Episode49.5 side とある忍の語り⑧-2 忍は逃げられない
不味い。相当不味いことがこれから起こる。
やっぱり来なきゃよかった。
ヒヤッとしてこの場からの脱出経路を確認していると、グッと腕の袖口を薔之院さまに掴まれた。
「!?」
なに。え、何!?
まさか逃げ出そうとしたのバレたのか!? ウソだろ!?
「エスコートは最後までするものですわ」
バレてる!!!
愕然と掴まれた袖口を見つめていたら、春日井くんの柔らかくも一線引いたような声が室内に渡る。
「僕は許したことなんて一度もないよ。有栖川さんが許可なく勝手に座っていただけだ。違う? だったら今まで一度でも僕の口から座っていいよって言ったこと、ある?」
「それは……、でも!」
「それどころか僕は何度も遠慮してほしいって、お願いしたよね? 有栖川さんは聞いてくれなかったけど。今まで事を荒立てたくなくて曖昧な言い方をしていた僕が悪かったんだって、よく思い知ったよ」
今までにない強い否定の言葉に、有栖川の顔色が真っ青だ。柔らかい微笑みを浮かべていた春日井くんが、ニコリと笑う。
「ねぇ。僕ちゃんと朝、教室で有栖川さんに言ったよね? もう話し掛けないでって」
思わず体が硬直した。
あの春日井くんが、そんなことを言ったのか。
けど、だとしたら朝の時点で騒ぎになる筈……そうか。親交行事の騒ぎの内情を知っているクラスメートが、率先して口外しないようにさせたのか。
春日井くんの怒りの理由はあの騒ぎに関わることであり、芋づる式に話さなければならなく、緘口令が発せられているから口を閉ざすしかない。
あの時の春日井くんの険しい表情と様子を見ていれば、美少女のことが原因なのは間違いない。
ただでさえ学院生にとってファヴォリは憧れと同時に逆らえない特別な存在なのに、更に特別な四家の御曹司……しかもその中で一番女子に優しい春日井くんからの、はっきりとした関係断絶宣言。
自業自得。己の身から出た錆。因果応報。
頭の中に浮かぶ言葉はどれも憐れむようなものではなく、当然の結果だと納得している。それほどのことを有栖川はしていた。
自分は同情など微塵も持てなかったが、何人かの生徒は違うようで、憐れむような眼差しを有栖川に向けている。
「夕紀がここまではっきり言うって、お前本当最悪だな」
静かな室内で、緋凰くんの険のある声がよく聞こえた。
「何度も何度も同じことばっか言わせてんじゃねぇよ。俺もだけど、夕紀はずっと迷惑してたし我慢してた。二度と夕紀に話し掛けてくるな」
強い口調で緋凰くんからも突き放されてふらついた有栖川が、何故か助けを求めるような視線を遠縁の二人へと向ける。
彼等は相変わらずセットで長ソファへ仲良く並んで座っており、この時ばかりは二人とも有栖川を見ていた。
「し、詩月くん。晃星くん!」
呼んだ瞬間、思いっきり秋苑寺くんが顔をしかめた。
「うっわ。何かいきなりこっち見だしたし名前呼んできたんだけど。最悪」
「な、何で。助けて下さいませ!」
「はぁー? 何で俺らがお前助けなきゃなんないの? あーやだやだ、これだから面の皮が厚いヤツ嫌いなんだよね~。本当無理」
はぁーあと大きな溜息を吐く秋苑寺くんにカッと頬を赤く染めるも、その有栖川の様子を見た白鴎くんがばっさりと切り捨てる。
「春日井からはっきり言われても反省しないのか。自分の行動が誰かに迷惑をかけていると、なぜ思わない。二度同じことを言うことほど無駄なことはないから、よく聞け。白鴎と秋苑寺は、今後有栖川を認めない。助けなど求められる筋合いはない」
「そんなっ……」
ダメだ。コイツ絶対理解してない。
周囲のプティは今の発言に、皆固まって動けないというのに。
それぐらいの発言を白鴎くんがしたというのに。
固まっていないのは発言した本人とその隣、緋凰くんと春日井くん、そして自分の隣くらいなものだ。
白鴎くんと秋苑寺くんに自分が助けてもらえないと勘違いした有栖川が、それでもめげずに彼等に向かって言い返した。
「どうして助けて下さいませんの!? 私たち、親戚でしょうっ!?」
言い返した時点で、生徒の何人かがサロンの入り口扉へと顔を向けるのを確認する。
多分帰りたいんだろうな。分かる。
自分は強制召集かけられた時点で帰りたかった。
「あー言った。もう本当バカ。最悪。たった今関係ないって言ったことも解ってないじゃん。何で俺じゃなくて詩月がわざわざ言ったと思ってんの? お前、とんでもないことしてくれた自覚ないの?」
「何の、こと……っ!? まさか、あの子のことを言っているの!? 百合宮さまが付き添って……うそよ! あの子が言ったことを信じているの!? 春日井さまに付きまとっているから止めさせようとしただけだわ! 聖天学院より格下の学校の人間ですのよ!?」
ビリッと、静電気が身体中を走り抜けた。
そんな感覚がした。
冷めた表情の秋苑寺くんの最後に言われた言葉に思い当たった有栖川が、信じられないと泡を食ったように叫び出した中で。
百合宮先輩からあれだけ言われても、全然反省してないなと改めて呆れかえっていた中で。
掴まれている袖口から細かく振動が伝わってくる。
そろりと視線を動かして、掴まれている状態の袖口は、今や握り締められているという状態へと変化していることに気づく。
「格下?」
他に聞こえないくらいの小さな囁きだった。
けど、込められた声に滲んだ圧は、決して小さいものではなかった。
「僕に付きまとっているのは、有栖川さんだろ」
緩やかな微笑みを消した春日井くんから冷たく吐き出されたそれは、有栖川の心臓を貫いたようだった。
「え……」
「いい加減にしてくれないかな。彼女とは有栖川さんの誕生日パーティで会ったあの日限りで、それ以降も交流なんてなかったんだ。それなのにどうして、僕に付きまとっているって言える? そもそも僕の交友関係に口を出す権利はないよ。僕と有栖川さんは無関係なんだから」
「む、無関係……?」
「無関係だよ。あぁ、まぁ同じクラスの生徒くらいかな。でもそれも今後話すことはないから、関係ないも同然だけど」
好きな人から無関係と言われることほど、打ちのめされるものはないのだろう。
顔色を蒼白にしてペタンと床に崩れ落ちた有栖川に、手を差し伸べる者はいない。
フッと袖口が軽くなったことに気づいて見れば、薔之院さまがソファから立ち上がっていた。
まさか、手を差し伸べるのだろうか?
あの時一度見逃したように?
四家の御曹司、それも親戚であった二家からは家ごと切り捨てられたのに?
『私は止められるのなら止めるべきだと思いますわ。最悪の事態になる前に』
あの時とは状況が違う。
それが分からない彼女じゃない筈なのに!
「大丈夫ですわ」
見上げると、自分へと顔を向けた薔之院さまが苦笑していて。
「だから、表情が騒がしいのですわ」
そう言って、迷うことなくゆっくりと有栖川へと向けて歩いていく、その後ろ姿に。
まったく状況が違うのにどうしてか、スカートを握りしめて泣くのを耐えていた姿と重なって。
こんな時なのに、あぁ、あの子は消えていなかったんだと、そう思った。




