第三話 アルパの書3
魔術書アルパを購入してから、マリエの生活は快適になった。アルパが洗ってくれたブラウスを着て出勤し、床が見える整頓した部屋に帰り、栄養があって美味しい手料理を食べる。
家に帰ると、誰かがいる。
控えめに、おずおずと、おかえりなさい、とアルパが迎えてくれる。
マリエは、満たされていた。長らく感じられなかった、心身の休息を得た。
アルパのおかげで、マリエの仕事は捗った。
書棚を整理してくれたので資料は引き出しやすくなり、肌寒くなると毎年風邪を引いていたが今年は健康そのものだ。
深酒もしなくなった。子どもの前で酔い乱れるのは、堕ちた大人のすることだ。
進級試験問題も予定より早く仕上げることができて、学校の廊下を一人歩いていると、思わず鼻歌な気分だ。
「おやおや、マリエ先生。ご機嫌なようで」
廊下の角から、にゅっと陰気な顔が出てきて、マリエは驚く。同僚のダニエルだ。灰色のローブを一年中着ていて、埃臭い男だ。頭は切れて教え方は上手いが、どうもマリエはこの男が苦手である。
「あら、どうも。進級試験問題が終わったものですから、安心しまして」
マリエは取り澄ました態度で言う。
ダニエルの顔が、不足そうに歪んだ。
「え、もうですか?」
彼の様子から、まだ問題は完成していないようだ。先を越してやったわ、とマリエの気分はさらによくなる。
「さすが先生……仕事が早いこと。私は、まだできていないのですよ。大事な進級試験ですから、生徒たちをきたえるために凝った問題を、と考えているとなかなか。マリエ先生はお優しいですから、きっと不出来な生徒をも慮った試験なのでしょうね」
にたぁり、とダニエルが笑う。マリエの頭の中で、カチン、と音が鳴った。手抜きをしたでしょう、という嫌味だ。
「それでは、どうも」
何かうまい言い返しを、と考えているとダニエルは廊下をすべるような足取りで、去った。
ほんと、嫌な男だ。折に触れて嫌味を言ってくる。腹が立つ。
ご機嫌が、台無しだ。ダニエルに嫌味を言われた日は、寝るまでむしゃくしゃしていたが、帰ってアルパの顔を見ると吹っ飛んだ。
アルパの大きな目を見ると、気分が綻ぶ。
ただいま、と言いながら彼の頭をなでると、もぞもぞと恥ずかしそうにした。
不安だった。こんな小さな子が、家事のすべてを出来るのかと。その考えをマリエは撤回した。アルパは小さい体でも健気に、働いてくれている。
食後のコーヒーを飲みながら、マリエは木の台に乗って食器を洗っているアルパを見つめた。
アルパは必要以上のことは話さない。
家事をしている以外は、ひっそりと部屋にいる。
そうだ、エプロンを買ってやろう。
マリエは頭の中の買い物メモに、アルパにエプロン、と書き加えた。
アルパが洗った食器を手にして、木の台を降りる。彼の体が、前のめりになった。落ちてしまう。マリエは、駆け寄った。
アルパの手からカップが滑り落ち、床に落ちた。はかない音を立て、床に落ちたカップは二つに割れた。転びかけたアルパを、マリエは抱きとめる。
「あ……」
大きく目を見開き、アルパが割れたカップを見つめる。
「ご、ごめんなさい! 大切な食器を割ってしまい、申し訳ございません!」
声をしぼり出し、アルパがマリエの腕の中で謝る。顔を真っ青にして、小さく震えている。マリエの腕から抜け出ると、膝をついてカップの破片を集めだした。
「いいのよ、これぐらい。ね、危ないから立って」
マリエはアルパの腕をつかみ、立たせた。
アルパは泣いていた。
目線を合わせて向き合い、両肩にそっと手を置く。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ぼく、失敗しちゃって」
「そんな、泣かないで。大丈夫、あたしなんか自分で食器を洗ったら、しょっちゅう割ってるもの。ね、もういいのよ、大丈夫」
元気付けても、アルパの涙は止まらなかった。うるんだ瞳で、じっとマリエの表情を見ている。
「ぼくを、捨てませんか? ぼくはまだ、あなたの魔術書で、いいですか?」
「え?」
マリエは、アルパの目の震えを見た。
青ざめた頬をそっとなでる。柔らかく冷たい頬に、掌を押し付ける。
「馬鹿ね、何言ってるの。捨てたりする訳ないでしょう。たった一回の、それもこんな失敗で、挫けちゃだめでしょう」
アルパの肩をゆすって言いながら、マリエは泣きそうになった。
「ほら、片付けよう。ほうきとちりとり、持ってきて」
アルパは少しほっとしたようで、泣くのをやめて頷いた。
食器を片付け終えてから、マリエはアルパを隣に座らせた。
「どうしてそんなに、怯えているの? あたしのこと、怖い?」
尋ねると、アルパは首が折れそうなほど、首を横に振った。
「ここ、落ち着かない?」
アルパは首を振る。
「じゃあ、どうして?」
俯いて黙り込んだアルパを、マリエは覗きこむ。唇は固く閉じられて、なかなか開きそうにない。マリエは辛抱強く待った。
マリエよりも早く起きて朝食を作り、マリエより遅く寝る。掃除、洗濯、料理、すべての家事を完璧に行う。アルパは、常に気を張っている。
手を抜いたら叱られるみたいに。
「……ぼく……失敗作、だから……」
消え入りそうな声で、アルパが言った。
「失敗作? あんたが? 誰がそんなこと、言ったの?」
マリエは驚いて、つい問い詰めてしまった。
「ぼくを書いた……先生が……」
アルパはまた、泣き出した。
「ぼくは先生に書いてもらってから、しばらく先生の家にいました。それで……ある日、カップを割ってしまったら……おまえは失敗作だって……それで……」
売られてしまった、とアルパが言って下を向いた。大粒の涙が小さな手に落ちる。
失敗作、と言われたことが、どれだけ魔術書にとって辛かっただろう。傑作か駄作かは、作者の手によって決まることだ。書かれた魔術書に罪はない。自分の無能の、なすりつけだ。
「馬鹿言ってんじゃないわよッ!」
マリエは怒鳴った。びくん、とアルパが震える。
「あんたのどこが、失敗作だっていうの? あたし、どれだけあんたに助けてもらっているか! あんたを書いた作者は愚か者よ!」
腹の底から熱くなる怒りを、どう発散しようかとマリエは部屋を歩き回る。
作者の言葉は、本にとってすべてだ。親が子に暴言を吐くようなもの。許せない、とマリエは憤慨する。
「いいこと、そんな言葉、早く忘れてしまいなさい」
アルパの頬に両手を押し当て、マリエは言った。アルパはきょとん、とした顔をしている。
「ほら、忘れるッ! はい、さん、にぃ、いち!」
ぱし、とマリエはアルパの両頬に掌を打ちつけた。それから、ぎゅっと抱きしめる。
「かわいそうに、辛かったね。大丈夫、あんたは傑作よ。家事の天才よ。でも、天才だってたまに失敗してもいいの。完璧じゃなくて、いいの」
背中を撫でてやると、アルパはぎゅっとしがみついて、マリエの肩を濡らした。




