最終章 エンスティクトの書8
アグノスは魔物の前に立つ。
封印魔術師として人間と相容れぬ魔物を多く見てきた。おぞましい姿の物、凶暴な物にも冷静に対処した。
この背が魔物によって震わされたのは、何年ぶりだろう。
巨大な黒い塊の魔物には何もない。この虚ろさは怖い。人から生きる力を吸い取る。
「おい、あれ何だよ……」
リュカがつぶやいた。彼は空を見上げている、その目は驚きで見開かれていた。
刃のように尖った翼、それはベーゼの体から生えていた。
目覚めてしまったのだ。
魔物に喚ばれて人殺しの禁書リトがベーゼを乗っ取った。
決して魔物と融合させてはならない。
「リュカ、下がれ!」
アグノスは剣を構え、飛んできたベーゼの翼を狙った。右の翼をアグノスは切り落とした。
ぎゃっと悲鳴をあげて、ベーゼは地に落ちる。
「行け、サイリ!」
リュカが叫ぶ。少女騎士サイリが禁書の左の翼に、剣を突き刺した。
ベーゼの体から突き出た刃が、サイリの体を貫いた。
サイリはぐっと耐えて、突き刺した剣を離さない。ぎりぎりと剣を動かし禁書の翼を断ち切ると、倒れた。
「サイリ!」
リュカが本に戻ったサイリを受け止めよう駆けつけた。
ベーゼが起き上がり、サイリを手にすると口に放り込んだ。
ベーゼの顔はもうなかった。
赤い目と大きな口、手が長くなっている。ベーゼはサイリを食べてしまった。大きな咀嚼音をさせて、ごくりと飲み込む。
「くそっ……おまえ!」
リュカが剣を振りかざした。
アグノスはその間に体を滑り込ませ、リュカの手首をつかみ、ベーゼの刃を受けた。
「な、なんで……」
アグノスは痛みで歪む顔を長い前髪で隠し、突き刺さったベーゼの刃を引き抜く。
肩から血が吹き出た。
ベーゼは頬まで裂けた口で笑っている。
アグノスは嘆息する。
「リュカ、剣をよこせ」
「嫌だ、おれがそいつを斬る」
「おまえにはできない。貸しなさい」
「怪我人こそ下がってろ!」
リュカがアグノスの横をすり抜け、ベーゼに向かって剣をふるい落とすが、かわされてしまった。姿勢
を立て直し、もう一振り挑むが結果は同じだった。
アグノスは肩から流れる血を右手でぬぐった。血の塊を手の中で作り、リュカと禁書の間に向かって投げる。赤い閃光が禁書とリュカをくらませた。
「わかってくれ、リュカ。一人にしてくれ。おまえがいると気が散ってしまう。守りながら戦うことはできない」
閃光が消えて、リュカの悔しそうに歪んだ顔が見えた。アグノスは目を伏せる。
光を受けてベーゼはもだえ苦しみ、黒い魔物はしゅうしゅうと激しい音を立て黒い煙を出している。
「足手まといってはっきり言えばいいだろう」
「違う、そうじゃない」
「師匠はまだジンバードの封印をしている、二人で戦うほうがいいだろう。オレは半人前だけど、あんたの怪我した左腕の代わりぐらいはできるはずだ」
「大した怪我ではない。血の閃光で時間を稼ぐ、おまえは逃げろ」
「そうやって、なんでも一人で背負いこもうとするな!」
リュカに怒鳴られた。
アグノスの思考は停止した。言われたことの意味がわからなかった。
「一人で身を粉にして戦って、一人で傷つくとかおれは許さないぜ。作戦を立てた時から、あんたからはその嫌な臭いがしやがった」
リュカはアグノスに背を向けて剣を構えた。
魔物から噴出されていた煙がとまった。倒れてベーゼにはい寄っていく。
アグノスは血の閃光弾を魔物に向かって放った。
「黒いヤツは任せた。ベーゼはおれが斬る!」
リュカが助走をつけてベーゼに斬りかかる。起き上がろうとしていたベーゼは肩を斬られて金切り声をを上げた。その声に反応して魔物が巨体を震わせる。アグノスは止まらぬ血を閃光弾に変えて放ち続けた。リュカはベーゼの刃を避けては、斬りつけている。
まさかリュカに叱られるとは。
生意気で向こう知らずな少年は勘の鋭い魔術師に成長していた。
ジューナ、おまえに彼の成長を見せてやりたい。おまえが可能性を見いだした問題児に俺は今、助けられている。
アグノスの息は切れてきた。
たいしたことないと言った傷は深い。閃光弾を連続で放ち、魔物の動きがにぶくなった隙に、マントを切り裂いて傷口に巻いた。
魔物が、赤い煙を吐き出した。
さっきより大きくなっている。
魔物の体から腕が、猛烈な勢いで生えてきた。
「リュカ! 逃げろ!」
アグノスの叫びは間に合わなかった。
魔物の巨大な手がベーゼとリュカをつかむと、体内へと取り込んだ。
リュカが黒い魔物の体へと飲まれていくのを、アグノスは止めることができなかった。
足の裏に振動が響いてくる。
魔物の体がぼこぼこと音をたてて、形を変えていく。
粘土質のような体はふくらんではしぼみ、人型を成していった。
アグノスは膝をついた。
また俺は失うのか。
アグノスの意識は薄れ始める。
俺は飲まれてはいけない、魔物の一部となるものか。
体をむしばむ痛みに耐え、アグノスは立ち上がり魔物を睨んだ。
そして必ずリュカを取り戻す。
※
ジンバードの下半身は、漆黒の沼に埋もれていた。
「ルーメラ、この闇を裂け! プロクス、あいつを焼き殺せ!」
ジンバードが呪文を叫ぶが、何も起きない。
「もう君は終わりだ。女王陛下の君命に従い、君を反逆罪で封印する」
レジスはジンバードを見下して、冷たく言った。ジンバードは体を食おうとする闇を手で押して、抜け出そうとする。
「まだ力が残っているとは。さすが、王を傀儡した宮廷魔術師だ。名家の魔術師として英才教育を受けただけのことはある」
レジスはしゃがんで、ジンバードの額を押さえつけた。ジンバードは歯をむき出し、レジスを睨みつける。
「精霊の加護なき者、人間など滅びればよい。たとえ何百年、何千年と封印されようとも、私の意志は変わらぬ。天から墜ち羽根を失った人間は、ただ繁殖するばかりの愚者だ!」
ジンバードが吠える。
「本来ならばとっくの昔に滅びるはずだった。貴様のような人間に荷担する魔術師がいるせいで生き延びている。なぜだ、奴らは私たち魔術師を異端者として追放したのだぞ」
「ジンバード、君は本当に頭が悪いな。魔術師は自分たちが神だと傲慢になり、人間を奴隷として虐げた結果、追放されたのだ。人間の力をあなどっていたからだ。人の力はすごい。我々にはない強さがある。我々は共存していくべきだ。封印する前に高説を聞かせよう」
レジスはうっすらと微笑みをジンバードに向けた。ジンバードの体は闇に埋まっていく。
ジンバードのこめかみに、青脈が浮き上がった。
魔力を奪われたジンバードは、口を開けたまま、目も閉じられず硬直している。
「人は魔力を恐れた。魔力が人の役に立つことを知ってもらう必要があった。魔術書はその役目をになった。魔術書は人の役に立った。僕が魔術書作家に成り下がったとは、ひどい侮辱だ。僕の人としての身をおびやかす魔力を精算するのに、魔術書の執筆はちょうどよい。おまえ程度の力で、人間を滅ぼすなどと考えた愚か者にはわからないだろうけど」
レジスはくすくすと笑った。
ジンバードは最後までレジスを睨みつけながら、闇に沈んだ。
レジスは異空間を解いた。
ジンバードを封印した黒水晶を肩にかけた鞄に入れる。
「うわっ!」
激しい風を受けて、レジスは顔を手でおおった。砂埃が目に入った。
痛みで涙を流しながら、吹き飛ばされないように木の幹にしがみつくく。
足の裏で地響きを聞く。
瓦礫が崩れていくような音がした。魔物が城を破壊しているのだろうか。
ジンバードを封印している間に、何があった。
吹き荒れていた強い風がおさまりレジスは目を開けた。
跳ね橋は壊れていた。魔物の姿がない。
レジスは魔力で体を浮かせて川を飛び越え、外に出た。城門は崩れていた。積み重なった煉瓦の山を乗り越えてレジスは進む。
天高く角が伸びている。角は三本あった。選択は鋭く黒光りしている。隆々(りゅうりゅう)と盛り上がった肩から、太い腕が伸びて、手には流い爪が生えていた。
足に肉はなく骨だけで、太い尾で体を支えていた。
喪失により生ける屍となった王の体が魔力でふくらみ化け物となって、そこに人を殺すために書かれた禁書ベーゼが融合して、魔人が完成したようだ。
手遅れだ。
滅びの運命からは逃れられないのか。皆が力を合わせてこの事態を防いでいたはずだ。
「信じてくれ。リトはおれが守る」
ベーゼは言った。彼は禁書を哀れみけっして人殺しはさせないと誓っていた。
ベーゼの守りをもっと強固にすべきだった。賢人ガラマが見落とすはずもない失敗だ。
魔人が動き出す。
レジスは煉瓦を蹴飛ばして走った。
絶望するにはまだ早い。
間に合う。




