最終章 エンスティクトの書6
城から黒煙が上がっている。
レジスとリュカの靴底は鋭い音を立て、城門まで来た。
門は開かれ、跳ね橋が降ろされていた。水路が濁っている。
「待って、下がろう」
レジスが言った。リュカが一歩下がると、レジスが手のひらを夜空に向けた。
守りの光に覆われる。光の膜から様子を伺うと、城の扉が壊されていた。
魔物が出てきた。
手も足もない、黒い塊が地面をはってくる。
しゅうしゅう小さな音を鳴らし、黒煙を上げている。リュカの目は塊の端をとらえたが、全貌を見ることができない。
怖い。
臓腑がしぼんでいくようだ。
こんなものを、知らない。
人がこんな風になることをリュカは認めたくなかった。
手首まできた鳥肌を、リュカは拳を握って取り消す。背中に手を伸ばし、魔術書を手にする。青の表紙に剣の刺繍、糸のなめらかな手触りを確認する。
あいつの方がオレよりも怖いに決まっている。そこに悲哀と躊躇と、憎悪が混ざって苦しいに違いない。
「ここまで来たか。なんと呼べばよいものかやら……レジス、と今は呼べばいいかな。真実の名は隠しておいた方がいいのかな?」
魔物の脇から、ジンバード・オルフが現れた。魔物はジンバードの登場にひるんだように、巨体を縮めた。
「僕のことは好きに呼べ、ジンバード・オルフ。ここより先は決して通さない」
レジスが両手を合わせて、リュカに目配せをした。
リュカはうなずく。
「剣をふるえ、青の騎士! サイリ!」
魔術書の名を呼ぶと、軽やかに騎士は参上した。青の鎧は華奢な体に合わせて薄いが、白く輝く剣は大きい。
騎士サイリは、リュカを振り返った。
三つ編みの黒髪を背中に垂らした、青い瞳の美しい少女騎士はまっすぐにリュカを見ている。
「師匠を守れ、サイリ」
「了解した」
サイリはレジスの前に立つと大剣を両手で握り、正面に構え、魔力を両手で溜めているレジスの盾となった。
魔物の黒煙が弱まった。
リュカがようやく形にできた魔術書だ。力は申し分ないが、出来映えに喜んでいる暇はない。
「何をしているのやら」
ジンバードが近づいてくる。リュカを一瞥すると、舌打ちをした。
「魔術師が王権をもってはならぬと世が定めるもっと前のこと。古き良き時代と言おうか、魔術書など存在しなかった時代のことだ。選ばれし一族、シビュラの名を持った王は人間の謀反で暗殺された。王の名はフリソス・シビュラ。その生き残りは力を隠すことで生き延びてきた。あまりにも膨大な魔力……それは人間にとって脅威であった。謀反にあった一族は人間に逆らうことを忘れてしまった。なんと臆病な一族であろう」
レジスは目を閉じている。ジンバードの語りを聞かないようにしている。
「大剣をもっているだけの魔術書も聞くが良い。おまえが守っている師匠とやらの正体を。そこの弟子は知っているのかな? 言ってしまって良いのかな?」
ジンバードがせせら笑う。
「勝手にしろ。ぺちゃくちゃとご存じのことを喋ってろよ。遺言として聞いてやるさ」
リュカは鼻で笑った。
ごく信頼できる人物にだけ、レジスはレジスでないことを語っている。
レジスは、レジスという名をもっとも愛している。シビュラという古くさい、ただ力だけ持つ一族の末裔であることがレジスは嫌がった。
ジンバードの目が鋭くつり上がる。
「愚者のふりをして魔術書など書いていて、恥ずかしくないのかね。リョダリ・フリソス・シビュラよ。愚民として生き愚民を守り、その代償は何もない。その偉大な力を魔術書としてただの人間に分け与えるなど力の無駄使いだ。目を開けて聞くのだ、リョダリ・フリソス。黄金の魔術師よ、時代は再び魔術師の時代に戻るべきだ。魔力のない人間など、私たちの下僕であるべきなのだ」
ジンバードの頬がひきつった。口の端が震えて、ひくひくと動く。
レジスが目を見開いた。金色の髪はたてがみのように逆立っている。
「サイリ、やれ」
「わかった、黙らせる」
サイリが大剣をふるって、ジンバードの右肩から胸にかけて、切り裂いた。
ジンバードの体が傾き、レジスの方へと倒れ込む。
「おまえだけは絶対に許さない!」」
レジスが両手を広げて、魔力を解放した。ジンバードの胸ぐらをつかむ。漆黒の球体の中に、二人は飲み込まれていった。暴れるジンバードの片足が、渦を巻く黒い空間へと吸い込まれていった。
魔物は動かない。
リュカは数歩下がって、魔物を見た。頭も手足もない、輪郭も歪んでいて形がない。悪しき魔力を集めて作った、砂山のようだ。黒い化け物の中には、赤があり、青も見え、白い光らしきものをちらつかせては消えて、紫が渦を巻く。
かつて人だった名残りはない。
完全な魔物だ。
ジンバードは王を人としてすら見ていなかったのだ。
「……なぜ、ユリアのことを忘れた……」
魔物が吐く黒い煙で、空が汚れていく。
「おまえには娘がいただろう! あいつのことを、なぜ考えなかった。自分のことばかり、それでもかつて王だっのか? なんで、あんないい娘がいて、なぜそうなってしまう。信じたくねぇよ、こんなの!」
リュカは叫び、うめき、泣いた。
柔らかな手が、肩にふれた。
「作者よ、アレにはもう、何を言ってもわからない」
サイリが言った。無表情のその顔はユリアによく似ている。彼女のために書いたからだ。
ユリアを守りたくて少女騎士サイリを書いた。リュカはユリアの運命の、片側だけでも背負ってやりたかったのだ。
「くそっ、ちくしょう……わかってる」
リュカはぐっと涙を拭った。
背後から、蹄の音が近づいてきた。
「作戦は成功したようだな」
アグノスが馬から降りて言う。
リュカはうなずき、ほっと息を吐いた。
「リョダリ、行け! 女王陛下を乗せてこい!」
魔法樹の根本で休んでいたリョダリに命じる。リョダリの毛色は金から麦色に変化していた。
レジスの持つ莫大な魔力は、リョダリの書に封じられていた。
魔力で作り出された漆黒の異空間、そこでジンバードはレジスの牙を見て、震えていることだろう。
リョダリは、しなやかに走っていった。
※
「なんであたしが、こんなことを」
ガラマは美女に背負われていた。
美女はずっと同じことを繰り返しながら、城壁を軽々と飛び越えて街を走ってくれた。
危険を素早く察知して回避し、安全な道を彼女は瞬時に選べた。
「すまないね、ベラドンナ。おまえは美しいだけではなく、強くて早い」
「あたしは万能、なんでもでるの。だけど、もうお爺さんを脱獄させておんぶするのはもう絶対にやらなかいから!」
ベラドンナは強い口調でそうは言ったが、人間に危害を加えて地下の書庫行きから、久しぶりに姿を現せて楽しそうだ。
「お爺さん、助けてあげたご褒美、あとでたくさんもらうからね!」
「はいよ」
ベラドンナは本当に人に使われるのが好きなのだ。
しかしその想いが強すぎた。作者の有り余る力を受けた、強い美女の魔術書だ。
さて、これからが大変だ。
魔物が禁書を喚んでいる音をガラマは聞い
た。それはもう声ではなく、ごうごうという音で、鳴き声でもなかった。
※
ベーゼを追ってルルディは街に出た。
炎によって家から追い出された人々が道ばたにしゃがんでいる。子どもが母親の膝で眠り、母親は疲れ切った青い顔をしていた。
看護師と赤マントの消防魔術師隊が走り回っている。
ルルディは空を飛ぶベーゼを見失わないようにしながら、人混みをかき分け走った。
黒い羽根は素早く、迷いなく飛行していく。
ベーゼは言っていた。おれの中にいる禁書、人殺しの書は決して悪くないと。リト、と呼んで守っていた。
けれど、リトを喚ぶ者は、魔物だ。リトは力を求められた。ベーゼが正気を失ったのは、魔物がついに城から出てしまったせいだろうか。
なんとかしないと。殺人の書リトの覚醒を知っているのはルルディだけだ。
仲間たちと、アグノスたちとベーゼを守ると約束したのに。
知っている道が瓦礫でふさがれていた。ルルディは他の道を探した。
その隙にベーゼを見失ってしまった。
ルルディは焦って他の道を探そうと、空を見たまま走った。商店街の大通りから、一気に走って城へ向かわなくては。
右足が何かに引っかかり、転んでしまった。
地面についた膝を抱えて、ルルディはぐっと堪える。痛くない、こんな傷。だってあたしは人間ではなかった。魔術書だった。
みんなはルルディを人間の女の子として接した。どうしてだろう。なぜ、アグノスは黙っていのだろう。
ルルディは立ち上がれない。
ほっぺたが熱い、濡れている。
あたしは、みんなと違うことなんて、ひとつもないと思っていた。
けれど親はいない、幼少の記憶もない。ルルディは目覚めたときにはもう十代の少女で、自分の名前も教えてもらうまで知らなかった。
何の疑問ももたず、ガラマお爺さんと魔術書店で暮らしていた日々が遠い昔のように感じる。
どうして、という自分の声が頭の中で反響している。
あたしは何の力を持った魔術書なの。
「大丈夫? 安全な場所に行こう。ここは建物が崩れていて危険だ」
声がして、ルルディは顔を上げた。
大通りの方は、なぜか昼間のように明るく、声をかけてきた青年の姿もよく見えた。優しげな顔に、不釣り合いな黒い鎧を身につけている。
この国の兵士ではなさそうだが、身分の高い人のようだ。ルルディは立ち上がり、くたびれた礼をした。涙で濡れた顔を手で隠す。
「すいません。大丈夫です」
「いいや、君は大丈夫じゃないみたいだね」
青年がルルディの前にしゃがみ、ルルディをのぞき込んできて、そっと笑った。彼は水色の瞳をしていた。ルルディはその輝きに射られてたた。黒いものばかり見てきたから、水色がおそろしいまでに鮮やかだ。
「君はもしかして、ルルディじゃないかな?」
ルルディは少し驚き、うなずいた。
「そうか、やっぱり。君を待っている人がいる。行こう」
青年は革の手袋をはずし、白い手のひらをルルディに差し出した。
「あの……あなたは?」
青年の手はためらうルルディの小さな手を、そっと包み込んだ。やさしく有無を言わせぬ導きだ。
「僕はライモ・フリック。レイサンダーから話は聞いているだろう」
「ライモ王子!」
ルルディが驚いた声をあげると、彼は目を細めて微笑み、人指し指を口の前で立てた。
「内緒だよ。僕はおとなしく陣営にいろと言われたけれど、じっとしていられなくて、うろうろしてたんだ」
ライモに連れられて出た大通りは、商店ではなくなっていた。
白いテントが並び、兵士たちが警護している。大通りを塞ぐように設営されたテントの頂点では、青い旗が掲げられていた。
ライモはルルディを、そのテントへと連れていってくれた。
ライモの横顔は、平凡な若者だ。
つないだ手は厳かに冷たく、青い脈が透けて見えるほどに白い。
不自然な人だ。
優しい顔に怖さがある、細い身体には決して折れない剣がある。つないだ手の細い指はつかみ所がなく、ルルディは落ち着かなかった。
テントの入り口の布には、鍵印が刺繍されていた。ライモが立つと幕はするすると上に開く。
疲れてうつむいていたルルディは顔をあげて、ぱっとライモの手を放した。
「ガラマお爺さん!」
ルルディは椅子に座っていたガラマの膝に飛び込んでいき、わんわん泣いた。




