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第八話 エラティスの書3

「俺が君に、恋心を追記する。というのは、どうだろう?」


 アグノスが言った。


「君の作者は亡くなっている。追記するか否かは、君自身が決めることだ。無論、ご当主様にも許可をもらう必要はない」


 魔術師のアグノスならば出来ることだ。

 それに彼は痛いほど、恋心を知っている。

 ルルディはエラティスの様子を見た。彼は目を伏せて、長い間、考えこんだ。


「しかし、恋心を知ることは、とても辛いことかもしれない。……感情があるというのは、楽しいことばかりではない」


「僕には分かりません。けれど、ルービー様に喜んでもらえるなら……僕は消えかかった魔術書です。最後に、何か新たなことを知ることができるのならば……」


「では、書こうか?」


 エラティスはアグノスの問いかけに答えず、じっと花束を見つめた。


「一日……考えさせてください。僕は、何かを自分で決めたことがないので、処理に戸惑っています」


「わかった。よく考えることだ。君の頭で」


 アグノスとルルディに礼をして、エラティスは店を去っていった。

 花びらが一枚、床に残った。


 恋ってなに? 

 それは胸を焦がすもの。言葉では分かる、けれど頭では分からない。

 知ると辛いかもしれないと、アグノスは言った。

 恋心を彼に書き加えられたエラティスは、どうなってしまうのだろう。


「アグノスさん……」


 夕暮れがアグノスの陰を濃くしていた。


「エラティスに恋心を追記したら……あの、アグノスさんが恋人を失った悲しみを思い出してしまって……アグノスさんも、辛いのではないですか?」


 ルルディの質問に、アグノスは微笑んだ。


「ルルディ、心配はいらない。俺は思う。悲しみは人から何も奪わない。むしろ、悲しみから得ることは多い。優しさも愛も、勇気も……すべて悲しみから生まれたのだ」


 アグノスの優しい目が、ルルディに向けられて、大きな手が肩に乗せられる。


「いつか、分かる日が来る」


 ルルディは何と言えばいいのか、わからなかった。アグノスの微笑に笑顔を返せない。

 アグノスの掌は温かかったのに、書庫の冷えが耐え難い。息がつまる。

 これはなに?

 あたし、どうして苦しいんだろう。

 アグノスは恋人のジューナを生涯、愛し続けるのだろう。亡くした悲しみも抱き込んで。

 俺の魔女だ。アグノスはジューナのことを、そう言った。

 アグノスの心は、ジューナのもの。

 ジューナという魔女に支配されている。

 ルルディは唇を噛んだ。

 悔しくて悔しくて、たまらなかった。

 そう思う自分がみっともなくて、悲しくてたまらなかった。


     *


 花束を抱えた青年が客室に入ってくると、空気が変わった。寒さを押しのけて咲いた大輪の花の香りに、老女ルービーが若返った。


 リュカは青年が何者かと探る。

 整った蒼白の顔だ。瞳に光はあるが表情は乏しく、人形のよう。人ではない、魔術書だと観察して察する。それも随分と年季が入っているようだ。


「お帰りなさい、エラティス。今日は皆さん、来てくださったのよ」


 ルービーがはしゃいで言った。

 エラティスは丁重に頭を下げて、ルービーに花束を手渡した。


「彼の顔も見れたことですし、そろそろお暇いたします。ルービー様を疲れさせてはいけない。くれぐれもお体に気をつけて」


 ガラマが立ち上がり、杖を手にした。

 リュカも立ち上がる。

 ルービーは訪問の礼を何度も言い、微笑みで見送ってくれた。


「あの……リュカさん」


 小声で呼ばれ、リュカは廊下で立ち止まった。客室のドアから、ルービーが顔を覗かせて、呼んでいる。


「……はい、何か?」


「ユリア王女をどうか、お守りくださいね。王女は思いつめられているご様子で……わたくし、とても心配なの」


 ルービーが眉を寄せて、胸に手を当てている。


「わかりました、大丈夫です」


 リュカはルービーの手を握り、笑顔を見せて言った。

 さようならの挨拶を、もう一度する。

 ユリア王女を守れ。

 そんなこと、男なら分かっている。

 リュカはまなじりを引き締めて、堂々と館の廊下を歩いた。


     *


 死期が近付いている。寝室に生けられた花が枯れるのと、自分の命が尽きるのは、どちらが早いだろう。

 レースのカーテンをしめる。月光を見ていると、夜空へ連れて行かれそうだ。

 ルービーは冬咲きのカトレアに触れた。

 大病を患ってからほぼ毎日、エラティスが寝室に花を持ってきてくれる。赤やピンク、黄色など鮮やかな色の花ばかり。


「今日は遠くの花屋さんまで行ってくれたの?」


 エラティスに尋ねると、彼は小首を傾げた。

 珍しく、何か悩んでいる様子だ。彼は主が命令するだろう判例にのみ、対処できる。範囲外のこととなると、押し黙って答えなくなる。


 外出先で、何かあったのだろうか。


「ねえ、どうしていつもお花を買いに行ってくれるの? 冬はお花が少ないから、大変でしょう。もう、いいのよ」


 ルービーはエラティスに微笑みかけた。

 花に負ける生命力、もう十分に生きた。

 ユリア王女のことは、リュカに任せた。あの血気盛んな少年なら、彼女を守ってくれるだろう。

 頼りなかった息子も気立ての良い嫁をめとり、子も生まれていっぱしの伯爵の顔になった。


「エリーさんが、花の香りを吸えば人は長生きするって、そう言ってたんです」


「長生き……?」


 エラティスがうなずく。


「病気の人に花をあげるのは、花の生気で元気になってもらうためだってエリーさんが言ってました。だから僕は、ルービー様に花をあげたいのです。僕には、これぐらいのことしか、できません」 


 彼は、自分が長く生きることを望んでいる。

 そのための、花なのだ。

 エラティスは、ルービーと生きてきた。

 ルービーはエラティスに生かされてきた。

 幼い頃、眠れぬ夜はいつも彼が本を読んでくれた。叱られて泣いていると、抱きしめてくれた。反抗期に父親とケンカして怒らせてしまったときは、一緒に謝ってくれた。

 息子の面倒をよく見てくれた。結婚してどこかよそよそしい態度になったルービーにも、彼は変わらぬ態度で接してくれた。

 夫が死んで心細いとき、支えてくれた。


 恋してるって気付いたのはいつ?

 少女のころ、面映い季節、美しい顔の魔術書に見つめられ、仕えられて、喜びと切なさで胸がいっぱいだった。


「ルービー様……どうかされました?」


 エラティスにハンカチを手渡された。


「あなたの気持ちが、嬉しくて。お花をたくさん、ありがとう。わたくし、あなたのことが本当に……」


 ルービーはハンカチで唇を隠した。

 みっともないほど、震えている。


「大好きなのよ……ありがとう、エラティス、あなたがいたから、わたくし、幸せだった」


 エラティスの手を握る。つめたい彼の手を、ルービーは涙で濡らした。


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