ったとき、彼の物語を公にしなければならないと考えた。彼を取材し、その言葉を記録することに、強い意味を感じていた。
しかし――ヴァリクは、去った。第二王子レオンハルト・アルデリック・カリストリアのもとへ向かってしまった。なぜ、そうなったのか。なぜ、彼はこの新聞社を捨て、第二王子のもとを選んだのか。その判断の理由が、ロベリアには分からなかった。
ヴァリクの口からは、はっきりとした理由は語られなかった。彼の言葉を拾い続けてきたつもりのロベリアだったが、今回ばかりは、彼の心の内を理解することができなかった。
彼は、何を見て、何を考え、どこへ向かおうとしているのか。
「……ヴァリクさん……」
誰にも聞こえないほどの声で名前を呟く。その名を呼ぶことで、何かが変わるわけではない。それでも、その名前を心の中に刻むように、静かに唇を動かした。
そして、軍防卿が死んだ。彼の首が目の前で落とされたとき、ロベリアは何よりも先に「これで父の死の真相を知ることはできなくなった」と思った。彼のことを憎んでいた。しかし、彼こそがロベリアの父の最期を知る唯一の人物でもあったのだ。
ロベリアの父、アーヴィング・フィンリー。彼は聖騎士として戦地へと連れて行かれ、そして帰らなかった。それは、長く平和だったカリストリア聖王国での初めての戦争。軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーの、六十歳を超えてからの初めての戦場の場での出来事だった。
父が最期に何を見たのか。どのような状況で命を落としたのか。軍防卿からの公式発表は、戦場での戦死という一言だけだった。
「北の軍勢に包囲され、奮戦の末に戦死」
それが、記録された父の最期だった。だが、それがすべてではないことを、ロベリアは知っていた。父の死亡を知って、遺体すら戻らないと知ってから三ヶ月も経ってから届いた手紙――それが、ロベリアの疑念の始まりだった。
◆
ロベリアへ
お前はどうしている? 飯はちゃんと食えているか?
ここに来てから、考えさせられることが多い。戦場というのは、思っていたよりも静かだ。剣戟の音や叫び声よりも、風や土の匂いの方がよく響く。そして、その静けさの中で、時折、自分が何をしているのか分からなくなることがあるんだ。
俺たちは、剣を振るい、命を賭けて戦っている。それなのに、不意に、自分が本当に戦っているのかどうか、分からなくなる瞬間があるんだ。目の前にいる者たちを見ていると、時々、妙な感覚に襲われる。彼らもまた、何かを守ろうとしているのかもしれない。
それが何なのか、俺には分からないが、ただ、その姿がどうしようもなく胸に引っかかる。
彼らと出会えたのが戦場ではなく、街中や酒場だったら、きっと良き友人になれたと思うんだ。そう思う度に、剣を振るう手が止まりそうになるんだ。
この手紙が届くころ、俺はどうしているかな。
帰れるかどうかは分からないが、お前はどうか前を向いて生きろ。
父より
◆
そもそも、この手紙はどうしてロベリアの元に届いたのか? 軍防卿側からの正式な回答は「遺品や遺体を遺族に届けることはできない」という無機質なものだった。「戦場の状況を考慮し、回収が困難であったため」と説明されても、納得できるはずがない。
しかし、ロベリアのもとにふいに手紙が届いた。父の戦死の報せから三か月後のことだった。父の形見が何一つ戻らないまま、なぜか手紙だけが送られてきた。まるで、誰かが意図的に届けたかのように。
――彼らと出会えたのが戦場ではなく、街中や酒場だったら、きっと良き友人になれたと思うんだ――
手紙の一文が、ロベリアの胸に疑問を抱かせる。
父は、確かに戦争へ行った。国の命令に従い、敵を討ち、聖王国のために剣を振るった。だが、彼が戦った相手――それが 「魔の軍勢」 だったのなら、なぜこの言葉が綴られているのか?
聖王国の教えでは、魔の軍勢は「人間ではない」とされている。思考を持たず、ただ破壊と殺戮を好む怪物。 教会の説く「敵」は、決して人間の感情を持つ存在ではないはずだった。
それなのに、父は彼らを 「何かを守ろうとしている存在」 だと感じ、戦場で剣を交えながら 「良き友人になれたかもしれない」 とまで書いている。
それは、「魔の軍勢」という存在に、戦場でしか知ることのできない何か があったからではないか?
軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーこそが、この謎を解く鍵だと思った。ロベリアはずっと機会を窺っていた。いつか軍防卿に取材する。その機会さえあれば、何かが分かるかもしれないと信じていた。
だが、その機会は永遠に失われた。
父は、最後に何を見たのか。誰と戦ったのか。父が戦った戦場で何が起こっていたのか。軍防卿ガルヴェイン・ストラグナーから、それを知ることはできなくなった。
ロベリアは、静かに息を吐いた。それでも、ペンを握る手を止めるつもりはなかった。真相が分からなくなったとしても、追うべき手段はまだある。
――ヴァリク・ヴェルナード。
本人曰く、ノルヴァル王国、ヴェルナード騎士爵位の家の長男。両親がいて、双子の弟がいる。家から海が見える家で生まれ育ち。救国の英雄などという肩書を背負わされ、一人戦わせられてきた青年。短い間ではあったが、近くで彼を見てきた。
彼はおそらく、真相を知っている。だって、彼はこれまで最前線で一人「魔の軍勢」を退けてきたのだ。ロベリアはこれまで、彼の悲惨な過去に気後れし、遠慮してそれ以上踏み込んだ取材はしていなかった。思い出させることで、彼の繊細な心を傷付けてしまうことを、無意識に恐れていたのかもしれない。
彼がなぜ、ロベリアのもとを去ったのかを今は理解することはできない。しかし、それを理解出来るようになるまで、彼を追い続けることはできる。ハレックさんやアーレンさんのように、多少アウトローだって良いじゃないか。彼らはそれで、世間に大きな爪痕を遺していったんだ。
……それが、ロベリアが今できる唯一のことに思えた。
もう、ヴァリクに対して、遠慮をしない。洗いざらい、話をしてもらう。彼を知りたい。彼をもっと知りたい。
(……だから私は、彼を追う。彼の足跡を辿り、彼が見つめるものを見て、彼の言葉を記録する。彼のすべてを知るまで、私は筆を折らない)
ロベリア・フィンリーは密かに、心の中でそう決意していた。
クロニクル・トレイルの二人は、もうこの世にいない。カリストリア聖王国通信社の編集部では、そう思われていた。
――しかし、現実は違った。彼らは生きていた。
新聞社の誰も、その事実を知らない。彼らはすでに新たな名前で動き出していた。
◆
時は、クロニクル・トレイルの二名が屋上から転落した直後に遡る。
地面に落下する直前、ハレックとアーレンが胸元にしているペンダントが、僅かに精霊術の光を放った。風の精霊のマナが周囲にふわりと漂い、それと同時にすぐ近くで「バンッ!」と大きな破裂音が鳴り響き、赤く着色された水が周囲に撒き散らされる。
この光景を、アストラル帝国の出身者が見ていればすぐに気が付いたかもしれない。これは、アストラル帝国で販売が禁止されたパーティーグッズであった。
使用方法は簡単。ペンダントを付けて高いところから飛び降りるだけ。これにより、飛び降り自殺風の演出が可能となるのだ。しかし、子供の転倒による怪我防止の為の精霊術の技術の転用である点、悪戯にしても悪質すぎるとして、アストラル帝国では一ケ月も経たないうちに販売停止、自主回収の運びとなった。
だが、そんな曰く付きの品を、ハレックとアーレンの二人は入手していたのだ。
悪戯が成功した子供のように、アーレンが口元を歪ませ、小さく笑い出す。
「うひひひ、飛び降りる直前のあいつらの顔見たぁ? おい、ハロルド。あれさぁ、めちゃくちゃ良かったよなぁ?」
アーレンは何故か、ハレックに対して「ハロルド」と呼びかける。そんなハレック――ではなく、ハロルドは、脇腹を手で押さえて呻いた。
「んふ……笑わせるの本当にやめろ、アンドリュー。本当に痛いんだってば……僕、脇腹を剣で刺されたんだってば」
アーレン――ではなく、アンドリューと話しかけられた男は、むくりと起き上がり髪紐を解いて頭を振った。その横で、ハロルドは起き上がろうとして、じたばたと足を動かしている。
ふと、屋上が気になったアンドリューが顔を上げると、金髪に赤い目の男がこちらを見ていた。
目が合った。
「ヤ、ヤバ……! おいハロルド、起きろ! 誰か見てる!」
ようやく上半身を起こすことに成功したハロルドが、アンドリューの言葉に反応して顔を上げると、驚愕に目を見開いた。
「うわぁ、あれ第二王子だよ」
「マジぃ!? 早く逃げるぞ、立てハロルド!」
「ちょ、待っ……痛いんだって!」
無理矢理に立たされたハロルドが呻き声を上げるが、アンドリューはそんなことお構いなしに、第二王子レオンハルトに向かって手をブンブンと振り、唇に人差し指を当てて「シー」と合図を送る。今はそれどころではないのだ。自分たちが生きていると今知れたら、手をかけた大悪戯が失敗に終わってしまうのだ。
第二王子はこちらを見て目を細めるだけだった。彼が黙ってくれるかどうか、判断に迷う反応だったが、今はとにかく、ここから離れることを優先しなくては。
「アンドリュー、医院に連れてってよ」
「わぁーった! 分かってるから足を動かすことを優先しろ、相棒!」
「ひぃぃぃ、相棒に対する扱いとは思えないってば、それ」
元クロニクル・トレイルの二人による悪戯は、一応のところ大成功となった。だが、その代償にハロルドは大怪我を負い、足元はフラフラ。アンドリューがこれまで搔き集めてきた情報も、整理し直しとなってしまった。
それでも、二人は悪戯師らしく、笑いながら逃げて行くのであった。




