最終章 エンスティクトの書7
涙を出し切ったルルディは放心し、ガラマの膝に身をゆだねていた。
「どうしてあたしを……アグノスさんは書いたの?」
「それはね、ルルディ。アグノスは亡き恋人ジューナの笑顔を、もう一度見たかったからだよ」
「……それって、あたしがジューナさんの……代わりだということ? ……死んだ人の、写しなの?」
「いいや、それは違うね」
ガラマの手がルルディの頬をなでた。心地よい、しわだらけの手だ。
「ルルディはルルディだよ。ジューナとおまえは似ているけれど、写しではない」
「あたしは、どんな力を持っている魔術書なの?」
ガラマは少し首をかしげた。
「それはわしも分からないのだよ。笑顔がおまえに書かれたすべての力である。それだけではない。人を笑顔にさせる笑顔、それ以上におまえには力があるのかもしれないね」
ガラマが優しく頭をなでてくれた。
ルルディは考えた。
「あたしの力……それじゃあ、どうしてアグノスさんはあたしをガラマお爺さんにあずけたの? どうしてあたしが魔術書だって黙っていたの?」
「そうだね、アグノスはおまえにどう接していいか分からなかったんだ。彼はとても不器用で、そしてルルディを書いたことに戸惑ってもいた。彼は無口で、そして無欲な男でもあってね。望みの物が手に入っても、どうしていいかわからなかった。魔術書であることを黙っていたのはね、おまえが魔術書らしくなかったからだ。まるで本当に生きているかのようで……それがなおさら、アグノスを戸惑わせた。だからわしにあずけにきたのだよ。そうさな、わしはとてもそれが、うれしかった」
ルルディはガラマの膝から離れて、立ち上がった。めくれていたエプロンの端を手でなおす。
笑顔が好きだ。
人は笑っていてこそ幸せであるとルルディは信じている。
笑顔が見たかった。
無欲な男のたった一つの願い叶えるために書かれた魔術書ならば。
ルルディは、アグノスがジューナについて語ったことを思い出す。
ルルディの作者アグノスは微笑んでいた。失ったことを乗り越えてアグノスはルルディという選択をした。笑顔を大事にすること。
ルルディはまぶたを閉じた。
内側に力がある。その色はもうすぐ咲きそうな真っ赤なバラの色だ。 一輪ではない。多くの花びらが見える。
「決めた。あたし、この力をすべて出し切る。あたしなら、あの怪物を倒せる」
ルルディはガラマお爺さんに微笑みかけて、ぎゅっと手を握った。
「ガラマお爺さん、ありがとう。あたし、分かったの。きっとまた帰ってくるから、魔術書店を復活させようね」
ガラマは少し驚いた顔をしたが、受け止めた、と言ってうなずいた。
「ライモ王子、あたしを女王陛下の元へ連れて行ってくださいな」
ライモ王子の顔に陰があった。
「もし……君は力を差し出すことで消えて……」
ルルディは背伸びして、ライモ王子の唇の前に人指し指を立て、くすりと笑った。
「それは、おっしゃらないでくださいな。あら、何かとても騒がしい」
今度はルルディの方からライモの手をとって、歩き出す。
どよめきが上がって、本拠地のテントの幕が開かれていた。
麦色の毛が揺れていた。尾を垂らし、頭を垂れた獅子がテントの前にいる。
「獅子よ、迎えに来てくれたのですね」
ユリアが獅子の頭をそっとなでて言った。
「ユリア女王陛下、あたしもお供させてください。ご存じの通りかと思いますが、あたしは魔術書。秘策がございます。きっとあなたのお役に立てます」
ルルディは一気に言ってから、ふっと小さく息を吐いた。
大丈夫、ルルディは知っている。
ユリアはしばらく黙視していた。
側で仕えていたキースは思案顔でユリアを見ている。
「わかりました。お願いします」
「しかし、危険では」
「いいのよ、キース。彼女が秘策だと言うのですから、信じましょう。あなたこそ、どうか獅子についてこれるよう、馬を飛ばしなさい」
ユリアは笑い、獅子にまたがった。ルルディは柔らかい獅子の体によじ登り、ユリアの背中にぴったりとつく。
「ユリア女王、しばし剣をこの手にあずけてください。私の力を貸しましょう。魔術をかけておきました」
ライモが両手で剣をユリアに差し出した。銀色の細い剣だ。水色の瞳が剣を優しく見つめると、一瞬だけ青く光った。
「ここは我々にお任せを」
ユリアはうなずき、剣を受け取った。
「さあ、行くぞ! 狂王を討ち平和を取り戻そう!」
ユリアが旗をかかげて檄を飛ばした。
応、と帰ってきた声は力強い。
獅子が走り出した。獅子のしなやかな走りは、乗っている者にはきつい。
「ルルディ!」
「ルルディー!」
「マヤちゃん!」
「だめ、行かないで、ルルディ!」
マヤは泣き叫んでいた。彼女もきっとルルディが魔術書だと知っていた。ガラマから聞いて駆けつけてきたのだろう。
ルルディは、笑顔でマヤに手を振った。立ち尽くしたマヤがぼろぼろ泣いている姿が見えなくなるまで、力いっぱい手を振った。
アグノスに書かれた、アグノスと日々を過ごした。彼の隣は暖かく、彼の瞳は穏やかで、ひっそりとした微笑みは豊かさをくれた。
あたしには「秘策」がある。




