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ぼ………僕ぅ!?
私はごふっと血反吐を吐いた。
あの、気位が高く、ルー様以外の人間などオオカミ以下の下等動物同然と見下し、決して他人には近づかなかったフェル様が、僕、だと………
私は虫になって初めて他人、まあオオカミだけどね、と意思が通じたというのに、それよりも眼前のフェル様から目が離せなかった。
凡そ、日本語ほど一人称のバラエティに富んだ言語もない。
僕、俺、私、おれもオレもニュアンスが違う。“I”だけではないのだよ、“I”だけでは。
そしておそらく言語を持たない動物にとっても、その一人称の区別があるとは思えない。
と、言う事はだ。
今のフェル様の精神状態と、ごくピンポイントな時期にだけ出現する幼児期とが重なった結果、この念を通じたような会話の中で彼の思いは「僕」と伝わったのだろう。
尊い。
もう色々尊と過ぎてくらくらする。
ボクでもいいんだよ、ボクでも。
不安そうな目をしたまま辺りを見回すフェル様を前に、私はそんな不埒な事を考えていた。
それにしても、やはりさすがは元々が日本のゲーム、どうやら言葉には不自由しないで済みそうだ。
ゲーム内ではルー様とフェル様の邂逅は描かれていない。オープニングと同時に既にルー様は成人だったし、フェル様は長身のルー様の胸元辺りまでの体高、幾つくらいかは分からないが、堂々たる体躯のオオカミだった。
二人の出会いが描かれていたのは、レディバードの中だった。
………という事は、ここはゲームの中の世界ではない。
これから幾通りのもの未来の可能性を秘めた二次創作レディバードの中の世界に違いない。
………えっと、どうやって出会ってたっけ………
思い出せない。
でも、この不安そうな状態のままフェル様を放置しておくわけにもいかない。
私は、自分が血反吐を吐いて悶えていた事を棚に上げてフェル様に向き直った。
『見える?
飛んで行くよ。
小さな虫、それが私』
分かりやすいように、と話したら何だか乙女チックなポエムのようになってしまった。
まあいいや、と私はぶーんと飛び、フェル様の鼻先で旋回した。
どうやらフェル様が私を認識したらしいと感じ、耳と耳の間にゆっくりと着地する。
うわあ、すべすべ、ビロードみたい。
私は手足をもそもそと動かす。ああ、手足が一杯あって幸せ。
フェル様がビロードならルー様はシルクだな、きっと。まだ潜り込んでいないけれど。
『どうして?さっきまでみんないたのに………どうして僕は一人なの?』
フェル様が、人間以下のテントウ虫ごときに、こんなに切なげな声をあげ、当惑されていらっしゃる!
もはや、声を聴いてくれる相手ならば何でもいい、虫でもいい、何ならその辺の石ころでもいい、そんな風情である。
まさに千載一遇というやつではないか。ルー様、さすが持っている男である。
『大丈夫、あの人のそばに行って。あなたとあの人には絆があるの。あの人とあなたは一生………
そこまで言いかけて私は言葉を飲んだ。
けれど、未来はまだ決まってはいない。フェル様はルー様を置いて死んだりしない。今度こそ、ずっと、うちの鉄丸のように………天寿を全うするその時まで。
………一生一緒にいられるから!』
まるで私の言葉に頬を叩かれたかのように、フェル様はルー様に駆け寄った。
身長の何十倍かと思われるような大きなジャンプをして、その胸元に飛び込む。
思わず、と言った体で黒い塊を抱きとめたルー様は、くしゃりと笑った。
「………何だか今日は随分色々な物に懐かれるな」
ちょっと嬉しそうだぞ、少年。
フェル様はぺろぺろとルー様の頬を舐めている。そして、ルー様の腕の中という安息地を見つけた途端、上からこちらを見おろし、私を視認するとつんと顔を背けた。
………恥ずかしいんだな。
まあ気持ちは分かる。
『誇り高き黒オオカミだもんね』
そう声をかけると、言葉ではなくぶふっと小さな唸り声を返された。
「………一緒に来るか?」
ルー様の問いかけに、フェル様はおん!と澄んだ声を上げた。ぶふとは大違いである。
道々、ルー様はずっとフェル様に話しかけていた。
案外話好きなんだなあ、そう思いながらぶんぶん羽音を立てていると、ついにルー様がその歩みを止めた。
「………一緒に来るか?」
随分嫌そうである。
しかし、細けぇ事はいいんだよ!とばかりに私はルー様の肩口で羽を休めた。
かつて見た、軽くウエーブのかかった銀色の長髪を風になびかせ彼方を見つめるルー様と、隣に伏せ、顔を上げて同じ方向を見るフェル様、そして銀の鎧の肩口に止まった小さな赤いテントウ虫、あの美麗イラストの再現である。
ついに私も尊みの仲間入りである。
「お前たちに名前を付けなきゃな」
フェル様はぱっと嬉しそうな顔をした後、私と一緒に扱われた事に気づいたようにまた、ふ、と息を漏らした。
知ってますよー、フェル様のお名前はフェリステア。一晩悶々と悩んで、ルー様は生まれて初めての睡眠不足を経験するんです!
うきうきと考えながらも、同時にまた私はフェル様の最期を思い出してしまう。
狂気に囚われたルー様、そして次々に町や村を襲うルー様のそばを、フェル様はそれでも離れない。もはや自分の事を覚えていないかのような主人と共に人々を襲う。
そして、一個大隊に囲まれた時、一人なら逃げられたルー様は飛べないフェル様を何故か残していけないのだ。
共に走る一人と一頭。
地上を走るのならルー様よりほんのちょっと早かったフェル様は、頑なに先頭を譲らなかった。
敵の矢を受け、時にはルー様を庇い、傷ついても走り続けるフェル様。
漸く森の中に逃げ込んだ時、それまで一度も後ろを振り返らなかったフェル様が立ち止まり、振り向き、ルー様をじっと見つめた。
…………ここからはゲーム内でもショートムービーが流れる。
一頭の大きな黒オオカミが、ゆっくりと振り向き、遠吠えをする。その木霊が消えた時、その体もとさりと倒れるのだ。
その短いムービーの前後をレディバードが補完する。
フェル様はルー様の腕の中ですらない、冷たい地面の上に横たわっている。
ルー様は近付くこともできない。そして、何故自分が泣いているのかも分からないのだ。けれど、それがルー様の最後の人としての理性だった。
フェル様を失ったルー様はまさに悪鬼となって殺戮を繰り返す………
泣きそうだ。
でも、絶対にそんな事にはしない。
虫だけど。
絶対に!
私は拳を握った。気持ちだけは。
「あ、お前はアキ。何となく」
は?
私は思わずルー様の顔を見上げる。
え、ちょっと待って。
確かレディバードの中では私の名付けの物語もあったじゃないの!
何か雑。ぞんざい。そりゃ確かに名前はアキだったけれど。
まああのお話の中のルー様はもう大人だった。
大人と子供の違いなのか?いや、違うだろ。
『オレにとっては姫のようなものだ、お前は。
だから亜姫。アキと呼ぼう』
ってあれはどこへ行ったのーーーーーーー!
でもちょっと待てよ。
レディバードの中では、ルー様と最後まで一緒にいたのはアキだけだった。だからこそ扱いも丁寧だったのかもしれない。
だとしたら、物語は既に変わり始めているのかもしれない。
フェル様の未来も変わって、ひょっとすると名付けに二晩も三晩もかかるのかもしれない。
………それほど大事な存在になって、フェル様は穏やかに年を取っていくのかもしれない。
アキはもうルー様の姫ではない未来が、私がアキになった事で始まったのかもしれない。
しれないしれない、ばかりで話は進まない。
先ずは、この世界がどこなのか。
ゲームではなさそう、ではどの物語なのか、そしてどんな未来が描かれる可能性があるのか。
ルー様が今どこに住んでいるのか、そこから確かめなければ。
「参りましょう、貴方が住まうその場所へ」
私はきりっと前方を見つめた。




