最終章 エンスティクトの書9
美しい獅子の乗り心地はよくない。
ルルディがしがみついてきた。彼女の細い腕と体温を、ユリアは感じる。
ルルディがアグノスの書いた魔術書だと知った時は驚いた。
彼女の笑顔には命があった。
花が開くように笑い、明るさは匂い立つ。
一人の少女として生きる、異例の魔術書の秘策とはいかなるものか。 危険な場所に彼女を連れて行くことが正しいのか、ユリアには分からない。
ルルディの瞳はすべてを受け入れていた。災厄の渦の中心へと身を投じる覚悟ができていた。
覚悟ある者は連れていく。
砂の混じった風が、前方から吹いてきた。
「ルルディ、目を閉じて!」
ユリアは叫ぶ。視界がかすんだ。
肌が切れるような鋭い風に押され、リョダリは止まった。
まぶたを閉ざすことが怖い。けれどこの風で目をやられては、魔物の心臓は狙えない。
ようやく風がやんで、ユリアは見ることができた。
魔物が立っている。
魔法樹よりも巨大な体で三本の角を持ち、赤黒いうろこのような皮膚をした、長い尾を持つ魔物がいる。
赤い石を埋め込まれたような小さな魔物の目が、こちらを向いた。
牙のある大きな口が、笑ったように見えた。
「ユリア女王!」
レジスの声が聞こえた。金の髪をした美しいレジスが、走ってくる。彼は悲痛な顔でユリアを見上た。
「恐れていたことが起きてしまった。あれはもう魔物ではない、魔人だ。魔物が禁書ベーゼと融合してしまった」
ユリアは絶句した。
あれに剣を向けろと?
魔人が動き出す。一歩ごとに地響きがした。おもむろに太い腕を上げると、家屋を潰し、隠れていた人間をつかまえて口に放り込んだ。恐怖で体が動かなくなるのは嫌だ。ユリアは歯をくいしばり、剣をさやから抜いた。
「進め、リョダリ! 魔人の首を斬るぞ!」
ユリアは絶叫した。リョダリは動かず、ユリアは獅子の首を叩いた。
「待って。あたしが行かなくてはならないの」
ルルディが軽やかに獅子から降りると、魔人に向かって走り出した。
「ルルディ、止まりなさい!」
レジスの制止に、ルルディは振り返って微笑んだ。
「秘策を実行するわ。ユリア女王、少しお待ちになって」
ルルディは笑顔で手を振っている。
彼女の笑顔で、ユリアは気が抜けてしまった。
なぜなの、どうして笑っていられるの。
※
怖いから笑った。
口の端と端を上げて、明るい気持ちに無理矢理でもしてみると、勇気がわいてくる。
これはきっとアグノスがくれた魔法だ。
ルルディは走った。
魔法樹の枝から、光の雫がしたたり落ちている。
アグノスは座って大木にもたれていた。手で押さえている肩に、光が集中している。
「アグノスさん!」
駆け寄って叫ぶと、アグノスがつらそうに顔を上げた。
「ルルディ……なぜ、ここに……」
「ごめんなさい、あたしがベーゼを引きとめられなかったの。ひどい傷だわ」
ルルディはアグノスの出血を見て、眉をひそめた。濃紺のマントが黒く染まって、濃い血の匂いがした。
「謝らなくていい。こうなることは避けられなかったのかもしれない……ルルディ、逃げなさい……」
アグノスはかすれた声で言った。
「いいえ、逃げない。アグノスさん、あたしはすべてを知ったの。あなたがあたしを書いてくれたこと、そしてあたしの力を」
アグノスの驚いた顔に、ルルディは笑顔を見せた。
大きなアグノスの手を握る。自分を書いてくれた手の体温を感じながらまぶたを閉じる。
まばゆい笑顔と、風になびいてつやめく栗色の髪。
生命力そのものだった彼女、アグノスの生きる喜びだった明るい魔女、ジューナがいる。
ルルディの中でジューナは笑っている。
「あのね、ありがとう!」
ルルディは笑顔で言って、アグノスの手を離す。
「ルルディ!」
アグノスがルルディの名を呼んだ。
すべてはそれで十分だ。




