第六話 べラドンナの書2
汗ばんだ手を、ルルディはハンカチでぬぐった。指先が震えている。泣きそうな気持ちを飲み込み、ルルディはエンスティクトの顧客帳を確認した。
トニーの項目を書き換えなくちゃ。
ペンを強く握り締めたルルディは、トニーの魔術段階の数字を見て、青ざめた。
彼の段階は、四のままだ。ガラマお爺さんが書き忘れているはずはない。段階が上がった時は、過去の数字はガラマお爺さんの印鑑で消され、その横に新たに書き加えられる。
これは、どうして?
ルルディは呟く。頭を必死に回す。トニーは六段階になっていない。彼の思い違い、もしや嘘をついた? しかし、なぜ。
魔術書のレベルと、持ち主の魔力が吊り合わない場合、どうなるか。
まずは名を呼んでも魔術書は姿を現さない。
その場合、トニーの手にあるのはただの本だ。しかし、魔力の強い書、ヒモナスなどの場合は、名を呼ばなくても自らの意志で姿を現すことがある。
べラドンナの作者は誰か思い出し、ルルディは血の気が引いた。
よりによって、レジスだ。しかもべラドンナはプライドが高く、奔放な性格。もし、魔力がべラドンナに負けているトニーの前に、彼女が姿を現したらどうなる。
情けない、未熟だ。確認を怠ったせいだ。どうにかしなきゃ、けれどペンを握ったままの手が動かない。
ごめんなさい、ガラマお爺さん。
ルルディは謝りながら、涙を飲み込んだ。
自分の失敗で、涙なんか流すもんか。
*
足の裏が痛い。女の子を騙したことが気まずくて、家路を避けるように遠回りして、歩き過ぎたからだ。
底が薄くなったブーツを買い換える金を惜しみ、手に入れた魔術書を、トニーは抱きしめる。
うっすら黄色くなった寝具が敷かれた小さなベッドに、書物が雑然と詰め込まれた書棚、
粗末な机上には物が多すぎる。
トニーはベッドの上に、魔術書を置いた。
ドキドキしている自分が、みっともなく感じる。初めて女性を部屋に入れたのだ。魔術書だけれど、美しいと見初めた女性だ。
「べラドンナ」
かわいた声で、トニーは魔術書の名を呼んだ。
魔術書は紫色の煙と変化し、人の姿を現しはじめた。赤いハイヒールを履いたしなやかな脚、くびれた腰に、赤いブラウスを丸く押し上げている胸、そして妖しく微笑した顔が現れた。
ベラドンナは黒髪を、細く長い指で耳にかけ、トニーを見た。黒の中に赤い火がともっているような、魅惑的な瞳に見据えられ、トニーはたじろぐ。
「あたしをお買い上げ、ありがとう。ふーん、ここはあなたのお部屋なのね。見たところ……随分と若い方ですけれど、あたしに何の御用かしら?」
べラドンナが立ち上がり、近付いてくる。
彼女の声は、とても耳障りが良い。鼓膜の震わせ方を、心得ている。
「いや、えっと、その」
トニーは後ろに下がる。
カッとヒールを鳴らして、ベラドンナが迫ってくる。トニーは壁に追い詰められた。どん、と耳の横で大きな音がした。ベラドンナがトニーの頭の横に手をつき、下からじっとりと見上げている。
「ほぅら、言ってごらん? あたしにどうして欲しいのかしら? あなた、あたしのことをお気に召してくださったのでしょう?」
ベラドンナの甘い香りに酔いそうで、トニーは顔をそむけようとしながらも、美しい顔に魅入ってしまう。
赤い唇の艶に、触れたくなってしまう。
書店を覗いたとき、彼女は咲いていた。芳香が見ただけで、鼻のまわりをくすぐった。
どうしても手に入れたい、近付きたい。
熱望を抑えきれなかった。元来、気が弱いというのに、書店員の女の子に嘘をついてまで。
「そ、それは……」
トニーはベラドンナを見た。彼女の目はお菓子が欲しい子どもみたいに、きらきらしていて、何か言わなくては、と心をくすぐる。
何もかも、この美しさがいけない。
「ぼ、僕はその、女性と付き合ったことがなくて……女の子は僕を見ないから。だからその、君と……お付き合いがしたい」
ベラドンナが目を丸くした。
変なことを言ってしまった、とトニーは赤くなる。
くすり、とベラドンナが笑い、トニーは耳まで熱くなった。
「かわいいのね。いいわよ、お付き合い、しましょう。ねぇ、さっそくあたしを、街に連れていってよ」
ベラドンナの手が、そっとトニーの胸板をなでた。
「あたしを、デートに連れてって」
囁かれた甘い言葉に、トニーの頭は沸騰した。彼女の柔らかい手を握り、街へと繰り出した。ベラドンナは、くすくす笑う。
*
「ガラマお爺さん!」
帰ってきたガラマお爺さんの姿を見て、ルルディは叫んでしまった。驚いてなだめるガラマお爺さんに、ルルディは自らの失敗を告白した。
「ごめんなさい。確認不足でした」
何度もごめんなさいを繰り返すルルディの肩を、ガラマお爺さんはさすった。
「そうじゃな、魔術書師として冷静さに欠けている。しかし、トニーも嘘をつくという信頼を裏切る行為をしたのだ。いいかい、ルルディ。人の心は時として惑う。そして魔術書も……二つを繋ぐ魔術書師は、冷静でなければいかんぞ」
「はい、ガラマお爺さん。あたし、冷静になれなくて……どうしよう、トニーさん、今頃どうしているかしら、どうすればいいのかしら」
ルルディは戒めを深く受け止めた。
しかし、ガラマお爺さんに優しく背中をなでられ、我慢していた涙を、とうとう流してしまった。
ガラマお爺さんはそっとルルディを抱き寄せ、頭をなでてくれた。ルルディはすぐに泣き止んだ。涙を流しきってしまうと、心が落ち着いた。
自分の失敗を、償わなければ。
「ガラマお爺さん、あたし、トニーさんの所へ行きます。そして謝罪して、ベラドンナを返してもらいに行きます」
ルルディはしっかりとした声で、言った。
「一人で、行けるかい?」
「もちろんです。あたし、一人前になりたいもの」
「ふむ、そうじゃな。では、気をつけて行ってきなさい。あまり遅い時間にならないうちに」
「はい」
ルルディはトニーの住所を顧客帳から確認し、コートを羽織って書店を出た。下は向かない。前を向いて、まっすぐに歩く。
太陽はもう下へと向かい始めている。日が暮れる前に、解決しないと。ルルディは歩を早めた。




