第三話 アルパの書4
アルパは、くつろぐようになった。朝寝坊もした。夜はマリエより早くに寝てしまう。
すこやかなアルパの寝顔を見てからベッドに入るのが、マリエの日課となった。
休日の午後、マリエは秋の日溜まりで読書をしていた。隣でアルパは絵本を読んでいる。
「あの、マリエさん。聞いてもいいですか?」
話しかけるアルパの声は、小さくない。
「んー? なあに?」
「えっと、マリエさんは魔術書を書かれるのですか? ガラスペンが、あったから、そう思ったんですけど」
マリエは本を閉じて、机の上を見る。
満月みたいな石台に、立てかけられたままの透明なガラスペン。魔術書を書くのに、欠かせない道具だ。溝が入ったペン先はインクをよく吸い込み、細い軸は長時間持っていても疲れない。
放置したまま、三年が経った。魔法インクは固まってしまっているだろう。
「昔はね。そこそこ売れてる作家だったのよ。レジスとよく、売り上げを競争したんだから」
笑いながら言うと、アルパはぱっと表情を明るくした。前歯を見せて、はにかむ。
「やっぱり、そうだったんですね! マリエさん、たくさん魔術書を持ってるし、そうだったらいいなって思ってたんです。でも、どうして書かなくなったんですか?」
問われて、マリエは頬杖をついて考える。
「理由は……ないのよね。なんとなく、書けなくなったの。書こうと思えば書けるはず。書こうという情熱が、なくなったの」
ガラスペンを握る手に、力が入らなくなった。書きたい魔術書を、書き尽くしてしまったのかもしれない。魔術書を書いて欲しいという依頼は、断り続けていたらこなくなった。
そのことに安心と、寂しさを感じている。
「もう一度、書いて欲しいな」
アルパが呟く。
そうね、と答えて、マリエは曖昧に微笑んでみせた。
数件、衣服店を回った。男の子用のエプロンが、見つからない。
ルルディがつけていたエプロンは、さすがに可愛すぎる。けれど刺繍が入っているエプロンを、アルパに着せたい。
「ただいま」
部屋に入ると、真っ暗だった。灯りをつけると、アルパが台所で倒れていた。
抱き上げると、彼が手にしていたじゃがいもが、床に転がる。
「アルパ、ねぇ、アルパ」
体をゆすると、アルパはうっすらと目を開けた。なでた頬は冷たい。
「マリエさん……ごめんなさい。ぼく、体に力が入らなくなって……」
か細い声を聞いて、マリエは涙する。
「謝らなくていいの……すごく、疲れているんでしょう……アルパ、本に戻りなさい。お休みするのよ」
アルパは頷いて目を閉じた。本に戻ったアルパを、胸に抱きしめる。疲れに気付いてやれなかった自分を、恥じる。
なぜ、こんなにもアルパは体が弱いのだろう。理由を探るべく、マリエは魔術書のページをめくる。
「なに、これ……」
読み込んでいくと、魔術書が人の姿を成す構成呪文に、記述の間違いが多い。アルパの体が弱い原因だ。
きちんと書いてもらえなかった、魔術書だ。
作者に失敗作、という資格はない。作者の力不足じゃないか。
マリエの見開かれた目は、怒りで熱くなった。
*
ルルディは気がかりだった。マリエはアルパを気に入ってくれただろうか?
「大丈夫だ」
案ずるルルディに、アグノスは言った。
ガラマお爺さんは出かけて、アグノスと二人きり。午後から客は少なく、一般書の整理をしながら、小腹の空きをルルディは感じた。
カウンターで帳簿を付けていたアグノスが、ふと席を外した。すぐに彼は戻ってくると、クッキーが盛られた皿を持ってきた。無言で、皿をルルディの前に突き出す。
「あ、ありがとうございます……」
戸惑いつつ、ルルディはチョコチップクッキーを一つ手にとり、食べた。ざっくりとした生地に、口の中で溶けるチョコレート。
「おいしいです」
ルルディはもう一枚、手に取った。
「俺が作った」
アグノスが言った。ルルディはクッキーを噛んでいた歯を、止める。クッキー、焼くんだ……。アグノスの謎が深まった。
書店のドアが、開いた。ルルディは慌ててクッキーを飲み込み、いらっしゃいませ、と振り返る。
マリエが、怖い顔で立っていた。
「どうも。あのね、アルパの作者を調べてちょうだい。急いでるの、早く」
早口でマリエは言うと、カウンターに肘をついて息を整えた。
「は、はいっ!」
ルルディは慌てて書庫に行き、エルピタに作者名を尋ねに行った。書店に戻ると、マリエがクッキーをかじっていた。
「アルパの作者は、ダニエル・オービンさんです。あ、マリエさんと同じ魔術学校の先生だわ」
ルルディが教えると、マリエの髪が逆立ったように感じた。眉を釣り上げて、口をひん曲げている顔が怖くて、ルルディはたじろぐ。
アグノスも気圧されているようで、半歩下がって、ルルディに近付いてきた。
「ふふふ、おもしろい偶然ですこと……ダニエル、あいつだったのね」
マリエが不適に笑う。
「わかったわ、ありがとう。あ、もう一枚、クッキー頂くわよ。あいつ、こってり絞ってやらないと」
マリエはクッキーをもごもご食べながら、書店を出ていった。ルルディは、彼女が落としていった食べかすをホウキで掃いた。
「何があったか、尋ねられる雰囲気ではありませんでしたね。アルパに何かあったのかしら?」
後から不安になってきて、ルルディはアグノスに頼りたいと思い、訊いた。
「彼女はアルパではなく、ダニエルに怒っているようだ。大丈夫だろう」
アグノスが、クッキーの最後の一枚を薦めてくれた。ルルディは惜しむように、少しずつ食べた。
*
復讐の時、来たり。我が手に魔術書来たり、因果なり。絶好の機会に、我が心喜び跳ねるなり。
マリエは呪文のように心境を呟きながら、ダニエルがいる職員室へと歩を進めた。生徒たちはマリエと廊下ですれ違っても、異様な雰囲気を察して遠ざかっていた。
ダニエルは背を丸めて、机に向かっていた。
彼の目の前に、アルパの書を静かに置く。
仕事を邪魔されたダニエルは、不機嫌な顔でマリエを見上げた。
「なんですか、一体……」
「十二ページ!」
マリエは怒鳴った。
「はぁ?」
「十二ページ! 開く!」
気迫に負けて、ダニエルはアルパの書第十二ページを開く。本を開き、自分の筆跡を見て、ようやくダニエルは気付いたようだ。
「これ、なんであなたが……」
「あたしが買ったの。今はそんなこと、どうでもいい。ここ! よく見ろ! 間違ってる!」
記述の間違いをマリエは指示棒で示した。
ほんとうだ、とダニエルは読んで間抜けに言う。のんきな態度が、マリエの苛立ちに火を注ぐ。
「間違っていたら、書き直す! 早く!」
指示棒でダニエルの頭を小突き、マリエは怒鳴った。ダニエルは焦ってマリエの言った通りに、書き直した。
「次、三十一ページ!」
マリエは息つく暇も与えず、ダニエルに次々と記述間違いを訂正させた。ダニエルは怯えて、慌てふためきながら、書き直していく。
「……本当はあたしが書き直したいけど、筆者であるあなたにしか、できないのよ」
マリエは悔しい。
「あなたのことは大っ嫌いよ。でも、アルパは大好きよ。失敗作だなんて言って、この子を手放したことを悔やめばいいわ」
ペンを握ったまま、ぐったりとしているダニエルから取り上げるように、マリエはアルパの書を手にした。
胸に抱く。
「あなた、魔術書作家、失格」
マリエは言って、背を向けた。ダニエルは、言い返す気力もないようだ。




