第七章 ベーゼの書4
頭の隅にあった諦めを、ミーアは捻り潰した。
ガラスペンが折れそうな勢いで番人の書を書き上げた。
丸めて放った紙を朝日が照らす。
気合は入れた。記述は間違っていない。
原稿の束を整えて息を一つ吐く。インクの濃い臭いがした。原稿の上に掌をつける。
深呼吸をひとつ、願いをたくさん。
「ザム」
名前を呼ぶと、紙がらせん状に舞い上がり、竜巻が起きた。灰色の煙は老人の姿となった。灰色の髭がインク瓶に漬かってしまいそうなほど長い。皺に隠された眼光は鋭くミーアを凝視している。
製本されていないので姿は透けているが、触れられそうな存在感は確かにある。
成功だ。
「……ザム。あなたは番人の書となることを、誓いますか?」
「仰せのままに」
ミーアが問うと、ザムは目を伏せて、うなずいた。灰色の煙となり、ザムは原稿に戻る。ミーアはばらばらになった原稿をかき抱いた。
やっと、書き上げた。
*
冬の寂しい市場に木枯らしが吹く。
空が青白い時間から、街は増兵の御触れに粛清された。
十六歳から二十五歳までの若い兵士を集め育成し、戦力強化に努めるよう王から命令が下された。募集の看板を、後ろ頭のちいさいのっぽの少年が、見つめている。
ルルディはその後ろを、うつむいて通り過ぎる。戦争が始まるという悪い噂が、形を成していく。
戦争は人が死ぬ。のっぽの少年が兵士となって戦場に送り出され、果たして生きて帰ってくるだろうか。
店に戻ってからもルルディの憂鬱は晴れなかった。客を迎える声にも力が入らない。頬が強張っている。
「あの、すいません!」
ドアが勢い良く開いて、ミーアが書店に入ってきた。彼女の吐いた息で、眼鏡が白く曇っている。
「あ、あ、あああの! できたんです!」
乱れた呼吸のまま、ミーアが言った。
しっかりと立って、拳を握っているミーアの姿は以前と変わった。頼もしい。
「い、いまっ製本に出してきました!」
「そうかい、おめでとう。あなたならば書けると信じていましたよ」
ガラマお爺さんが優しく声をかけた。ミーアが涙目になって、ぐっと息を吸いこむ。
「あの、ベーゼさんにもお礼を言いたいのですけれど……」
「ありがとう、ベーゼも喜ぶよ。ルルディ、書庫まで案内してあげなさい」
「はい、ガラマお爺さん」
ルルディはミーアを連れて、書庫へ降りた。
薄暗い中、不安そうだったミーアだが、ベーゼを見つけると瞳が輝いた。
「ベーゼさん! 私、やっと番人の書が書けました! これもベーゼさんのお陰です」
ミーアがぺこりと頭を下げる。
「おれは何にもしてないけど……よかったな」
ベーゼも微笑んだ。彼の和やかな顔を見れて、ルルディも嬉しい。暗闇の中、本に囲まれてひとりぼっちのベーゼ、彼にも優しさがあるのだ。
何度も頭を下げてミーアは帰った。
その直後である。扉は重々しく開き、重い風が店内を息苦しくさせた。
三白眼がルルディを威圧した。角ばった肩から垂れた漆黒のマントは、怖ろしいものを隠している気配がする。
大柄な男の登場にルルディは怯えて、ガラマお爺さんの影に隠れた。
「初めてお目にかかります。この度、宮廷魔道師に就任したシンバード・オルフと申します。隣国より参りましたが、ガラマ賢人のお噂は聞いております」
丁寧な物言いだが、好意は一切感じられない。灰色の小さな瞳がせわしなく店内を観察していた。
「ご就任、おめでとうございます。あなたのような尊い身分のお方が、私に何か御用ですか?」
ガラマお爺さんの声も緊迫している。ルルディはうつむいて、シンバードの顔を見ないようにしていた。
「地下の書庫を拝見したいのですが……」
「お断りします」
ガラマお爺さんの即答に、シンバードは驚いた顔をして、それからにやりと口を歪めた。
「……なるほど、頑固だというお噂通り。良いでしょう、あなたの態度、しかと受け止めました。……後悔なさる結果にならなければ良いですね……」
マントをひるがえして不穏な風を吹かし、シンバードは店を去った。
彼は嫌な目をしていた。近付くだけで怖気が立ち、胸が圧迫される。
「もう大丈夫だよ、ルルディ……不穏な人物だが、私が対処する、安心なさい」
ガラマお爺さんはルルディの手を握り締めて言ったが、伏せられた目は悲しげで指先は冷たかった。
*
リュカは師と仰ぐ者の背を見つめた。
魔術書の歴史を変えた筆力を尊敬している。出来の悪い自分を弟子にしてくれたことに、感謝している。だからこそ、リュカは彼が隠し事をしていることが悔しい。
「オレは兵士に志願します。先生、戦争が終わるまでしばしの別れです」
そう言うと、レジスは机を揺らして立ち上がった。書き損じの紙が床に散らばった。
「君、兵士になるということが、どういうことかわかってるのかい! 死ぬかもしれないんだぞ、そしてペンを持つ手で人を殺すことだ! 僕は断固として弟子が戦争に行くことを許さない!」
レジスは取り乱していた。リュカの兵士志願を予想していなかったのだろう。焦った時の癖で、手で髪をかき乱し、何事かぶつぶつと呟く。
「オレはこの国を守る一員となりたいのです。戦争に行ったからと言って、必ず死ぬワケじゃない。生き残ればいい話じゃないですか」
リュカは腕を組み、鼻で笑った。
「戦争はダメなんだよ、リュカ! 君の愛国心は素晴らしいよ、だけど反対だ。志願は師匠として許さないよ。何としてでも止める」
あともう少しでぼろが出る。師匠のドジは十二分に承知だ。
「……ダメって、どういう意味ですか? まるで弟子が死に行くのを止めるみたいに、どうしてそんなに必死なんですか?」
リュカはレジスとの距離を詰めた。師匠の狼狽をじっくりと眺める。
「……毎晩、集合住宅地に行くのはなぜです? あなたが仕掛けのあるドアに入っていくのを見ました。ドアノブはフェイク、本当は押す扉、なんでしょう?」
耳元で囁くと、レジスは顔の色をなくした。 どっかりと椅子に腰を下ろし、溜息をつく。
「あんたの面倒を逐一見ている弟子のオレが、気がつかないと思ってた? そんなマヌケですか、オレは?」
リュカは机に腰かけて、レジスを睨んだ。
レジスは俯いたまま、考えこんでいる。
「……君を巻き込みたくなかったんだ。反政府運動は危険なことだ。君に里へ帰るようにと、どう説得しようかと悩んでいたんだ」
「それは無理な話ですね。オレ、腹を括ってます。あんたと弟子になったときから、運命共同体、オレをあんまり舐めてると怒りますよ」
レジスは顔を上げて、ふっと笑った。
「そうだったね。機転の利く君に協力して欲しい気持ちはあった。うん、どうやら弟子をみくびっていたようだ」
「協力させてください、師匠。戦争が罪なのは重々承知です」
国が間違った方向に進もうとするなら、正してやるのが愛国心だ。自分には出来ることがある、必ずレジスの役に立てるとリュカは確信している。
「こうなったらまず、リーダーの王女に君を紹介しなければならない。王女……いや、いずれ女王陛下となるお方だ」
レジスの言葉に驚きの声を発する間もなく、ドアが開いた。
ユーリが、立っていた。




