最終話 エンスティクトの書1
春祭りをレイサンダーは楽しんだ。
商店組合の男どもはがさつだか良い連中で、レイサンダーが素を出して女言葉ではしゃいだら、笑える話をいくつもしてくれた。
騎士として民衆を守るため、酒は飲めなかったが、この国の春祭りは本当に良いものだと浮かれられた。
春の踊りのクライマックスが終わると、民衆は退散し、兵士たちの捕獲を逃れた。
商店組合が手際良く撤収し、まるで祭りなんかしてませんでしたよ、という知らぬ存ぜぬで通した。
顔を真っ赤にして怒る少将の顔は見ものだった。
あれから一週間、警備する兵士は増えて、街は物々しく空気が重い。一触即発の緊張で、民衆の顔から微笑が消えた。
絶対に良くないことが起きる。
この国は不安を抱えている。
レイサンダーの魂は自国にある。異国の嘆きに共感しきれないのが、もどかしい。
「もっとも疑いたくない人物を、疑わねばならぬ……わかってはおりますが、この年になってもやはり堪えますな」
賢者ガラマは憂い顔で言う。
ここ数日、店は開けていない。
アグノスが待機していた。ずっとアグノスが家にいるので、ルルディは不思議そうに、照れくさそうにしているという。
彼女は事態の半分しか知らない。
「ですわね……騎士は疑うことが仕事ですわ。王族を守るためにね。疑うことに慣れていない、というのは人として良いことです。……あたしは少し、慣れてしまったから」
レイサンダーはティーカップの淵を、そっと人差し指でなぞった。
ガラマに危機が迫っている。
魔の手はがラマが信頼していた友人の息子だった。突然現れて、宮廷魔術師となった、とある男。
妻と息子の死で心を病んでいた王が、人ではなくなったのは、その男が来てからだ。
冷風の魔術書ヒモナスの報告によると、王は怪物のような姿で、宮廷魔術師が世話をしているという。
王女ユリアが発見した、王が国を破滅させる恐ろしい企みを実現化しようとしているのは、この宮廷魔術師と見て間違いない。
最初は心が悲しみに沈んだがゆえの、王のいっときの狂気が引き起こした計画だったのかもしれない。
それに加担する者が現れたことが、もっとも不幸なことだ。
「……ルルディ、あの子には笑っていて欲しいわ。あの子が笑わなくなった国なんて、ぞっとします。賢者ガラマ、実はあたしはこの国を守るとは、やはり本心から思えないのです。あたしはカサオに、我が王を守ると誓っってしまいましたから。ですが、あの子の笑顔を守ることは、心から誓えますわ」
レイサンダーはガラマに力強く言い、そっと微笑みかけた。
「ありがとう」
ガラマの微笑は疲れていた。
我が王もきっと、自分と同じことを言うだろう。レイサンダーは忠誠を誓った王に恥じぬよう、気合を入れなおす。
*
魔術書の表紙の模様には、法則がある。
一目見ただけですぐにどんな魔術書かわかるように、ルルディはマヤとアンヌから教授を受けた。
夕暮れになって帰る時間になると、リュカとレジスが迎えに来てくれた。ガラマを尋ねていくついでだという。
マヤとアンヌに今日の授業のお礼を言って、ルルディは夕暮れの中、リュカとレジスと歩いた。
商店が閉まる時間が早くなった。
どこの路地にも兵士がいる。鋭い彼らの目を見たくなくて、ルルディは下を向く。
春祭りが終わってから、街の雰囲気が悪くなった。笑い声が聞こえてこない。
「……最近、ガラマおじいさんの元気がないんです。アグノスさんはいつも警戒している様子で……あたしは、どうしたらいいんでしょう?」
ルルディは言った。情けないほど、弱い声が出た。
「君はいつも通りでいいんだ。こんな状況だと笑えることも少ないけどさ、君には笑顔でいて欲しいな」
レジスが優しく言ってくれた。
「常に前は見て歩けよ、ルルディ」
リュカが軽く背中を押してくれた。
ルルディは前を見る。
夕日に照らされた世界樹の影が濃い。
ルルディは精一杯の笑顔で、ガラマおじいさんにただいまを言った。
全員で夕食を、ということとなりリュカがキッチンに立って料理を始めた。ルルディは狭い食卓に皿とスプーンとフォークを置いた。
戸が叩かれた。
激しいその音を聞いたとき、ルルディは殴られような気分になった。
日はとっぷり暮れていた。
アグノスが書店へと向かう。
「早く開けろ! 国王の勅令で参った!」
男の声がした。ルルディの前にリュカがかばうように立つ。
複数の足音が書店に入ってきた。そして大きい物音が続いた。
「何をする!」
アグノスの抗議の声がする。
「禁書を隠しもっていた罪で、ガラマ魔術書師を逮捕する!」
宣告にルルディは震えあがった。
ドアの向こうから争う音と声がする。
お願い、開かないで、ガラマおじいさんを連れていかないで。ルルディは祈った。レジスがガラマに、逃げるよう慌てて言うが、ガラマは首を横に振った。
「わしを置いて、おまえたちは行け!」
ガラマの叫びと同時に、ドアが開いた。
黒衣の男が現れる。残酷な微笑みに見覚えがあった。
宮廷魔術師のシンバード・オルフだ。
「行きなさい!」
ガラマが叫んだ。
レジスに手を惹かれた。
「行け、ボルフ!」
リュカが騎士の書ボルフを呼び出し、追ってくる兵士と戦わせた。銀の甲冑姿のボルフは鋭い剣さばきで兵士たちを圧倒する。
レジスに書庫の地下へ連れて来られた。
「ベーゼ、緊急事態だ! 本の姿に!」
レジスの命令にすぐ従い、ベーゼは本の姿になった。ルルディはベーゼの書を抱きしめた。
「急ごう」
レジスが書庫の床を叩いた。下には階段がある。真っ暗で先が見えない。
怖気づいたルルディの手を、レジスがしっかりと握り、魔術で右手を光らせた。
「アグノスたちは大丈夫だ。君に何かあっては大変なんだよ。落ち着いて、大丈夫だ」
レジスになだめられ、ルルディは泣くのを必死にこらえた。狭い地下通路ではわずかな嗚咽も響いてしまう。
つないだレジスの手も冷たく、彼の動揺も伝わってきた。助けてくれたレジスを困らせたくない。
どうして、ガラマおじいさんは捕まってしまうの?
禁書ってなに?
わからない。
シンバート・オルフはどうしてあんな意地悪な顔をしていたの?
わからない。
けれど、最悪の事態になろうとしている。
平和にひび割れが入った。




