最終章 エンスティクトの書2
頭の上に暗雲がある。いつからか思い出せない。不穏な空気が国中に広がり、大きな黒い雲となって青空を侵した。
一介の兵士である自分は、黒い雲に従うしかないのである。妹の病を治療するための費用、それはまかなうため兵士となった。
若き兵士は裏庭番を任された。
王の寝室がある城側を、交代で見見張っている。少しでも異変があれば伝えろとの命令だ。それは庭への侵入者ではなく、王の寝室の窓である。
つまり、裏庭番をしているのではなく、見張っているのは王の寝室だ。
解せない。
王は心の病で寝たきりだと聞いている。王妃と王子を同時に亡くし、病に伏せている王をなぜ見張らねばならぬのか。
宮廷魔術師ジンバード・オルフ。
見下した目つきをする嫌な男、奴が来てから暗雲は出現した。
今回の戦争もジンバードの策略であるであると若い兵士は読んでいる。弱っている王につけこみ、宮廷を意のままにしようとしているのだ。
なぜ、名だる大臣たちはそれに気づかぬのか。
「ごめんあそばせ」
急接近してきた気配に、若い兵士は後退して槍を構えた。しまった、思考に集中してしまい警備を怠った。
「ふふふ、かわいいわねぇ……ちょっと辛抱してちょうだい」
長身の男が甘ったるい声で話しかけてきて、鼻を指でつん、とついてきた。怖気がする。
こんな大きい奴が侵入してきたのに、気づかなかった。自分の失態を若い兵士は悔やむ。
「や、やめろ! 貴様! 何者だ!」
槍を男の首もとに向けたが、あっさり手で跳ね返された。ぐっと槍の端を握られたと思ったら、若い兵士は地面に転がっていた。
「はい、おやすみ」
腹に重い一撃がきた。
若い兵士は意識を失った。
甘ったるいバラの香りと、そして頬をつつく指の感触が意識の端に記憶されてしまった。
※
レイサンダーはキースに会うため城内に進入した。
「騎士道に生きる私たちは、視野が狭くなることがあるのよ。自分を律することで心の余裕がなくなっちゃうの。ねぇ、そう思わない?」
レイサンダーはキースに言った。
剣を構えず、鞘にも手を置かずにキースはレイサンダーを静観している。
「あなたは騎士道に生きている。悲しいまでにまっとうにね」
レイサンダーは一歩、キースに近づいた。彼はわずかに緊迫した。
「騎士として尊敬するわ。けれど人としては尊敬できない。あなたは動く鎧ではないの」
レイサンダーは腰に手を当てて、きっとキースを睨んだ。
「人が人を守るということの意味を知りなさい! あんたの考えをあたしは見抜いているのよ」
「何を急にいきり立っているのだ異国の騎士よ。おまえが犬のようにあちこち嗅ぎ回っているのは知っていた。俺のことも調べたのだろう」
「ええ、知っている。あなたは悪の宮廷魔術師に洗脳されていない。それはあなたの中に、反戦に対する強い思いがあるから。あなたは王女側につきたいのでは?」
「初対面で知ったような口を聞くな。他国の騎士と争っている場合ではない、早く立ち去ってくれ」
「わかったわ。待ってるわよ、キース」
レイサンダーはキースに声をかけて、背を向けた。返事は返ってこないが、彼はこちらに来るとレイサンダーは信じた。
レイサンダーがこの国に遣わされた本当の意味は、騎士道のためだ。
※
黒い手に眠りから引きずり出される。夢うつつの光から、現実の暗闇に放り出された。
喧噪が恐ろしく、ルルディは震える。
王都に悲鳴と怒声が飛び交う。
城が燃えて、旗を持った兵士がこれより戦を始めると開戦宣言をした。
兵士は民家に松明を投げ入れた。
逃げ出してきた人々を兵士が捕らえて連れていった。
誰も、何が起きているのかわからない。凪いでいた海が、突然荒れたような夜だ。すがる物もなく人々は荒波に呑まれる。
「ルルディ、君にベーゼを任せる。いいかい、何があっても外に出てはならない。ここは防火魔術をかけてある」
アグノスがルルディの肩を抱いて言った。珍しく焦って揺れる彼の瞳が、ルルディを不安にさせる。
「わかったわ、絶対にベーゼを守る」
ルルディはベーゼの書を抱きしめ、何度もうなずいた。
アグノスは行かなくてはならない、心配をかけたくない。
「アグノス! 早く!」
レジスが呼ぶと、アグノスはルルディをしっかりと見つめて出ていった。
ルルディは二人が出ていくと、テーブルを力いっぱい押してドアを封鎖した。さらに椅子も重ねておいた。
「はじまった……」
振り返ると、ベーゼが本から人の姿になっていた。
「だめよ、本の姿に戻って」
「嫌だね」
ベーゼがせせら笑う。
「お願い、言うことを聞いて。あなたが見つかってはいけないの。ね、早く」
ルルディは小声でベーゼを説得するが、彼はうつろな目で遠くを見つめて、聞いてはいない。
「おまえ……自分の出生について知りたくないか?」
「え?」
「おれ、知ってるよ……おまえはね、書かれたんだ。人間じゃないんだよ」
その言葉はルルディの芯を、一直線に通った。真実とは否定しようがないのだ、体を突き刺す、だってすべて体が知っているから。
「……あたし……あたしは……魔術書」
体の力が抜けていく。
へたりこんだルルディを見て、ベーゼは笑った。高い高い笑い声を、ルルディは放心して聞いていた。




