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ふわり

作者: 梅野飴

 その年で一番の暖かな日だった。

 匂いなんてものはもう何年も意識してなかったはずなのに、その日は花と緑の香りが鼻腔をくすぐるようにして抜けていった。

 正面玄関の前に植えられた大きな桜の木が柔らかな風を受けて笑っているみたいに揺れた。

 私にこのような日が訪れるなんて思ってもみなかった。そんな風には生きてこなかった。

 受付に来て、初めて自分の息が切れていることに気づいた。

 額から吹き出した汗が、記入表に滴りそうになって慌ててハンカチでそれを拭う。

 淡い桃色のカーディガンを羽織った若い女性がそんな私を見てクスりと笑った気がして、私の汗はさらに止まらなくなる。

 それは決して嘲笑ではなく、広い公園の芝生に小さなキノコを見つけたときのような、ちりめんじゃこの中に小さなタコを認めたときのような、そんな愉快な愛情を内包した穢れのない笑顔で、それがまた私をふわりと浮かせた。

 彼女の歩みの二歩後ろを歩く廊下の数メートル。私の人生が終わる数秒前。人生の精算を受けているような心地でその道を進む私の心境が私自身にもわからずますます足はふわりと浮いていった。

 突き当たりの窓から春の陽が差し込んでいるのが見えた。

 なので私は病室を開けた。

 その瞬間に、私は鞄をストンとその場に落とした。

 たった二メートルの距離を風よりも速く駆けた。

 目を丸くしたままの愛する妻に飛びついた。桃色の看護師が慌てて私を落ち着けようとする。

 洟を啜った。涙が止まらなかった。

 もう何十年も流したことのなかった涙が雨のようにベッドに降った。

 そんな私を看護師と妻は困ったように見下ろして、オフィス街に四葉のクローバーでも見つけたときのように優しく笑った。

 呼吸を整えて顔を拭いた私の腕に、お前が乗せられる。

 女の子だと知らされた日から、いや、もう一年近くも前から百も考えてきたお前の人生に伴う大切な名前。

 全て春の風に攫われたように消えた。お前という存在の、その愛おしさの前には何もかもが軽くふわりと消えていった。

 その生命力のほとんどを使い果たしたであろう妻が、私の震える肩にそっと指を乗せ、背広から何かを摘んで、微笑みながら私に見せた。

 その手の平に乗ったそれが、小さく開いていた窓から吹き込んだ春の風にふわりと浮いた。

 お前の額にぴたりと引っ付いたその桜の花びらを見て、今度こそ私達は夫婦で笑ったんだ。

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