Episode262-1 懇々先生からのご教授
あの緻密スケジュール管理表の通りに本日の特訓メニューを終えて帰宅後、喉がやたらと乾くのでキッチンへミネラルウォーターを頂きにヘロヘロになりながら向かっていたところ、私はその途中で思いもよらぬ……いや、予測はできたことだ。来ても全く不思議ではない人物と廊下で遭遇した。
「あら、春日井さまじゃないですか。こんにちは」
「え、ゆ……ね……待ってこれどっちで呼べばいい?」
「まだ猫宮でお願いします」
「こんにちは、猫宮さん。というかここでそんな格好で何してるの?」
若干戸惑っている様子の春日井に首を傾げる。
ん? 緋凰、私のこと春日井に話してないの?
ちなみに春日井の言う今の私の格好とは、夏に自宅で過ごすコーデらしくTシャツ短パン姿の、『自堕落! でもこれが楽なんです!』コーデ(当然の如くサングラスは装備中)。
まあ明らかにパッと見、わざわざ外から遊びに来ているような格好ではないな。
「お聞きになっていませんか? 私いま緋凰さまのお宅で、夏の緋凰式運動能力向上大合宿中なんです!」
「何て?」
「いえ、ですから緋凰式運動能力こ…」
「いや合宿って言ったよね? もしかして宿泊してるの?」
「はい」
「いつから?」
「は、八月入って、すぐですけど……?」
私の返答が少々まごついたのは、相手のお顔が真顔になりかけだからである。
そして答えを聞いた春日井の顔が完全に真顔になった。
「……三週間も陽翔の家で?」
「きゃ、客間でお世話になっております」
「当たりま……いや、それも違う。どういうこと? 陽翔と婚約するつもりなの?」
「はい!?」
何で!? どうしてそうなる!?
「何言ってるんですか! 違います違います! お互いそんな気は全く微塵も欠片もゴマ粒ほどもないことだけは、お口を大にして言えます!!」
「そんな気はなくても外から見…………どうしてそんなことになって…」
「夕紀? そんなところでどう、した」
私達の騒いでいる声が聞こえたのか、春日井の到着を知らされたものの来ないから見に来たのか。
どっちかは知らないが、緋凰が二階の階段手すりから見下ろして呼び掛けたのが途中詰まったのは、今度は真顔の春日井がそちらを向いたからで。
「陽翔、僕これ聞いてない」
『これ』と言うのが私の存在なのか、私が宿泊していることなのか。
突き詰めれば全部私ということになるが、そんな細かいことは危機管理能力がビンビンに働いている今、口にすることはできなかった。けれど黙っていたところで喉の渇きは潤せない。
「あの、すみません。私はちょっとミネラルウォーターを頂きに離脱s」
「陽翔の部屋に持ってきてもらうようにするから、このまま一緒に行こうか。陽翔、一緒でいいよね?」
「……あ、ああ」
私と緋凰の中ではもう慣れたことになっていて、第三者の目から見てこの状態がどういう風に見えてしまうのかを春日井によって、懇々懇々懇々懇々と思い出させられる羽目になった。
「――――つまり、紅霧学院に合格したいから陽翔に特訓を依頼して? 陽翔は夏休みで猫宮さんの基礎を固めるために徹底的にしようとして、泊まり込みになって? それで三週間と少し、と言うのが現状ってことで合ってるかな?」
「……合っています……」
「……違いねぇ」
緋凰の私室に入った途端、キラキラスマイルで事の次第を問うてきた春日井に対し、二人で自然と正座してボソボソと説明したらかなり要約されて返ってきた確認内容を聞いて、間違いないと揃って頷く。
はあと大きな溜息を吐かれ、ビクリとする正座二名。
「色々と言いたいことは山ほどあるんだけど……まず猫宮さん。よくご家族が許したね?」
「あ、それに関してはちゃんと初日にお目付け役がおりまして、お許しをもらっています。あ、いえ奏多お兄様が一日だけ一緒におりました」
「え? か……一緒だったの?」
「はい」
つい兄と言いそうになって奏多お兄様と言い直したが、お兄様が宿泊許可のお目付け役だったと聞いて、余計に春日井は混乱したようだ。「あの人、許可したんだ……。ちょっと何を考えてるのかよく分からないな……」と呟いている。
それは私も思いました。ベッドに潜り込んだりそこにダイブすることや、私が恋愛経験値を稼いだりするのはダメなのに、親のいない異性のお家に長期宿泊はオッケーだったの、お兄様にとってのダメの基準がさっぱりです。私にとっては都合が良かったけど。
「私が思うに、お受験だから大目に見られたのではないかと。奏多お兄様も今年の夏は色々とお忙しいですし、私の運動能力を短期間で何とか合格レベルまで引き上げることができるの、身近な人間では緋凰さまくらいしかいらっしゃらないじゃないですか。だからだと思います」
「猫宮さん、そんなに紅霧学院に行きたいの? 聖天付属だったら銀霜学院の方が確実だと思うけど」
「貴方でそれを言われるの何人目になるでしょうか? 最早耳タコです。私にはちゃんと私なりの理由があって、紅霧学院での受験を希望しています。運動能力がアレだからじゃあ銀霜にしようだなんて、そんないい加減な決め方はしません」
そこはハッキリとした口調で告げると、ハッとした顔をする。
「あ、いやそういう意味じゃ」
「解っています。皆さんは事実を口にされているだけです。ただ……まぁ、そうですね。私も初め特訓するにあたっては、自宅からこちらへ通うという形で提案させて頂いたのですが、緋凰さまが」
皆まで言わず隣に視線を向けると、気付いた緋凰が言を継いだ。
「通いってなると、全部が中途半端になんだろ。俺はやるからには徹底的にがモットーだ」
「いつからそれがモットーに」
「見ろ夕紀。これが俺の立てた、亀子の陸上基礎固めスケジュール計画表だ」
毎日確認している例の緋凰お手製緻密計画表を懐から取り出し、春日井へと手渡す緋凰。
もしかしなくてもコイツ、あれ毎日持ち歩いていたのか。初めて知った。私なんてずっと部屋におきっぱで、確認なんて朝だけしかしてない。
だってあんなのをずっと見てたら頭が痛くなる。それを実行する人間である私は特に。
そしてさすがお兄様をしても「すごいね……」の一言しか出てこなかった計画表。
春日井も「すごいね……」としか言葉が出てきていない。




