最終章 エンスティクトの書5
踊る火の粉を、冷風で消し去る。
炎を我が手に、炎を我が手に!
消火魔術隊の怒声が止まない。
「おい、レジスのヒモナス……すまねぇが、冷やしてくれ」
上半身裸の男がどっかりと腰をおろすと、汗が滴り落ちた。ヒモナスは袖で口を覆う。
消防魔術隊の一番隊長、ラグゼンは全身が真っ赤だ。体内に炎を取り込みすぎだ。むっと男の汗を放出している。
「レジスの、と呼ばれるのは止めてくれ。水の魔術書、まずは水をぶっかけてやれ」
ヒモナスは一歩下がり、水の魔術書に命令した。はいはーい、と陽気な答えで少年の姿をした水の書が、頭からラグゼンに水を浴びせる。
屋根の上から下を見て、ヒモナスは眉を寄せた。兵士が道の端に吹っ飛ばされている。
黄金の獅子が、走ってきた。
獅子が走ると空は明るくなった。 闇を飲み込み、炎をかすめさせる光の獅子に、レジスがまたがっている。
丸メガネを外した真の姿だ。
「見よ、我が作者の力だ」
ヒモナスは笑った。
「変わらず派手だな。おい、ありゃ暴走しているんじゃ……」
ラグゼンが身を乗り出す。ヒモナスは冷風で彼を倒し、尻餅をつかせた。
「ったく、手荒いな」
「あと、一時間だ。一時間しかおまえの体は持たない。皮膚の下から焼けたくなければ、私の言うことを聞け」
ラグゼンの赤くなっていた皮膚は
小麦色に戻っていた。汗もひいて呼吸も落ち着いている。
鍛えられた体は鎧いらずのように思えるが、彼もまた人の子、魔力の限界値を越えれば死んでしまう。
「へいへい、わかってるよ。じゃあ、くれぐれも頼んだぜ」
マントを羽織ると、ラグゼンは隊に戻っていった。彼が一時間という約束を守れるように、ヒモナスと水の書は働かなくてはならない。
「水の書よ、おまえは名前がなくていいのか? おまえはレジスが本能で書いた書、名前が必要ではないのか?」
どれ、私がつけてやろうか。
ヒモナスは笑って問う。
「いいんだ、僕は名前がなくたって。その方が自由だから」
折れたガラスペンと粗末な紙に書かれて出現した水の書。少年の姿と、成人の姿と自由に姿形を変えていく。正式な名も、本としての体裁もあやふやだが、ヒモナスよりも確固たる存在意義を持つ。
「あのね、彼女を……先生の親友の婚約者で、大切な友達だった彼女を救えなかった引け目はないよ。僕はただ、水と呼ばれたいのさ。僕は溢れる、たくさん溢れる」
歌うように水の書は言い、笑う。
その顔は彼が「先生」と呼ぶ作者レジスによく似ていた。
「そうか、私たちは自由だ。水と冷風、さあ我らの力で怪物を封じ込めようではないか」
「がんばろうね」
レジスはうっすらと微笑み、背後の炎を振り返る。まずは火消しといこう。炎の焦点を目で探る。火の源に向かって、レジスは冷風の矢を射る。
※
振り落とされる。
リュカは獅子の尾にしがみついた。
「どうっつわっっと」
長い尻尾にしがみついたおかげで、なんとか地面に頭をぶつけずにすんだ。
一安心した所、尻尾がいきなり急上昇した。そういや、猫は尻尾をつかむと嫌がるな、と思い出していると、体が急降下していく。
「ほわぁああ、師匠ー!」
「リュカ、こっちだ!」
リュカはレジスの伸ばされた手をつかみ、なんとか獅子の胴体に戻った。胃袋が揺さぶられて気分が悪い。吐き気を押さえつつ、リュカは周囲を見渡す。
黄金の獅子リョダリは魔法樹に額をどん、とぶつけた。
光を帯びた世界樹の葉が散らばっていき、夜明け前のもっとも暗いこの時間を、明るくさせた。
家々を燃やしていた炎も消えている。合戦の声と音は遠い。広場は奇妙な静けさだ。
「リョダリ、おろしてくれ」
リョダリが体制を低くした。
レジスとリュカは地面に降り立つ。
リュカは少しふらついて、リョダリにもたれかかって毛をつかんでしまい、ぐわ、と文句を言われ牙を見せられた。
リョダリが起こした砂嵐が徐々に落ち着きはじめ、人影が見えた。小さいの大きいの、どちらもも魔の力を放っている。
赤黒い目が見えたと同時に、リュカは腹に衝撃を感じた。
「ティ……ティ……ちちち」
奇怪な音を分厚い口が発していた。リュカの腹を殴ったのは、巨漢の男だ。灰色の体はどこも盛り上がっているが、手首だけ皮がだらんと伸びている。
「お……お……おではおではおでは……はこ……もてく……もてく」
濁った声で不可解な言葉を巨漢は発して、リュカを殴ったことでくたびれたのか、膝をついた。
「師匠!」
レジスは髪の長い女と対峙していた。女の髪がレジスの足下に迫る。レジスは飛んでよけて、火を放った。
女は悲鳴を上げて燃え尽きた。
体は崩れて、女は紙きれになって燃えていく。
人ではない。
「魔術書だ、凶暴性が書き加えられている」
レジスが苦々しく言った。
「ジンバード・オルフ! 呪を使った罰は大きいぞ!」
レジスが叫んだ。
「う、うおおおおおお!」
灰色の巨漢が雄叫びを上げた。
レジスとリュカは同時に炎を放ったが、手で払われてしまった。太い腕を巨漢は振り回し、レジスに突進していった。
冷風が吹いた。巨漢は腕を振り上げたまま、凍り付いている。
「助かったよ。水の書、ヒモナス、ありがとう」
倒れたレジスに、水の書が手を差し伸べる。ヒモナスは氷付けになった巨漢を見上げた。
「かわいそうだよ。本来は人を襲う魔術書じゃない力の書だ。たくさん重いものを運んで、働いてきたんだよ」
水の書が泣いた。
「最低なことをしやがる……師匠、元に戻してやることは無理か?」
リュカは答えをわかっていながら尋ねた。
「力の書よ、魔力を解放し紙に戻れ。おまえの役目は終わった。テロス……アトレージョン・テロス……」
巨人の拳を握り、レジスが呪文を唱えると紙切れが飛散した。二メートルを越える大男は、薄汚れた紙に戻った。
「許さない。決して許さない!」
レジスの目が紫色に変わる。怒りで封じ込めていた魔力がせり上がってきたのだ。金色の髪が燃え上がるように浮き上がる。
リュカは師匠の真の怒りを見た。
※
「気配がする。私は先にレジスたちと合流する。キース騎士隊長、女王を頼む」
「任された」
魔術師アグノスがそっと言い、黒い馬を軽やかに操り、戦乱をすり抜けていった。
「怪我人はこっち! 洗脳されているのはこっちよ!」
魔女が忙しく治癒を行っている。キースたちは魔女の守り袋があるので、ジンバードの洗脳は受けなかった。
レイサンダーが来なければ、キースも正気を失っていただろう。
いや、ずっと前から正気ではなかった。
キースは王を殺し、自分も死ぬと決意していた。
レイサンダーはなぜか、それを見抜いていた。
「騎士は王族の盾よ。盾が女王より先に死ぬとは騎士道に反する女王を守りなさい。王を殺すのは女王の仕事、驕るではない、騎士の仕事ではない!」
レイサンダーに一喝されて目が醒めた。キースは反王政勢力を城側につきながら加護していた。遠くにあって女王を守ってきた。もう、そんな歯がゆいことは終わりだ。
「ユリア女王陛下! アグノスがジンバードと王が出てくる気配を感じて行かれました!」
キースは女王に進言した。
「了解です。合図があればいつでも進軍できる準備を」
「こちらは我々に任せてください。峰打ちなら得意な黒の軍団ですから」
ライモ王子が微笑む。緊迫していたユリアの表情が和らいだ。
新時代を築く若き女王、自分は彼女を守る固い盾である。
キースは騎士道に立つ。
※
木が裂ける音を、ルルディは聞いていた。ベーゼは姿を変えた。
黒いとがった羽根が彼の背中を突き破るように生えた。ベーゼはひどい悲鳴を上げた。
ルルディは目を閉じて、耳を塞いでしまった。
「ベーゼ……リト、ベーゼ、リト、リト、呼んで……いる」
濁音の呟きと、生臭い臭いがした。黒い羽根が上下に動き出す。ベーゼと繋がっていない、別の生き物みたいだ。
「待って!」
ルルディは叫んだ。
ベーゼの細い体は、黒い羽根にさらわれていくようだ。
ルルディは追いかける。戦場となった街の煙たさにむせながら、自分の力を探っていた。
あたしは何のために書かれた魔術書なの?
あたしの魔力は?
あたしは、みんなを救うことができる?




