第五話 レイサンダーの書1
冷気で首を締められた気がした。厚手のカーディガンで身を守っているという安心が、崩れる。地下書庫の冷たさは、無防備な首を狙ってきた。
「やあ、爺さん。それにお嬢ちゃん」
ベーゼが笑っている。
「あたしはお嬢ちゃんじゃない、ルルディよ……」
震えながら、ルルディは言う。
「ああ、そうだったね。今日は厚着をしているね。人間は難儀だ、冬が来ると身が重たくなるほど着なくちゃならなくて。ふむ、しかし君にとって寒さを感じるというのは、嬉しいことかもね」
黒い衣の袖を、ベーゼがひらひらと動かし、喉を鳴らして笑う。黒い蝶みたいなその動きを、ルルディは見ていた。
「あまり声を出すなと、言ったはずだ」
ルルディは驚いて、隣に立つガラマお爺さんを見た。白い眉が上がって、鋭く目が光りベーゼを見ている。厳しい声と横顔、初めて見るガラマお爺さんだ。
ベーゼの顔からすっと笑いが引き、腕を組んだ。息のつまりそうな沈黙が、やってきた。動き回ってお喋りだったベーゼが固まっている。書棚に押し込まれた本の一冊のように。
「……ルルディ、アグノスから聞いていると思うが、ベーゼには気をつけなさい。そしてここにある本の扱いには、くれぐれも。わしは……これから、もしかしたら、おまえにここへ来るよう命じることがあるかもしれん。本当はしたくないことだが……わかったね、ルルディ」
ガラマお爺さんはいつもの穏やかな顔に戻り、ルルディに言い聞かせた。
「わかったわ、ガラマお爺さん」
ルルディは緊迫を感じながら、返事をした。
戻ろう、とガラマお爺さんがうながす。階段を登るルルディの背に、視線が刺さる。ベーゼがじっと上目で見つめていた。むっつりと閉じられた口に、寂しそうな目で、叱られた犬みたいな顔だと思うと、彼が哀れになった。真っ暗闇で一人、孤独だろうに。
「……さっきあなたが、あたしに寒さを感じないことが嬉しいだろうと言ったでしょう? そうよ、冬だって素敵よ。ふわふわの毛糸で編んだセーターが着れるもの」
ルルディは微笑んでみせた。ベーゼも笑う。白い歯が、暗闇で白く輝かせた。
地下書庫から上がり、ルルディは開店準備を始める。温風の魔術書を呼び出す。ヌマルという名の部屋を暖かくする魔術書は、太った猫の姿をしている。低い書棚の上に用意したクッションで丸くなり、ヌマルが眠る。顔の左側とお尻までがオレンジ色で、あとは真っ白の太った猫だ。
ルルディがなでてやると、尻尾を軽く振った。
落ち葉を木枯らしが、どこかへ連れていく。
昨日よりも今日の方が寒い、とルルディは思う。昨日もそう思った気がする。
開店の看板を掲げて、すぐのことだった。
「どうも、こんにちはぁ。あーら、可愛い猫ちゃんね」
華やかな風が、店に舞いこんできた。栗色の巻き毛で、背の高い青年は、ばら色のマフラーを首に巻いている。
いらっしゃいませ、と出迎えると青年は人懐っこく笑った。背筋をまっすぐに伸ばした立ち方で、彼の雰囲気を華やかにしているのは、マフラーの色だけではないらしい。
「まあ、かわいい店員さん。ねぇ、この猫ちゃん触ると、とーってもあったかいの。どうして?」
青年の話し方は特徴的だ。あっけらかんと明るく、女言葉が彼に合っている。
「この猫ちゃんは、ヌマルと言って、温風の魔術書なんです。この子がいるだけで、部屋の中が暖かくなるんですよ」
「まあ、可愛くて便利なんてぇ、いいわね。すごいわぁ、あたしの国にも魔法はあるけど、こういうのは初めて」
「あら、どこの国からいらしたのですか?」
「海の向こうよ、泳いできたの。すばぁーんずばぁーんって」
青年が片足を上げ、空中をかいて泳ぐ真似をした。
「ええっ! この寒い中をですか!」
「あらごめんなさい。冗談の通じないタイプだったのね。嘘よ、やーだ冗談よ」
青年が笑う。ルルディも笑った。異国の楽しい人がきた。
「あたし、レイサンダーって言うの。カサオ国から来た王国騎士よ。王子を脅して長い休暇をもらってね、二週間はこの国にいるわ。それでね、あなたに魔術書について教えて欲しいのよ。あたしの国、魔術書はないからすっごく興味があるの」
レイサンダーが浮かれた様子で、店内を見回す。居住まいの美しさと、はしゃいでも上品な物腰、王国騎士らしいとルルディは納得する。
「ほう、カサオ国からいらしたのですか。我がエンスティクトにご来店いただき、光栄です。王子とは、昨年にヘレナ姫とご成婚されたばかりの、英雄ライモ殿ですな」
ガラマお爺さんが、カウンターから出てきてレイサンダーを見上げた。
「ええ、そうですわ。まぁ、うちの王子をご存知でうれしゅうございます。英雄と言っても、ほほほ、たいしたことはございませんのよ。龍を討伐して髭を取ってきたぐらい、ほーんとたいしたことのない、冴えない男なのよ」
ほほほほ、とレイサンダーが笑う。
「え、龍を倒したんですか! それって、とってもすごいことじゃないですか!」
ルルディはかかとを上げて、身を乗り出して言う。レイサンダーは眉尻を下げて、首を横に振った。
「いえいえ、ほーんと優男でねぇ。道化師だった安っぽい男だったのに、不思議な縁あって姫のお付きになってねぇ。そんでもって姫に惚れられて、結婚を許してもらうために龍を討伐したぐらい。男だったら屁でもないでしょうに」
「とってもすごいじゃないですか! すごい……マヤちゃんが好きな物語みたい……その王子様って、どんな人なんだろう……」
ルルディは感嘆の溜息をつく。
「どうやらあなたは、ライモ王子と親しい間柄のようで」
ガラマお爺さんが笑った。
びゅっと寒風が、店内に吹き荒れた。
「そのお話ッ! 詳しくお話ししてくださいッ!」
扉を大きく開いて、マヤが叫んでいた。
マヤはレイサンダーの元に走り寄ってくると、きらきらと輝く瞳で見上げて両手を組んだ。
「この度はヘレナ姫のご成婚、おめでとうございます。カサオ国のますますの発展を願っておりますわ。王国騎士様、わたくし刺繍師のマヤと申します。お目にかかれて光栄です」
スカートの両端をつまみ、膝を折り曲げてマヤが挨拶をする。呆気にとられた顔のまま、レイサンダーがその真似をする。
「どうも、あたしレイサンダーよ。うん、もう驚かないわ。この国でライモ王子の伝説とやらが、どう伝わっているか知ってる、さんざん聞かれたから。ちょっと待ってね、あたし、まずルルディちゃんと話がしたいから」
待て、というようにレイサンダーがてのひらをマヤに見せる。期待のこもった目のまま、マヤは何度もうなずいた。
「えーっと、魔術書について教えていただけませんこと? それと、おみやげにできそうな魔術書を教えてくれます?」
ふむふむ、とガラマお爺さんはうなずく。
「では、何冊か魔術書をお見せしましょう。ルルディ、書庫へ行ってお土産の本を選んできておくれ」
はい、とルルディは返事をして、書庫へ入った。魔術書を土産に、と買っていく観光客は多い。魔力のない人間でも呼び出せて、かさばらず、珍しいと喜ばせる小さな本のシリーズがある。
おねえさんみたいな、お兄さん。かわいい物や華やかなものが好きみたい。お友達も、きっとそんな人が多いだろう。
「だったらそう、あの本ね。妖精たちもきっと南の国が好きでしょう」
エルピタが微笑むと、広げていたルルディの手に小さな本が舞い降りてきた。
「すごい、すごいわ! 本当に人間になっちゃうのね。きれいだわ、すごいわ」
書店に戻ると、ガラマお爺さんが魔術書の名を呼び、力を披露していた。レイサンダーは大きな身振りや豊かな表情で、驚いてくれる。反応を見るのが楽しい人だ。
「お土産に、この本などいかがでしょう? ピクシー、と呼んであげてください」
ルルディは微笑み、ピクシーの書を見せた。桃色の布表紙に、羽根を持った女の子が白糸で刺繍されている。その周りには小花が散って、光沢のある糸で光の粒が表現されている。
レイサンダーはルルディのに手にある魔術書に、ピクシー、と呼びかけた。
小さな魔術書は、きらりと光って妖精の姿となった。いたずらっぽい緑色の大きな瞳に、尖った耳、透明なよく動く羽根。妖精は嬉しそうに、レイサンダーの巻き毛に触れて、飛びまわる。大きく目を見開いて、うっとりとレイサンダーは妖精の動きを追う。
「まあまあ! なんて可愛いのかしら! ステキ! あたし、この本にするわ。そうねぇ、十冊ご用意くださる?」
「かしこまりました、たくさんのお買い上げ、ありがとうございます!」
ルルディはぺこりと頭を下げて、大急ぎで書庫から妖精の書を十冊取ってきて、マヤにも手伝ってもらい、一冊一冊を花柄の紙で包み、金色のリボンを飾り付けた。
「本当にありがとう。あたし、あなたたちのことが気に入ったわ。この魔術書店も。あの、ご迷惑じゃなければ、滞在中に仲良くしてくださる?」
レイサンダーは小首を傾げて、はにかんで問う。ルルディとマヤは顔を見合わせて、にっことり笑った。
「もちろんですとも!」
二人の声は、ぴたりとそろった。肘を触れ合わせながら、マヤとルルディは笑う。レイサンダーもくすくす笑った。
「気に入っていただけて光栄です。ルルディ、今日はこの寒さで客も少ない。この方に、街を案内してさしあげなさい」
ガラマお爺さんが言った。
「はい、喜んで!」
「わたしも行きますわ。寒いからずっとお家にいようと思ったけど、出てきてよかった。こんな素敵な出会いがあるんですもの」
マヤとルルディはさぁ行きましょう、とレイサンダーを誘った。レイサンダーは瞳を潤ませて、両手の指先を唇に当てている。
「なんていい子たちなのかしら。お爺さん、ありがとう。あたし、とってもわくわくしてきた」
レイサンダーは丁重に、ガラマお爺さんにお礼を言った。そしてぎゅっとルルディとマヤの手を握った。
「さあ、行きましょう!」
胸躍る出発の心に、寒さは入り込んでこない。




