第八話 エラティスの書2
シルクハットの紳士が持っている杖は、青の石畳を着いていない。ガラマお爺さんの持っている木の杖は、石畳にしっかりと着いている。
「爺さんよ、そんなもン持って歩くほど、弱ってたのかい?」
そう尋ねたリュカのつま先を、ガラマが杖で軽く叩いた。いってぇ、とリュカは大げさに痛がる。ガラマは黙りこんだまま、杖をついて歩く。
「もっと痛い目に遭わないと、その軽口は治りそうにないね。ガラマ賢人がどれだけの苦労をされているか、君は知りもしないで」
ガラマの半歩後ろを歩いているユーリが、軽蔑の目を向けてきた。嫌でも目線が合う身長と、引き締まった顎の線。どこをどう見れば女なんだ、王子じゃなくて王女だなんて信じられねぇ。
リュカは文句をぐっと飲み込み、二人の一歩後ろを歩く。
「勉強をしてきなさい」
師匠のレジスの言いつけだ。肩のこるブレザーを着せられて、金持ちばかりが住む屋敷通りに連れて来られた。
よっぽどの用事がない限り、歩きたくない青い石畳の通りだ。貴族は嫌いだ。下町育ちの小僧にとって、見下してくるあの目は我慢ならない。
レジスのサロンにやってくる貴族の客たちは、魔力がないくせに講釈を垂れて、レジスにありがたい「アドバイス」を贈呈し、満足気に帰っていく。
まずは金にならないこと前提の魔術書作家にとって、貴族からの「贈呈」は恩恵だ。
食っていくには仕方がない。
そう思えど、へこへこ頭を下げる師匠の姿は目に毒なのだ。
「ついたよ、ここだ」
ガラマの杖が止まった。
磨き上げられた黒鉄の門の間から、冬でも色あせていない庭が見える。大きな屋敷、大きな庭、あり余る富の象徴。リュカは溜息を吐き、門をくぐった。
オルストルの現当主はルービーという名の老女だ。婿入りした夫を亡くしてから十年間、女手で伯爵家を切り盛りしてきた。
病で倒れてからは、跡継ぎの息子に家のことを任せ、寝室に籠もっている。
そう聞いていたが、出迎えてくれたルービーは顔色も良く床に伏していなかった。
白髪をきれいに結い上げ、木綿の簡素なワンピースに、毛糸のストールを肩にかけている。
こざっぱりした、痩せた老女だ。
「初めまして、リュカさん。あなたのことはレジスから聞いて、存じておりますわ。とても優秀なお弟子さん。そう想像していた通りだわ」
ルービーは優しく微笑んだ。
「え、あ……あの、それはどうも」
どう対応していいかわからず、リュカはとりあえず頭を下げた。こちらは想像とはまったく違う。伯爵家の女当主、きっと偉そうな婆さんだとばかり。
「お加減はどうですかな、ルービー様」
ガラマはソファーに腰掛け、尋ねた。
「ええ、今日はお日様が照っていて、とても調子がいいのよ。本当に嬉しい訪問だわ。ねぇ、エリー、パウンドケーキを出してくださらない?」
ルービーは機嫌が良さそうで、エリーと呼ばれたメイドも快い返答をした。
広間には窓が六つあり、太陽の光を十分に取り込んでいた。細かい花模様の壁紙に、テーブルの磨かれた木目や、銀の嘱台を輝かせていた。
暖炉は薪が積み上げられ、炎が温かい。
メイドが熱い紅茶と、ケーキを持ってきてくれた。
リュカは戸惑った。薄い白磁にバラ模様のティーカップは繊細で、紅茶の熱に耐えているように見える。持ち上げたら砕け散ってしまいそうだ。
ユーリは慣れた手つきでティーカップを持ち、一口飲んで味を誉めた。
リュカは震えそうな手でカップを持ち、味わう余裕がない。
育ちとは残酷に差が出るものだ。
リュカは自分がこの屋敷に相応しくない者だと惨めな気分になりたくなくて、俯いた。
ガラマはすぐに、核心を話した。
反政府運動にリュカが加わったこと、事の経過。ルービーは落ち着いた様子で受け答えした。
この人は、協力者なのだ。
資金の調達、城内の様子を探ること、伯爵家ならばできること。
最も信頼できる後援者であり、魔術書を愛する伯爵家。レジスはオルストル家をそう評した。
ルービーの態度からは慎重な理解を感じる。
サロンに来ては知った風な口を利く、貴族たちとは違う。
「わたくしに出来ることは、ほんの少し。それが悔やまれます。あと十歳若かったら、もっと協力できたのにね」
ルービーは目を細め、さびしそうに言った。
「そんなこと、ありません。あなたがくださった情報で、僕は父の計画を知ることができたのです。そして今、心強い方たちに支えられ、なんとか国が救えそうなのですよ」
ユーリが首を振り、強く否定した。
「ユリア王女、有り難きお言葉です」
ルービーは微笑みをユーリに向けたが、瞳は心配そうに揺らいでいた。
「そういえば、彼の姿が見当たりませんが……」
ガラマが広間を見渡して、尋ねた。
「ええ、彼は買い物に行っておりますの。変ねぇ、今日は随分と、帰りが遅いわ」
ルービーが頬に手を添えて、三人の金色の女神が囲んでいる置時計を見た。その横顔から一瞬だけ、若い頃の美貌をリュカは見た。
*
エラティスの前に置かれたティーカップから、湯気は消えた。彼は飲み物や食べ物を魔力に変換することはできない。
「僕は旧型なのです」
花束を抱いたまま、エラティスは丸椅子に姿勢よく座っている。
「僕が書かれた八十年前は、魔術書に感情は与えられませんでした。僕に課せられた役割はオルストル家の当主を守ることです」
エラティスはルルディに、淡々と説明してくれた。
「三十年前にユイズリー・フォルスが初めて感情を持った魔術書を出版し、レジスがさらにその精度を高め、魔術書はより人間に近付いた。ルルディは、彼のような旧型を見るのは初めてだろう?」
アグノスが言った。
早々に店は閉めて、二人で珍しい客人の相談に乗ることにした。
無表情ながら、エラティスが本気で「恋心」を求めていることは、彼が抱いた花束から香ってきた。
「はい。昔の魔術書はとても寿命が短かったって、ガラマお爺さんから教わりました」
「そうだ。感情を持たない、必要な魔力だけ書き込まれた魔術書は力を使い果たせば白紙の本となった。感情という情操を魔力に変えることによって、魔術書は長生きとなった。当主を守るようにと、エラティスを書いた魔術書作家が強い願いを込めたから、彼は長生きなのだろう」
アグノスの言葉に、エラティスが頷いた。
「ルービー様が僕を大切にしてくれたからです。病に伏せられてからも、僕のことを気遣ってくれます」
「ご当主様のご容態は?」
アグノスに尋ねられて、エラティスは首を横に振った。良くないのだろう。アグノスは暗い顔になる。
「あの……それで、どうしてエラティスさんは恋心を知りたいのですか?」
ルルディは重い空気を払うように、明るい声で尋ねた。
「あ、それは。日記に書いてあったんです。ルービー様の日記です。わざとではありません、掃除の時に偶然見てしまいました。ルービー様はこう書かれていたのです。エラティスが恋心を知っていれば、よかったのに。そう、書いてあったんです」
「日記に……あの、その前後の文章は?」
「えっと、こう書いてありました。……エラティスへの想いが強くなっていく。死に際にわがままなことを考えてしまう。もし、エラティスに恋心があったら……そう、書かれていたんです」
ルルディとアグノスは、顔を見合わせた。
つまり、当主ルービーはエラティスのことが好きなのだ。しかしエラティスは好きという感情を知らない。
「ルービー様のお命は、そう長くはないでしょう。僕はできる限り、ルービー様のためになることをしたい。僕はルービー様の魔術書です、当主様の願いを叶えるのは当然のことです」
その慕う気持ちには、恋心の熱はない。
彼は魔術書としての使命をまっとうすることだけを考えている。彼に感情があったならば、強く慕う気持ちは恋へと変化しただろうに。
もし、彼に恋心があれば……。
そう書いた当主の老女を思い、ルルディは胸が締め付けられた。




