最終章 エンスティクトの書3
大切に伸ばしていた髪を切ったの、やっと女の子らしくなったのに、男を装ったのよ。
誰も私のうなじを見ないで欲しい。
母と兄を失い、父が狂った。使命感と脅迫は似ている。愛国心という脅迫に従い、ユリアは自分の行く道を恐れながら髪を切った。
知られたくない、いや知られたい。
ユリアはうなじを押さえながら、膝頭に額をつけた。
勇敢な女王になりたい。いや、悲劇の姫となりたい。どうして今夜になって揺らぐのだろう。
迷いを捨ててきたはずだ。
楽しんですらいたのに、いよいよ決戦となり眠れずに寝台でうずくまっている。
コン、コンと一拍置いた小さなノックがした。
「はい」
返事をしたユリアの声ははっきりしていた。
ドアが少しだけ開かれて、一筋の橙色の灯りがユリアの親指の先を照らした。
「こんばんは、ユリア王女。夜遅くに失礼いたします」
男性の声がした。ユリアは慌ててシーツでむき出しの足を隠した。
「どなたです? ご用をおっしゃってください」
毅然とユリアは答える。
少しの間があった。ユリアは身を乗り出してドアの隙間を見ようとした。
くすくすと笑い声がした。
ユリアは慌てて体を引っ込めて、なんて失礼な男だろうと眉をひそめた。
「失礼。やはり、眠れずにいましたか。そうだろうと思ってドアをノックしたのです。あなたもまだ若い王女様なのですね。父王を討つと決心なさった姫様とはあればきっと剛胆、きっと高いびきで寝てらっしゃるかと」
柔らかい男の声が、すららすと言った。
ユリアはむっとした。
「いきなり失礼なお方ですね。名乗りもせず、顔も見せずに」
寝台から降りて、ユリアはドアを開けた。カーテンの閉じられた窓と対面した。誰もいない。
「こっちですよ。下をごらんなさい、ユリア女王」
彼を見つけて、ユリアはわっと声を上げそうになった。床に若い男が座っている。ランプを足下において、敷物もなしに座っている彼はビロードのマントを着ていた。
艶やかな黒いマントには金の刺繍、絹のシャツと身なりが良い。誰か検討もつかない。彼は黙って微笑んでいる。ユリアはじっとその顔を見る。不思議な瞳をしている。初めて見る、青よりも淡い色、水色だ。
黒髪に、水色の瞳。
「まさか、あなた……」
「初めまして、ユリア女王。ライモ・フリッグ・です」
ぺこりと会釈をして自己紹介をした。
「ど、どうも」
彼について知っていることは噂話ばかり。隣の国の王子で、龍を討った英雄、元は庶民。
ユリアはライモ・フリッグに謁見することを現実的に考えていなかった。
援軍をよこしてくれた国に対して謝礼をしなければいけないだろう。それは儀式的なもので、こんな夜中に、しかも気さくな対面になるとは思わなかった。
「よろしければ、どうぞ。マヤさんがあなたのためにとクッションを置いていってくれました。私でよろしければ、眠れぬ夜の話し相手となりましょう」
ライモが隣を勧めてくる。ユリアは手触りの良い柔らかなクッションの上に座った。
「どうぞ」
ライモが黒いマントを無造作につかんで、手渡してきた。受け取って膝元に寄せると重いビロードの裏地がしゃなりと鳴った。
よくわからないけれど、こうしたほうが正しい気がして。
ユリアはライモ王子の隣に座り、彼のマントでナイトドレスを隠した。ユリアの体をすっぽりと覆ってしまうほど、マントは大きく重い。
「やっぱり」
ライモは言った。
「あなたは気の強そうな少女だ。僕が想像していた通りの人ですよ」
ユリアはまた、むっとした。
「そうですか。あなたはレイサンダー騎士隊長のおっしゃっていた通りの優男ですね」
言ってやった、とユリアは小さく鼻を鳴らした。
マントをとったら、ライモ痩せた年若い男だとわかった。背もそんなに高くない、顔立ちは整っているが大きな水色の瞳以外、特徴的な所はない。
「ええ、その通り。だって僕は王族育ちではありません。元道化師の下町育ちですよ。いきなり王子らしくしろと言われても、無理な話です」
「ですが、あなたはヘレナ王女と恋仲となり、龍を魔法の剣で射止めた。そして龍の髭を持ち帰ったの
でしょう? あなたは英雄と呼ばれています」
「それは事実です。だから僕は王族となった。ヘレナ王女と結婚して。彼女を愛したがために、僕は無理なことをしています。王子らしく、ふるまっているのです……誰かに命じられてでもなく、自分で決めたことでもない。そうしなければ、いけないから。私は王子。未来の王、カサオ国を統べる者」
ライモの顔から微笑が消えた。
ユリアは黒いビロードのマントを握りしめた。拳の中へ、手中へおさめるように。
「……わたしは……私は女王。明日の女王、国を統べる女王陛下」
自分の意志なのか、誰かに動かされているのか。もはやわからないが、ユリアは女王として生きる。
ライモが王として生きるように。
女王になるように育てられなかった、突然の不幸で女王となる運命に
導かれた。
「私はかわいそうね。けれど、あなたも。愛の運命だけど、幸福ばかりではない」
ユリアはライモから目をそらし、小さなため息をついた。
「あなたはとても、かわいそうだ、ユリア。だけどとても、しあわせだ」
「そうね、ライモ」
ユリアは立ち上がり、ライモにマントを返した。ライモはマントを受け取り、立ち上がる。
夜にあっても黒いビロードのマントはよく目立つ。
「あなたは青の女王だ。私たちは特別だ。そして不幸だ。けれど一人ではない」
「青の女王?」
「あなたは青いままでいい。青く未熟なままでいいのです。勇者と賢者に支持される才能がある。賢人ガラマがあなたの手紙を読んで動かされたのは、賢人の優れた洞察と、そしてあなたの天性によるもの。これからもきっと、あなたには必ず救いの手が差し伸べられる。その才能をどうか忘れずに、青の女王陛下」
ユリアは微笑んだ。彼とは目線が近く、やはり優男だと改めて思った。
ライモは優しく微笑んでいる。
ユリアは心底、ほっとした。
「おやすみなさい」
ユリアはそう言って、ドアを閉めてから、短く深い眠りについた。
※
午前三時に戦争を開始する。
素晴らしい案だと魔術師ジンバード・オルフは自分で考えたことにうとりとする。
午前三時には眠れぬ者と、睡眠のもっとも深い所にいる者と、悪夢を見ている者がいる。それぞれを一気に戦争で覚醒させる。
偶然の不幸で起きた、偶然の戦火にもっともふさわしい時間だ。
優秀な魔術師一家であるオルフ家に、王家より依頼があった。この度の馬車の落下事故を徹底的に調べ上げろと。
跡継ぎの王子が乗せた馬車が落ちて、王子が死んだのだ。暗殺が疑われた。
一滴のインク落ちもない、完璧な白紙だった。
命令通り疑うことに徹底したが、完璧な事故だった。
それが王を狂わせた。暗殺者への復讐を王は望んでいたのだ。復讐する相手がいない。
誰のせいでもない不幸が、王の心身を悲壮、憤怒、怨念、ありとあらゆる負の感情で満たした。
愛する者を失った行き場のない想いが発端で、偶然の戦争を午前三時に勃発させる。
魔術がもっとも輝くのは、戦場の殺戮だ。
そのような思想を持った魔術師ジンバードが近づいてきたことも、また偶然の不幸のうちなのだろうか。
王にはもはや、思想はない。
王はもうすでに体があって、魂はになく、この国は王を失っていた。
「さあ、目覚めよ……王よ」
狂王が目覚める。
※
亡き者を愛すれば、いずれ、さまよう亡者となるだろう。
王は王として生きることをやめたかった。しかしそれは、許されなかった。
王はあらがった。愛する者を失った人生を憎み、嘆き、不幸からあらがった。
そして王は亡者となった。
うつろな王という杯に、魔が注がれて、魔物となった。
「どうして顔を上げてくださらないの? お父様、私はここにいます。私がいますのに」
姫は何度も王の前で泣いた。それはひたすら王を絶望に突き落とした。姫の涙を、王は悲嘆することを許されていると間違った解釈をした。
「お父様、私は太陽を浴びてきます。私は日陰で生きるのは嫌よ」
娘はそう言って出ていった。
そして反王政勢力の筆頭となった。
青の女王陛下は進む。




