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第九話 フェリアの書1

 朝一番、針を手にしてマヤは春を感じた。

 真冬の朝は、針まで冷え切っていたものだ。

 レースのカーテンを揺らすのは春風、マヤは微笑みながら仕事を始める。

 春の女神フェリア魔術書の表紙に、エプロンにベストの刺繍と、春はもっとも刺繍師が忙しい季節だ。

 色鮮やかな刺繍をしたエプロンを女性が、男性はベストを身に付けるのが春祭りの習慣だ。

 姉のアンヌがデザインした伝統と新しいセンスが光る図案を、マヤは鼻唄交じりに刺繍した。

 今年の春祭りは、ルルディと楽しもう。

 彼女にフェリアが花びらを散らす祭典を、見せてあげたい、一緒に笑って踊りたい。


「マヤ、大変よ!」


「なに、姉さん? どうしたのよ?」


 仕事を中断されたマヤは、不機嫌な顔で突然ドアを空けたアンヌを見る。仕事中はそっとドアを開けろと言っているのに。


「いいから、おいで」


「ちょっとー、もう、何よ」


 マヤはアンヌに手を引かれ、城門前の広場に連れて行かれた。四角形の厳めしい灰色の柱が並ぶ広場に、人が集まって掲示板を見ている。

 アンヌはマヤの手を引っ張り、強引に人の波を押しのけて、マヤを掲示板の前に突き出した。まったく、乱暴な姉だ。

 マヤは掲示板を見て、絶句した。


「春の祭り……自粛の知らせ……?」

 勅命(ちょくめい)と題された紙は灰色だ。


―――我が国の繁栄のため隣国を侵略すると王が命令された。戦の準備に各々専念するよに。よって、此度の春祭りは中止にし、資金をすべて軍事に回すように―――


 なんて酷い勅命だ。マヤは口に手をあて、泣きそうになるのを堪えた。

 春祭りに向けて、刺繍師たちがどんな想いで刺繍をしてきたか。どれほど街の人々が祭典を大切にしているか、王ならば知っているはずだ。むしろこの季節、王から街の祭典を盛り上げるべく準備に忙しい民たちに、ねぎらいの言葉をくださったというのに。

 掲示板を取り囲む人々は、不満と不安を小言で交わしている。良き王が悲しみでお心を狂わされた……誰かがそう言った。


 マヤもそう思う。

 優しい王族によって治められた、平和な国が変貌しようとしている。マヤはぎゅっと胸元で手を握った。


「祭りが中止ってどういうこと! たった一枚の張り紙で、納得できない!」


 女の怒鳴り声が聞こえた。どきりとして、慌ててマヤは人ごみから抜け出す。


「あたしを王様の前に連れて行きな! あたしが納得するまで、とっくり説得させろ!」


 アンヌが兵士に啖呵(たんか)を切っている。


「王が定められたことだ。王は民の今後をお考えになって戦争を決められたのだ。下がりなさい」


 甲冑を身につけ、サーベルを腰につけている兵士が厳かにアンヌを拒否する。


「だから、納得できないって言ってんでしょうが! 偉そうなこと言ってんじゃないよ!」


 アンヌが兵士の胸を押した。


「……何をするッ! 女だと甘くしていれば、いい気になりやがって!」


 兵士が声を荒げ、サーベルに手をかけた。


「ふん、かかってきなよ! あたし、そんなもの、ちっとも怖くないんだよ!」


 アンヌが一歩下がり、ロングスカートから長い足を出して、高く上げた。


「やめてって! 姉さん!」


 マヤは慌ててアンヌの腰にしがみつき、とめた。


「申し訳ございません! あの、姉は動転してて……」


 マヤは兵士に頭を下げて謝った。

 髪が舞い上がり、一瞬、視界がさえぎられた。

 疾風が吹いたのだ。髪が肩で落ち着き、目にしたのは倒れている兵士と、片足を上げたまま立っている姉の姿だった。


「姉さん! なんてことを!」


 マヤは嘆きの声を上げた。


「わたしがせっかく謝ってあげたのに、姉さんのバカ!」


 マヤはアンヌをぽかぽかと叩く。


「だって、許せないもん」


「そんな子供みたなこと言って!」


 言い争っていると、物騒な蹄の音が聞こえてきて、マヤは青ざめる。


「おまえたち、何をしている!」


 青い甲冑を身に着けた馬上の将軍が、怒鳴る。その声で蹴り飛ばされた兵士が起き上がり、サーベルを抜いた。


「貴様を軍に対する冒涜罪(ぼうとくざい)及び勅命に背いた罪で連行する!」


 兵士がアンヌにサーベルの突きつけ、言い放った。


「いい、すれば。こんな勅命に従うぐらいなら、その方がマシ」


 アンヌが腕を組み、ほくそ笑んだ。


「もう、やめて、姉さん!」


 そんなの、こっちだって同じ気持ちだ。

 けれどここで捕らえられ、処刑されたって意味ない。


「姉さんのバカ!」


 マヤは叫んで、泣いた。兵士たちがアンヌの周りに集まってくる。


「申し訳ございません! どうか、姉をお許しください、お願いします!」


 マヤは兵士の足元に土下座して、泣きついた。


「……ええい、うるさい。下がっていろ」


 足にすがりついたマヤを、兵士は軽く蹴って振りほどいた。マヤは痛みに倒れ、兵士につかまっているアンヌを見る。アンヌは手首をつかまれ、それでも暴れている。


「もうやめて……姉さん」 


 マヤは涙を地に流した。


「あらあら、かわいそうに。女の子に暴力を振るうなんて、最低な男ね」


 いきなり抱き上げられ、マヤは驚いた。


「お久しぶり、マヤちゃん」


 抱きかかえられて、マヤは瞬きをして、それから泣きながらレイサンダーの首に抱きついた。栗色の巻き毛がなぐさめるように、やさしく頬に触れた。


「レイサンダーさん!」


「よしよし、怖かったわね。あたしが来たから、もう大丈夫よ。ね、だからちょっと安全なところに下がっていてね」


 レイサンダーはマヤを下ろすと、紫色のショールをさっと首にかけなおし、青い甲冑の将軍に近付いていった。アンヌを取り押さえようとしていた兵士たちも、何者かと騒ぎ始めた。マヤはレイサンダーの忠告を守り、下がった。


「お初にお目にかかります、わたくし、旅人のレイサンダーと申します。余所者ながら申し上げますが、よってたかって一人の女性を捕らえようとするこの光景、とても見苦しいですわよ。ほら、あそこの掲示板に集まっている国民の皆様、見てらっしゃるわ」


 レイサンダーは優雅に、しかし棘をさすように言った。

 将軍はむっと押し黙る。マヤは将軍の甲冑についているエンブレムを見た。

 二頭の黒馬が立ち上がり、ともに競う構図だ。黒ということは位は少将だ。口周りと(あご)にみっしりと黒い(ひげ)を生やし、恰幅の良い体を甲冑に押し込んでいる。


「余所者のおせっかいは止してもらおう。この女は我が軍に、王に背いた。その罪は大きい」


 重々しい口調で少将は答えた。


「見せしめ、ということかしら? あらいやだ、野蛮ですわ。わたくしの国の騎士道に、そんな教えはなくってよ? あなた少将でしょう、お話にならないわ。せめて中将さん、呼んでくださる?」


 レイサンダーが鼻で笑う。挑発的なこと言わないで、とマヤは気を揉む。しかし彼には考えがあるのかもしれない、という可能性に賭けるしかない。

 小娘のマヤが訴えるより、長身で鍛えられた体の、只者ではないと一目で分かるレイサンダーの方が話を聞いてもらえる。


「一体何者だ、貴様! 俺を愚弄する気か!」


 少将が目を剥いて、大声を上げる。馬が驚いたように身じろぎし、少将が頭を叩いて叱りつけた。


「愚弄する気ではなくて、もう愚弄しているんですけれど? あなた、これ以上国民と部下の前でおバカさんを晒さないほうがよくってよ?」


 ほほほほ、とレイサンダー高笑いを広場に響き渡らせた。


「な、何をー! おい、こいつも捕らえろ!」


 少将が喚き散らすが、広場に集まっている兵士たちはアンヌと、そして騒ぎ出した広場に集まった人々をなだめるのに手一杯で、誰もレイサンダーに近付いてこない。

 あらあら、とレイサンダーは笑った。


「何事だ、ウィズ少将」


 青い甲冑の将軍が、兵士を引き連れて現れた。胸に光るは赤馬のエンブレム。中将だ。

 それにしても若い、兵士たちと年が変わらぬ青年である。


「キース中将! 良い所に来てくれた! あの女と、この男をひっとらえてくれ!」


「いきなり捕らえろと言われてもできない。この女と、あの男が何をした?」


 キース中将が眉をひそめ、問いただす。

 ウィズ少将は声を荒げながら、アンヌが勅命に逆らったことと、レイサンダーが自分を侮辱したと説明した。


「その程度では、捕らえることはできない。女を離してやれ」


 キース中将の命令に、さっとアンヌを囲んでいた兵士たちが離れた。アンヌは無傷だが、兵士たちの頬には平手の赤い跡がくっきりと浮かび上がっている。


「気は確かか、キース中将! 反抗の態度を見せた者は早く牢屋に入れるべきだ! 愚か者は何をしでかすか、わからんぞ!」


 ウィズが暴れるたびに、馬は嫌そうに身じろぎをする。そのたびにウィズ少将は手綱にしがみついた。その姿が滑稽で、くすりとマヤは笑ってしまう。


「気をお鎮めください、ウィズ少将。これきしのことで国民を捕らえては、牢屋はいっぱいになってしまいます。それより、掲示板前の騒ぎをどうにかしてください。兵士たちが困っております」


 キース中将は落ち着いた声でウィズ少将をなだめた。位はキースの方が上だ。年はウィズの方が随分と上だが、命令に従わなくてはならない。


「くそっ、成り上がりの小僧が」


 マヤの前を横切るとき、ウィズは吐き捨てるように言った。


「さて、もう行っていいぞ。軽率な行動は二人とも、慎むように」


 キースが言った。アンヌはようやく頭に上っていた血が下がったのか、すいませんでした、とキースに謝った。


「ふふ、話の分かる方が来てくれてよかったわ。ありがとう、助けてくれて。わたくし、レイサンダーと申します。カサオ国の騎士ですの」


 レイサンダーがキースの前に立ち、しとやかな敬礼をして微笑んだ。


「ほう……カサオ国の。騎士道に基づき、あなたはあの女性を助けようとなさったのでは?」


「あら、ご名答。さすがキース中将。その若さで、しかもたった一ヶ月で一般兵から中将に任命された方ですわ」


 レイサンダーの目が、一瞬、鋭く光った。


「それはどうも……では、我々は参ります。……どうか、あまり出身国と身分は伏せられますように」


 キースはレイサンダーに忠告し、渋い顔でウィズ少将の応援に向かった。


「レイサンダーさん! ありがとうございます」


 マヤはレイサンダーに抱きついた。アンヌが近付いてきて、レイサンダーをじろじろと見る。


「……助けてくれて、ありがとう。あなたがレイサンダーさんね」


 アンヌが組んでいた腕をとき、微笑んだ。

 マヤは姉の笑顔を見て、ほっとする。


「お会いできて嬉しいわ、アンヌさん。やっぱり、すごい美人さんだわー。ねえ、お時間ある? あたしね、船旅で疲れてくたくたなのー、どこかでお茶したいわ」


「ええ、もちろん。お礼におごるわ」


「えー、いいのー? やだあ、ありがとう」


 アンヌとレイサンダーはすぐに意気投合し、三人で喫茶店に入ることになった。


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