第八話 エラティスの書4
早朝、ドアをノックする音でアグノスは覚醒した。ガウンをまとって起き上がり、朝もやから出でたる美しい青年を見た。
予想はしていた。
濃紺のガラスペンとインクを、アグノスは昨夜、机に用意して眠ったのだ。
「お願いします。僕に恋心を書いてください」
エラティスが言った。アグノスはうなずき、彼を部屋に招き入れる。
「エラティス、本の姿に戻りなさい」
彼の冷たい額に掌を押し当てて、アグノスは言った。美しい青年は一冊の古びた本に姿を変えた。瑞々しい若者は、表紙の刺繍糸も色あせた、ぼろぼろの本だった。
慎重にページをめくる。
彼女を書いた日のことを思い出す。あの日も目覚めてすぐに机に向かい、寝食を忘れ没頭したのだ。
しめつけられるような想い、自分が自分ではなくなる感覚、恋した相手に惹かれてどうしようもない気持ち。熱く揺らぐ、恋心。
その先にあった微笑み。全身から湧き出た喜び。
恋は素晴らしい。
恋はあっけない。
恋は哀しい。
恋は、いのち。
アグノスは、エラティスに恋心を授けた。
*
冬の朝は寒い。広場には巨木の魔法樹がある。鳥は鳴く、冬の空へ高々と鳴く。空が灰色だ、雪が降る。そうだ、もうすぐ二月の雪が降る。
空気がぴんと張りつめて、空がグレーの日は雪が降ると、ルービーが教えてくれた。
ルービー、彼女の元へ帰らなくては。
エラティスは走った。
『走ると息が苦しくなるけれど、爽快さが勝っていつしか忘れてしまうのよ』
草原を走っていたルービーが教えてくれた。
行き交う人が、エラティスを避けていく。
『人には悪い人と善い人がいるけれど、本当はみんな良い人だって、信じているのよ』
ルービーが教えてくれた。
店の看板を市場の主人が出している。
オレンジ色の看板が雪景色に鮮やかだ。
『オレンジを食べると元気になれるわ』
ルービーは果物が好きだった。オレンジ、リンゴ、ぶどうにいちご。その一つ一つがどんな味がするか、エラティスに教えてくれた。
走っているのに、まだ屋敷は遠い。
『苦しいときだって、大切な時間よ』
そうだ、ルービーの言った通りだ。この走っている時間も、古びた魔術書エラティスにとって、貴重な残り時間だ。
何を見ても、何を感じても彼女を思い出す。
愛しい人、ルービー。
赤子だった彼女を抱いた日、少女の彼女を追いかけた日々、大人になった彼女を遠くから眺め想っていた頃。
ずっと愛していた。
アグノスの魔術文が、色彩だけで形を持たなかった恋心に輪郭をくれた。
心臓が破裂しそうだ。切なくてやりきれない想いが、うずを巻く。
ようやく屋敷にたどり着き、エラティスはルービーの寝室へ駆け込んだ。
淡い朝日が差し込む寝室で、ルービーは眠っていた。
「ルービー様……」
エラティスはベッドの傍に跪き、ルービーの手を握った。骨と皮の冷たい手を、両手で強く握り締める。
「ずっと、お慕いしておりました。あなたを愛しています、ルービー様。あなたと共に生きてこれて、よかった」
エラティスはルービーの指に口付けをした。
「……エラティス……わたくしも。あなたをずっと好きだった。愛しているわ」
ルービーが瞳を輝かせて、言った。エラティスの手にルービーの手が重なる。エラティスはルービーの顔を見つめた。
うつくしいひと。
唇に接吻をする。薄く固かった。それでもルービーの愛しい命を、エラティスは感じて喜びに震えた。
「エラティス……ありがとう」
ルービーはエラティスの頬をなでて、目を閉じた。
「ルービー、……ルービー……ルービー……」
エラティスは、ルービーの手を握ったまま事切れた。彼の体は最後に白い光を発して、本の姿に戻った。
ぼろぼろになった魔術書を腕に抱き、ルービーは永眠した。
*
弔いの鐘が鳴り終えてから、雪が降り出した。柔らかく、ゆっくりと降る雪だ。
アグノスは泣いているルルディの肩を抱きながら、歩いている。白いハンカチを握り締め、喪服の少女はいつまでも泣いた。
貴族社会の頂点に立っていたルービーが死んだ。街は鎮魂に沈んでいる。
弔いの意味を示す黒いレースのカーテンが、各家々の大広間の窓にかけられている。
「……けれど、二人が一緒に埋葬されてよかったです。ずっと、ずっと一緒なんですよね、これから二人は?」
ルルディが涙を拭いて、アグノスを見上げて問う。アグノスは頷いた。寒さと泣いたので鼻の頭を赤くしている少女の顔が、愛らしい。
「もう離れはしないよ。俺はエラティスに恋心を書けて、良かったと思っている。俺は彼に知って欲しかった。恋の素晴らしさを」
なぐさめるように、アグノスはルルディの背中をそっと撫で、手を離した。
「えぇ、本当に。エラティスはアグノスさんに感謝していると思います。きっと」
ルルディは少し微笑み、寒空を見上げた。
紅をさしたような丸い頬に、粉雪が落ちる。ルルディはそれを払いもせず、冷たがりもせず、じっと空
を見上げている。
「もう一度、教えよう。ルルディ、悲しみは人から何も奪ってはいかない。むしろ、与えてくれるのだ。
優しさや、愛しさを」
最愛の魔女を失った。
落ち込んだアグノスを慰めた人々の優しさ、その温もり。悲しみが深いほど、愛していた証拠だとガラマ賢人は教えてくれた。
そして、親友レジスは魔術書を書くことを勧め、ガラスペンを贈ってくれた。
「けれど、悲しみが憎しみに変わってしまうことがある。憎しみは人からすべてを奪い、何も生まれない」
アグノスは眉をひそめて言い、東にある城を見つめた。
「……悲しんでばかり、いられない。あたし、エラティスとルービー様のこと、忘れません。あの、亡くなった人も、覚えていれば、寂しくないですよね?」
城からルルディへと視線を移し、アグノスは眉間の皺を解いた。
「あぁ、そうだ。寂しくはない。さぁ、帰ろう。明日からまた、魔術書店を開く」
「はい、新書が入ってきます。あたしも、がんばります」
ルルディは笑顔を見せた。
とても似ている。アグノスに人生の喜びを教えてくれた、魔女に。
アグノスはルルディに、微笑みかけた。
使命がある。
ルービーの意志は、アグノスの胸の中にある。
「ああ、がんばろう」
深呼吸をして、アグノスは言った自分の声の大きさに驚いた。ルルディも驚いた顔をして、それからくすくすと小さく笑った。
「あ、広場の木……少し、光ってます」
ルルディが立ち止まって、広場の魔法樹を指差す。空に広がる枯れ枝に、雪が集まって結晶となり、輝いていた。
幻想的な魔法樹を、喪服のユーリが見上げていた。
使命へと立ち向かう女王の姿だ。
第八話 エラティスの書・完




