第三話 アルパの書1
市場が夏の赤から、秋の茶色に変わった。
焼き栗の香ばしい誘いから逃げて、ルルディは買い物を終えて魔術書店エンスティクトへと戻る。
街路樹の銀杏は、色づきはじめている。ルルディも衣替えした。長袖の紺色のワンピースに、マヤお手製のエプロン、ショートブーツ。
「ただいま、戻りましたー!」
書店のドアを開けて、ルルディは弾んだ声で言った。
「おかえり、ルルディ」
「おかえりなさい」
ガラマお爺さんの隣に、少年が立っている。
お客さんだわ、とルルディは笑顔を返す。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
少年は艶のある黒髪で、ほっそりとした体型に黒のベストがよく似合っている。年は十代後半だろうが、微笑に品がある。
「初めまして、ルルディちゃん。僕はユーリです。近くの屋敷に、勉学のため引っ越してきました。よろしく」
ユーリに見つめられ、ルルディは照れ隠しにお辞儀をした。彼がきれいな黒い瞳の、美形だと気付いてしまったのだ。
「ルルディ、彼はルマンズ伯爵の甥っ子なのだよ。伯爵同様、彼も魔術書収集が趣味でのう、たくさんお買い上げ頂こう」
ガラマお爺さんが笑う。
「破産はさせないでくださいよ。だけど、いい本が入ったら、真っ先に教えてね、ルルディちゃん」
ユーリのルルディちゃん、という呼びかけは耳にくすぐったい。
「はい、ぜひ」
ガラマお爺さんは本を取ってくると言って、書庫へ入った。それを見届けて、ユーリがルルディの前にしゃがんだ。ルルディの鼓動は早くなる。
「この本、君の落とし物じゃない?」
ユーリが足元に置いてあった旅行鞄から、魔術書を出した。水の魔術書だ。驚いてユーリの顔を見ると、安心して、と彼は囁いた。
「ガラマお爺さんには秘密、そっと棚に返すんだよ」
ルルディは頷いて、慌てて買い物籠の奥に魔術書を突っ込んだ。この本をどこで拾ったのですか? と尋ねようと思ったとき、ガラマお爺さんが戻ってきた。
ユーリは何事もなかったように、立ち上がる。
「おや、もう仲良しかい?」
ガラマお爺さんが、からかうように言う。
「ええ、仲良しですよ。ね、ルルディちゃん?」
「は、はいっ!」
裏返った声で、返事をする。優しそうな少年ユーリだけど、一緒にいると気恥ずかしい気分になってしまう。慣れるのに時間がかかりそうなお客さんだ。
カラン、と音が鳴ってドアが開いた。
「どうもー、ガラマお爺さん。大変だよ、うちの師匠がまーたやらかした」
リュカが入ってきた。カウンターに原稿の束を広げると、その横に顎を乗せて腕をだらんと垂らした。シャツは皺だらけで、全体から疲労がにじみ出ている。
原稿の束を見て、ルルディとユーリは、同時にうわぁと声を上げた。
流れるような文字で書かれた原稿の真ん中が、全部真っ黒だ。
「……インクを……インクを零したんだよ。せっかくの完成原稿に……レジスのレは……レンガで頭を殴りつけたくなるほど馬鹿の……レ」
ううう、とリュカが泣く。ルルディは背中を撫でて、慰めてやった。
「こりゃダメだ。はいはい、また発売は遅れる、と。レジスはドジだねぇ」
原稿の束をまとめて、ガラマお爺さんが呆れた顔で言った。
「締め切り前夜に、このザマだ。徹夜で手伝ってやったのにッ! あー、ダメだ! これ以上考えると頭が怒りで破裂する! 何か他の事を考えないとーッ!」
リュカが叫び、腕を組んで目を閉じる。思考を切り替えようとしているらしい。
「あ、そうそう。俺、いいこと思いついちゃったんだよねー」
目を開けたリュカは、にんまりと笑った。ほうほう、とガラマお爺さんは聞き流しながら、原稿のインクで汚れていない所を読んでいる。
「王女様が城からいなくなったのはさ、家出説が有力らしいね。幸いにもさらわれた可能性はないらしい。やっぱさー、王女様といえども年頃の女の子じゃん? そりゃあ辛気臭い城に引きこもってんのが、嫌になるよな。俺は思うワケ。きっと王女様は、恋がしたいと!」
リュカの声は、高らかだ。
「そうなの?」
「そうだとも! ルルディっ! だから俺は、王女様を見つけ出すッ! 王女様とデートを楽しみたい!」
拳を固く握り締め、うし、とリュカは気合の声を入れた。飛躍した話にルルディはついていけない。ガラマお爺さんは、もはや聞いていない。
「……君、レジス先生の弟子だろう?」
ユーリが言った。彼はルルディの前に立ち、リュカをじろじろと眺める。優しく品の良い雰囲気は一変、ユーリは冷たい目でリュカを見ている。
「レジス先生の弟子と聞いて期待していたが、ただの色ボケ馬鹿野郎とは。王女とデートなんて発想、どうかしてるよ。僕にはとてもできないお考え、尊敬いたしまーす」
ぱちぱち、とユーリが手を叩く。
「なんだ、このいけすかねぇお坊ちゃんは」
リュカがユーリを睨む。
「僕はルマンド伯爵の甥、ユーリだ。正真正銘の坊ちゃんだよ」
「坊ちゃんよォ、初対面の俺にその態度はなんだい? 世の中の渡り方ってのを、俺がとことん教えてやろうかァ?」
ユーリにぐっと近付き、リュカが歯軋りをする。血走っているリュカの目を見て、あわわ、とルルディはうろたえる。
「いいや、君こそ世の中のことを知らないね。王女様が恋をしたいから脱走したぁ? どう教育されたら、そんな考えができるんだい?」
ユーリが鼻で笑う。
「夢見たっていいだろぅがぁあ! だいたい、オレはいい年こいて一人称が僕の男が、大っっ嫌いなんだよ! 気色悪ぃ」
涼しい顔をしていたユーリが、むっとした顔になった。
「僕は君みたいな野蛮人で、色恋のことしか頭にない男は大っっ嫌いなんだよ!」
「俺が野蛮人なら、おまえはナヨナヨ人だ!」
「ナヨナヨ人ってなんだよっ!」
「おまえみたいに気色悪い奴のことだー!」
二人の怒鳴り声が、耳に響く。落ち着いて、というルルディの声はかき消えてしまう。どうしようもなく、ルルディは二人の間で、おおろおろとするばかり。
こつん、と小気味良い音が二度、鳴った。
ユーリとリュカが同時に、痛い、と声を上げて頭に手を当てた。
「本屋では騒がないの」
落ち着いた女性の声がした。
「げっ、マリエ姐さん」
女性の姿を見て、リュカは大人しくなった。叱られた犬のようなしょげた顔をして、ごめんなさい、と謝って書店をそそくさと出ていった。ユーリも謝罪し、その後に続いた。
書店から出た二人は、歩きながらまた小競り合いをしている。
「まったく、最近のガキは石頭多いのよね、やんなっちゃう」
マリエと呼ばれた女性は、拳を撫でながら、溜息をついた。踝まで裾がある黒いワンピースの上に海老茶色のショートマントを羽織り、アメジストの耳飾りを揺らしている姿は、垢抜けている。若くはないが、年寄りでもない。
リュカが姐さん、と呼んだ理由もわかる。そう呼びたくなる雰囲気の女性だ。
「おや、マリエさん。久しぶりだねぇ」
ガラマお爺さんが、親しげに声をかける。
「お久しぶり。ガラマさん、客層が悪くなると、顧客が遠のくよ」
「気をつけるよ」
マリエはカウンターまでやって来ると、インクで汚れた原稿を目にし、手に取った。
「あらら、レジスがまたやらかしの。書き直しが大変だ。ねぇ?」
マリエは横に立っているルルディに、笑いかけた。ルルディも微笑む。
「あら、可愛い子」
「初めまして、ルルディです。見習いの魔術書師です」
「おや、ガラマさん、弟子をとったんだ」
マリエが驚いた顔をした。
「体にガタがきてなぁ、この頃は腰の痛みが難儀だよ。どうだい、マリエさん? 魔術書をご所望なら、この子に任せてみないかい?」
「うん、そうする。最近、進級試験を作るのに忙しくて、家事ができないのよ。お手伝いの本、頼むわね。あなたの見立てに任せる」
「はい、ありがとうございます!」
ルルディは元気良く答えた。三ヶ月の見習い期間を経て、成長した所を見せたい。
どんな本がこの人に合うかな、とルルディはマリエを見つめる。彼女はゆったりとした表情で、立ち姿には大人の余裕が感じられる。
「あたしね、昔は魔術書作家だったのよぅ。今は書いてなくて、魔術学校のセンセイなんだけどね。だから、ちょーっと魔術書にはうるさいかもよぅ」
マリエはわざとらしく意地悪そうな顔をして、くすくす笑った。がんばります、と答えてルルディは笑いながら、彼女を観察する。
こなれた立ち回りや、話し方。彼女は洗練されている。
マリエは書棚の方に移動し、本を手にとってめくった。頁をめくり文字を追う目に、ふと寂しさがちらついた。鼻先から、顎にかけて。本に意識を向けて、見られることに無防備になった顔が、幼く見えた。
「では、マリエさん。お待ちください」
ルルディはぺこりと頭を下げて、書庫に入った。
マリエの中に、寂しさがある。
ルルディはそう、確信した。
彼女に寄り添える魔術書を、探そう。




