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第九話 フェリアの書6

 春の女神は含み笑いを浮かべて、ルルディを連れ去っていた。

 カウンターには本が山積みだ。ガラマは杖を支えに立ち上がり、ドアを半分開けてプレートをひっくり返し、開店を閉店にした。


 商売は細々となりつつある。


 老いた風体に相応しいのは、店主ではなく賢人だ。さっさと爺さんは引退して、店の奥に引っ込んでいれば良い。時々助言を求める者にだけ、教授する。

 結婚して子供が欲しいと何度も考えた。

 孤独な夜に何度でも。しかし、ベーゼの秘密を伴侶と子にゆだねる気には、どうしてもなれなかった。

 ガラマの身は重い。賢人と呼ばれるまでに、多くの失敗と教訓が腰を曲げさせた。

 ルルディにはいつも笑っていて欲しい。

 ガラマはそれだけを今、願っている。

 アグノスからたくされたあの子の、多くの可能性を見てきた。

 フェリア・レジスが彼女を選んだことは、彼女が生まれる前から決まっていたのかもしれない。

 太陽に向かって咲いた花のような少女を、春の女神がお気に召される。空から一滴の雨が落ちて大地をうるおし、芽が出た日から、すべては決まっていた。


    *


「ピクニックに行きましょうよ」


 白い帽子を被ったフェリアに手を引かれるまま、ルルディはルーマの丘までやってきた。

 新緑のさわやかな空気を、丘の上で胸いっぱいに吸う。

 町を見渡す。市場の騒がしさも、馬車の蹄もここには届かない。小鳥の(さえず)りだけが聞こえてくる。

 踏みしめた土は柔らかく、たんぽぽがたくさん咲いていた。小さくぽっと丸く咲いたシロツメクサ、青い小さな花、名前の知らない赤い花。まだ蕾の花もある。


「いやぁ、ここは空気がいいね。疲れたから、休憩しよう」


 ポプラの木の下に布を敷いて、レジスがどっかりと腰を降ろす。町からかなり歩いてきた。ルルディも少しくたびれたので、ブーツを脱いで布の上に座る。


「見て見て、もんしろちょう!」


 疲れ知らずのフェリアがはしゃいで、スカートを揺らしてるくる回っている。


「アグノスも来れたら良かったのだけど。彼は忙しいみたいでね」


 リュカが持たせてくれたイチゴジャムのサンドイッチを食べながら、レジスが言う。

 フェリアは蝶を追いかけている。


「……あの、王様に逆らうこと……王政反対運動というんですね。びっくりしたけど、でもいろんなことが納得できました。ガラマお爺さんが夜に出かけていった理由とか、アグノスさんとレジスさんが忙しそうなのとか」


 ルルディには難しすぎて、王政に反旗をひるがえすということが、よく分からない。危険なことであることは、理解できる。

 ガラマは詳しく話してくれなかった。


「あたしに何か出来ることがあれば、いいんですけど。戦争になるのは嫌です。この国が滅びてしまうなんて、絶対に嫌……」


 胸の奥が痛くなって、体が強張る。

 王の計画はルルディにとって、受け容れがたい脅威だ。


「そうだね。……僕たちはね、君を巻き込みたくなかったのさ。だけど知ってしまったら、そう考えてしまうよね……うん、君は笑っていて欲しいな。いつも通り」


 レジスは優しく諭してくれた。

 はい、とルルディは答える。


「ねぇ、来て来て! ルルディ、花を咲かせよう! この丘を花でいっぱいにしよう!」


 フェリアがルルディの手を握って立ち上がらせた。


「ルルディに花を咲かせる歌を教えてあげる。花祭りの歌だよ」


 フェリアがにこにこと笑って言う。


「あたし、歌ったことない」


「大丈夫、すぐに覚えられるよ」


 フェリアがたんぽぽの綿毛をふーっと吹き飛ばした。種のついた白い毛が飛んでいく。


春の広場で踊ろう

君のやさしい手を握り

嘆きの時代は終わった

喜びと踊ろう

春の女神が微笑む


 フェリアが歌いだす。ルルディの記憶の奥に、春の風が吹いた。聞いたことがある、この唇が覚えている。


喜び踊ろう

春の女神が微笑む


 ルルディはフェリアと一緒に歌った。


みんなで踊ろう

君のやさしい瞳

花の咲くときが来た


喜び踊ろう

春の女神が微笑んでいる


嘆きの時代は終わった

花の咲くときが来た


 ルルディの声は高らかに、蒼穹(そうきゅう)へと届いた。

 丘一面に花が咲いた。

 たんぽぽにシロツメクサ、カタクリの花、丘は花の虹色で彩られた。

 半分まで花が咲いていたライラックの木は、いっせいに紫の花を咲かせ満開となった。

 ルルディは目を見張る。強い花の香りに包まれて、まるで違う世界に来たみたいだ。


「ルルディ、あなたの力よ」


 フェリアが言った。


「あなたには、力がある」


 力強く手を握られて、ルルディは無意識にうなずいていた。力、それはまだぼんやりとして、形になっていないが、鼓動は打っている。

 日が暮れるまで、フェリアとルルディは丘の花を愛でた。


    *


 爪先と指先が熱を帯びてくると、踊りの本髄(ほんずい)に触れられるような気がしてくる。

 爪先立ちになりポーズを崩さず回転を続けていると、不思議なことが起きる予感がした。


「違う、もっとやさしく、柔らかく。戦場で傷ついた男を抱きこむように」


 アンヌの指導が入る。エルダは招き寄せる腕の動きに、気をつける。

 春の踊りは、傷ついた兵士の恋人を慰めるために踊られたことが始まりとされる。恋人を癒そうと懸命に踊っていると、春の女神が空に現れ、花びらを散らした。

 踊り子は力を得て、素晴らしい舞踏で人々に活気を与えた。

 始めは癒すようにゆっくりと、後半からは春の女神に捧げる踊りとされ、激しいステップとなる。


「一つ一つの動きの意味を、きちんと考えて、体に教えこんで。そう、その調子よ」


 エルダは微笑をたたえ、踊った。

 アンヌが満足気な顔をしてくれるのが嬉しかった。


「誰のためでもない、あんたの為に踊るのよ」


 アンヌは言った。


「あんたの素晴らしさを、当日はみんなに見せ付けるのよ」


 アンヌが背中を叩いて、にこっと笑って言った。


 かつて憧れだったアンヌが自分を選んでくれて、嬉しかった。母に逆らうことは怖い。けれどここで引いたら、一生、臆病なエルダのままだ。

 堂々と胸を張って、踊りたい。アンヌのように、いいや、エルダらしく。


「……ライラックの砂糖漬け……今年も食べられるんですね」


 エルダは額の汗を拭きながら、にこりと笑った。


「ばーか、食べることを先に考えるんじゃない。でもあれ、最高」


 アンヌとエルダは肩を寄せ合って、笑った。

 祭りは行われる。

 誰が反対しようと、何が起きようと、必ず。



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