第一章 ヒモナスの書4
ルルディは頬で凍った涙をはらい、城を出た。庭園のバラの香りに鼻腔をくすぐられ、背を太陽に照らされて、ルルディはようやくコートを脱いだ。
門にさしかかり、城砦を振り返る。
こんな華やかなお城に、悲しみを抱いた王と王女が住んでいるのね。ルルディは大切な人を失って、深く穴の空いた王の御心と、王女の悲痛を想った。
早くヒモナスを何とかしなければ。
お城は癒えぬ悲しみと冷気で、凍てついてしまう。
「お願いだよ、一目でいい。合わせてくれ!」
青年の叫ぶ声がして、ルルディは驚いて立ち止まる。城門の若い兵士に、金髪の青年が詰め寄っている。なんとなく通り過ぎることが気まずくて、ルルディは一歩引いて待つ。
「何度も言わせないでくれよ。だめだ、ステイシーには会わせられない。帰ってくれ」
若い兵士は抑えた声で言い、首を横に振る。彼は背が高く、銀の甲冑が映える立派な体格をしている。
「ヒース、本当にこれでいいのか? 君のステイシーへの愛は、偽物だったというのか?」
青年が厳しく言い放つと、若い兵士の雰囲気が変わった。
「本当だったさ! 嘘ではない。俺はステイシーを心から愛していた!」
空気が震えるほど、ヒースと呼ばれた若い兵士は、青年に向かって怒鳴った。
「そうだろう。僕は知っていたさ……二人の仲がどれほど深いものか。なのに、どうしてだ。ステイシーは今も、あの、城の中で泣いている。なのに、どうして救おうとしないんだ!」
青年が城を指差して、熱っぽい語りで兵士の叫びに応じた。
兵士は俯き、黙り込んでしまった。
青年は青い目を光らせ、兵士が言葉を返してくるのを待っていたが、やがて諦めたように溜息をついた。
「もういい、わかったよ。君はいくら愛していると言っても、兵士という職務を取るのだろう。仕方のないことさ……わかっている。けど、どうしても、僕は納得できないよ」
青年は悲しそうに眉を寄せた。
俯いている兵士が拳を握っているのを、ルルディは見た。
「……ケビン、おまえは俺のことなど、何一つわかってない。俺とおまえはわかりかえない」
低い声で兵士が語りだす。
「ステイシーにとって……安全な城の中で暮らすことの方がいいんだ。王に寵愛され、安心に暮らして欲しいんだ、俺は」
兵士の表情は見えないが、くぐもった声は重かった。
「君が心を開かないから、僕は君と親友にはなれなかっんだ……だけど、今やっとわかった。君は絶対に考えを変えないと。僕も同じだ。ステイシーにとって本当の幸せは何か知っているのは、僕の方だという考えを変えない。諦めない」
青年は力強く言って、兵士に背を向けた。
俯いていた兵士が顔を上げて、ルルディに気付く。
「道を塞いでいたしまったようで、すまない。お通りください
兵士は力のない声で言った。
ルルディはぺこりと頭を下げて、城門を潜り抜けた。
ルルディの前を、青年はまっすぐに歩いている。
少し駆け足で、追いかける。青年は小柄で、細身だ。歩の進みは素早く無駄がない。ちょこちょことした小走りでは追いつけず、とうとうルルディは走り出す。
「あの、すいません」
跳ね橋を越え城を出て、城下町の広場でルルディは青年に声をかけた。
青年は振り返り、不思議そうな顔でルルディを見た。
「あ、あの。少し、お聞きしたいことがあって、その」
呼び止めたはいいが、恥ずかしくなってきた。これは、立聞きして好奇心丸出しに、詮索する下品な行為だと今更気付く。けれど追っかけて声をかけたからには、引っ込みはつかない。
それに、とルルディはもじもじしながら、青年を見上げる。
彼はとても、困っている様子だし。
「あ、あの。わたし、魔術書店エンスティクトの見習い魔術書師ルルディです。ええと、さっきお城の門のところで……あたし、そのあなたたちの後ろにいてですね……」
青年はルルディの様子に首を傾げている。
「おせっかいなことはわかっています。すいません。何かお困りのようだったので。たぶん、あたしでは何にもお力になれないと思うのですけど、気になってしまって……」
ルルディが言うと、青年はああ、と頷いた。
「さっきのヒースとの話、聞かれていたんだ」
青年は苦笑している。
「ごめんなさい!」
大慌てで、ルルディは謝った。
「いや、いいよ。うーん、まあ、いいや。そんなに気になるなら、気晴らしに話を聞いてくれよ」
青年は言って、公園のベンチへとルルディを誘った。
青年の名前はケビン・レオール。穀物商店の息子だ。兵士の名はキース・オルドー。両者は二十歳になったばかりの、発展途上の若者だ。
城で泣き暮らしている、という噂のステイシーは十八歳の麗しい乙女。ケビンの店で働いていた。キースの恋人である。
「一目惚れだったよ」
ケビンは笑って言った。
ステイシーは十六歳で両親を亡くし、ケビンの店で働くことになった。心細そうに、けれど気丈に振舞おうとするステイシーの可憐さに、ケビンは心を惹き付けられた。
美しい看板娘は噂となり、ステイシーが来てから店は繁盛した。大事に育てた穀物に、正当な値をつけ保管方法も良いと評判が広がり、農家がこぞって質の良い穀物を売りに来てくれた。
ステイシーの周りには常に光があった。
ケビンは恋心を打ち明けられなかった。彼女のことを妹のように可愛がり、兄のように慕われるうちに、言い出せなくなってしまったのだ。兄と妹のような、微笑ましい関係を崩すことを恐れた。
町でチンピラに絡まれていたステイシーを、屈強な兵士キースが救ったことから、二人の交際が始まった。
「悔しかった。でも、キースならいいと思った。奴は誠実だし、とてもステイシーを大切にしてくれた。何より強い。出世頭の兵士だ、金だってある。いい奴だ。だから、僕はステイシーが彼と幸せになってくれることを、望んでいる、心からね……キースは信じてはくれなかったけど」
ケビンの語りを、ルルディは神妙に聞く。
切なそうに、愛しそうに、ケビンはステイシーのことを話す。彼の想い人への愛情は、ルルディにとって、なぜかとても懐かしい。
胸の奥がきゅぅっと締め付けられて、そして、暖かい。
どうしてだろう。まだ、恋をしたことがないのに。なぜ、彼の恋する気持ちは懐かしいの。
密かにステイシーへ想いを寄せていたが、恋人キースとの幸せを願うケビン。ケビンの想いに気付き、ケビンに気を遣いながらも、誠実にステイシーを愛していたキース。そして、麗しいステイシー。
ステイシーの美しさが、仇となった。
ある日、大臣がやってきて、ステイシーを連れて行ってしまった。
大臣は、唖然とするケビンへ、一方的に言った。
この娘は王の後妻候補として連れていく。町娘ゆえに王のお目どおりまで教育が必要だが、とても見目麗しい。今まで何人もの身分の良い美女を後妻候補として王に会わせたが、どの女もお気に召してくれなかった。この娘は私が見たどの美女よりも、美しい。王が興味をもたれるかもしれぬ。これはとても、名誉なことであるぞ。
偉そうに言い放ち、大臣はほうびとして小さな袋を置いていった。中にわずかばかりの金塊が入っていた。
こんな物と、引き換えにだと!
ステイシーは人間だ、商品じゃない!
ケビンは床に、袋を投げつけた。
兵士に取り囲まれ、連れて行かれた時のステイシーは泣き叫んでいた。
お願いです、どうか許してください、と大臣に泣いてすがっていた。
どこか名誉なことか。これでは人攫いだ。
ケビンはすぐにキースに知らせた。
キースは暗い顔をしていた。城勤めの兵士である彼は、ケビンより先にステイシーが後妻候補に選ばれたことを知っていたのだ。
「諦めてくれ、とキースは言ったんだ。彼だって辛いのはわかっていたさ。立場上、大臣には逆らえない……でも、許せなかった。彼がすぐに諦めてしまったことが……」
ケビンは悔しそうな顔をした。
「近々、王が戦争を始める、とキースは言うんだ」
ケビンが小声で言った。
「本当ですか?」
ルルディは突然の物騒な話に、驚く。
「うん。まだ不確かな情報らしいけれど。キースは新たに増員された兵の教育を任されている。武器の貯蔵も、不自然に増えたそうだ」
「やだわ、戦争なんて……」
「うん、僕も嫌だ。キースは言うんだ。もし戦争になったら、自分は前線に出される。いつ死ぬか分からない自分と結婚するよりも、王に見初められて、戦争になっても不自由しない場所にいるほうがいいって」
ケビンは遠くを見つめて、肩を竦めた。
「ステイシーは、接客が好きだった。よく笑ってよく喋って、根っからの下町育ちの性分で」
ケビンは愛しそうな目をする。彼の頭に描かれている、美しい娘。彼女はケビンの中で、いつも微笑んでいるのだろう。
「そんな彼女が、城の中に閉じ込められる生活を望むと思う? 王様は、彼女の父親ほどの年齢なんだよ。君、どう思う?」
ケビンに問われて、うーん、とルルディは考える。
「よくない……気がするの。ステイシーさん、かわいそうだわ。だって、まるで彼女の意志は無視されて、無理矢理連れて行かれて。それで幸せになれるなんて、あたしは思えない」
「だろう! そうなんだ、彼女はまるで物扱い、それが許せない。なんとかして、助けてあげたいんだ」
ケビンはルルディが同意すると、威勢がよくなった。
ルルディはこちらを向いたケビンの顔を、改めてしげしげと見た。この人、いい鼻をしているわ、と気付いた。顔は小さいが、三角の尖った、特徴のある鼻をしている。目はくりくりとして、美形ではないが愛嬌のある若者だ。
ルルディはふと自分の鼻に触って、ヒモナスに鼻ぺちゃ小娘と呼ばれた不愉快な出来事を思い出す。
「あたし、困った魔術書の説得に、またお城へ行くんです。自信ないですけど、出来るだけ情報を集めたりしてみます。あたしみたいな女の子なら、警戒もされないだろうから」
ルルディが言うと、ケビンは瞳を輝かせた。
「本当! ありがとう、味方が出来て、嬉しいよ! キースも親父も、上には逆らえない、諦めろの一点張りだったから。僕は大抵、ソーラスの穀物店にいるから」
「はい。また、行きますね」
ルルディは微笑んで、頷いた。たいしたことは出来なさそうだが、ケビンが喜んでくれて嬉しい。
「本当に……ありがとう。うん、元気出てきたよ! じゃあ、僕は仕事に戻らなきゃ。またね、ルルディ」
ケビンはぽんぽん、とルルディの頭を軽く叩き、走っていった。
眠れず、夜風にあたる。
ルルディはレースのカーテンに頬をくすぐられて、溜息をついた。
「どうした? 眠れんのかい?」
ぎぃ、と寝室のドアが開く。ガウンを羽織ったガラマお爺さんが、ルルディにほんのりと温めたミルクを淹れてくれた。
ルルディは椅子に腰掛け、ガラマお爺さんと向かい合ってミルクを飲んだ。ミルクの甘さを確かめるように、ルルディは味わって飲んだ。
今日あった出来事を、ガラマお爺さんに話そうか、迷う。王の後妻候補として、城へ連れ去られた哀れなステイシーは、助けてあげたい。
しかし、彼女を救うことは、大臣の手柄を邪魔するということ。危険なことは、ルルディにもわかった。
だけど、見捨ててはおけない。明るく笑っていたステイシーが、城で泣き暮らしていると思うと、胸がとても痛んだ。彼女の笑顔が奪われたということが、耐え難い。
「……ガラマお爺さん、どうして、悲しいことばかりなのかしら」
ルルディは呟いた。
ガラマお爺さんはミルクをすすって、しばらく沈黙していた。
「悲しいことばかりだと思うから、悲しいんだよ。嬉しいことばかりだと思うから、嬉しい。……王様は、悲しみに心を捕らわれて、悲しみしか見えなくなってしまったのさ」
ガラマお爺さんが、ゆっくりと語る。
「傍にいてくれる王女という喜びを、王は見ようとせず、いつまでも亡き人を見つめている……その姿を見て、王女は悲しいと思う。ルルディ、悲しみは、連鎖してしまうのだよ」
ガラマお爺さんは、寂しげに言った。
「その悲しみの連鎖は、どうやったら断ち切れるの?」
「ルルディ、それはおまえがよく、わかっているだろう」
ガラマお爺さんに言われて、ルルディは首をかしげる。
「私はおまえの信念を、尊重しよう。何があっても、しなくてはいけないと思ったことは、少しぐらいの危険があってもやり遂げた方がいいんだよ。人を助けたという経験が、いつか自分を助けてくれる。見捨てるより、苦労をして助けたほうがいいよ」
優しく、深い声でガラマお爺さんは、ルルディの目を見て言った。
あたしの考えていること、全部、見えてしまうのかしら。
ルルディはガラマお爺さんの目を、不思議に思う。
ガラマお爺さんの言葉を聞いて、ルルディはぐっすりと眠ることができた。
答えは、あたしの中にある。
ルルディは、自分の中にある答えを、信じた。




