Episode184-2 尼海堂 忍の正体と、“誰か”の記憶
六月に入って梅雨を迎えたとある休日、自室の窓から曇天より降る雨模様を見つめて、窓枠に両腕を凭れかけさせてボーッとしていた。
色々考えたり、心配事があって精神的負担がかかった反動が今きている気がする。……上手くいったり、いかなかったり。
今までは何とかなってきたけれど、私がそこにいないどころか様子を知ることもできなくなる中等部。そしていよいよヒロインが登場する、乙女ゲー舞台となる高等部。
小学生の頃からあんなことがあると、より不安さが増す。お兄様が学院の内部改革に努められているとは言え。幾つか変わったことがあるとは言え、それを掻い潜って何かが起きてしまうような。
『……何故だか予感がするよ。君たちのランデブーには受難の相が出ていそうだ』
「予感、かぁ……」
土門少年から言われたそれが、ふとした瞬間に浮かび上がる。
何でだろう? 出会っていないからこその不安、なんだろうか?
麗花と同じように、私だって本来好きになる筈の白鴎を好きになってはいない。
私は裏エースくんが好き。
一緒にいたい。いつまでも笑い合っていたい。
そう想う気持ちは本物なのに。
「……好き」
ポツリと、呟きが落ちる。
気がついた。誰も聞いていない一人の時だと、こうしてすんなりと想いのままに発せられる。私がそれを口にできないのは本人と、誰か人がいる時だけ。
言葉にできないから態度で伝えている。どうして言葉にできないのか。伝えたいのに。言いたいのに。
――――貴方のことが好きなのに
分かっていると言ってくれる。態度で伝わっているから大丈夫だと言ってくれる。
言ってくれるから安心する。私も、貴方に不安なんて感じさせたくない。
最初に口を滑らしたようなあんな感じじゃなくて、面と向かってただ一言。「好きです」、と。
――――けれどどこか知らないところで囁く声が、『絶対に駄目だ』と告げてくる。
どうして。何で。よりによって“それ”を抑え込まなければいけないの?
私は感情のない人形なんかじゃない。本人に面と向かって伝えなかったから、言わなかったから断罪された。
なら伝えなくては。言葉にして、想いを間違いなく届けなければいけないのに。
曇天から雨粒がシトシトと落ちてくる。
雨は雲の中の氷の粒が大きくなって重たくなり、その氷の粒が落ちてくる際に溶けて雨へと姿を変えて、地上に落下するのだと聞いた。
一体どこで聞いた話だったか、恐らく前世で見聞きした情報が残っていたのだと思う。勉学の一環とかではなくて、違うところで人から教えてもらった話。だって、何となくだけど憶えている。
話の延長で、『それはまるで我慢して我慢して、結局抑えきれなくて溢れ出す涙のよう』だと。誰かのその感想が心に残っているから。
前世。そう言えば、どうして“私”はかつて二十三歳までしか生きられなかったのだろう? どうして死んだのか、不思議とその記憶がない。
乙女ゲームをしていたこと。優等生。不良の友人。短い間やり取りをしていた文通。今と同じく自分は細身であったこと。
そんなことを断片的に覚えているが、電車の件や料理をしたことの有無など、生活面で妙にあやふやになっている。
私はかつて、“誰”だったのか――……?
『――――――とがある。――――な話。聞いてほしいんだ、――に』
「……っ」
ポロリと、眦から涙が零れた。
何かがブワリと心の奥底から溢れてきて、耐えきれない程の感情が渦巻いて、息をするのも苦しい。
――好き。大好き
――いやだ。連れて行かないで。どうして
――――手が、届かない
これは一体、“誰の”感情なのか。
曇天から降る雨のように、流れる落ちる涙が頬を濡らしていく。
『……だからさ、何かあるんならちゃんと俺に言えよ。一人で悩んでお守りに頼るんじゃなくて』
分からないの。どうして不安になるのか。
乙女ゲームのようにはならない。私は貴方が好きだから。それなのにどうして?
彼に突き放された去年と同じ時期だから、麗花のことと重なって不安定になっているのか。
あの時の気持ちはどこに行った。
絶対に諦めないという、強い気持ち。
泣きたくない。泣かないって約束した。
大きくなんてなりたくない。ずっと、ずっとこのままでいたい。
卒業したくない。離れたくない。けど。
――太刀川くんとずっと、ずっと一緒に笑い合えますように
神様にお願いしたのは、そのずっとは、“今だけ”の願いではないから。きっと同じことを願った、彼も。
出会わなければいい。銀霜学院にさえ行かなければ、乙女ゲームのシナリオは破綻する。大丈夫。絶対に大丈夫!
逸らされることなく真っ直ぐと貫いてくる冷たい瞳が過るも、強く首を振って振り払う。
「私は」
震える唇から落ちたものは、まるで目の前で降り続ける雨のよう。
「『私はもう二度と、貴方に囚われない』」
心の奥で重なり合った言葉は一体、“誰の”言葉だったのか――……。




