彼はうどん帝国に行った
裕也はうどん帝国の手先になってしまった。
うどん。あのうどんだ。
奈良時代に渡来した、小麦粉の皮を餡で包んで煮た「こんとん」という唐の菓子が名前の由来のうどんだ(諸説あり)。
冷たくても温かくても、てんぷら、とろろなどと組み合わせても美味しい、あのうどんだ。
ちなみに私のおすすめは餅を入れる力うどんである。
私と裕也は幼いころから常にそばにいた。高校生の時にどちらかが告白、という事ではなく私たちは自然と付き合うようになった。そんな状態が当たり前だったからか、社会人となりあまり連絡は取れていなかった。裕也がそば共和国を裏切ってうどん帝国に亡命したと聞いた時は、そのショックは計り知れなかった。私がせっせとクライアントと上司に頭を下げているうちに、彼はうどん帝国の手先になってしまっていただなんて。考えると涙が零れそうになるが、きっと昼食に食べたそばに入れた七味唐辛子のせいなのだと言い聞かせる。
そば粉のようにふわふわとした気持ちで裕也の家に行くと、いつも私にそばを振る舞ってくれた彼の両親は憤慨していた。
「あの野郎、珠美ちゃんを捨ててうどんの手先になりやがったのか」
「お父さん。きっとあの子にも訳があるはずなのよ。蕎麦アレルギーになったとか」
「珠美ちゃんを捨てる」というその言葉は蕎麦切り包丁で蕎麦の生地を裁断していくように、私の心を裂いた。
彼のお父さんは、お母さんからのフォローにも耳を貸さず、一人まくし立てる。
「大体、あそこはカルト集団の国だろう。そば共和国を転覆させる計画を立てているという噂があるんだぞ」
「そうは言っても、全員が全員そういうわけではないと思うわ」
「あの野郎、俺たちだけじゃなく珠美ちゃんにまで黙ってうどんなんかに寝返ったんだぞ。今度見かけたら、一発ぶん殴ってやる」
お父さんは右の拳を思い切り左の手のひらに叩きつけた。ぺちん、というそば生地を叩くような音が辺りに響く。本気で私のために怒っていることが伝わってきて、だからこそ私はいたたまれなくなった。
気落ちする彼の両親と別れ、空を見上げる。クリスマスが終わり、人々はみな年越しを楽しみにしている。過ぎ去る年と、これから来る年。私は今年も変わらずに彼と年越しをしようと思っていた。しかし、うどん帝国に入ってしまった彼には、私の願いは届かない。
数日前に降った雪が、人々に踏まれ汚れている。雪が降った時は、皆がこぞって雪の話をしていたのに、地面に落ちてしまえば、それっきり。誰も地面に溶けた雪の話などはしない。私は、それがなぜだか悲しくて、俯いた。
彼に会ったのはその次の日だった。休日である今日は外出する予定があったものの、昨日夜遅くまで携帯で調べ物をしていたのでメイクでもクマが隠せず、憂鬱な気分だった。ハリの無い肌に、きっと夜更かしのせいだけではない、腫れた両目。充電の少ないスマートフォン、同じことを何回も調べていた検索履歴。
「うどん帝国 滅ぼす」「うどん帝国 潰す」「うどん帝国 人口」「うどん帝国 抜ける」。
ちなみに人口は今や三十万人らしい。今やうどん帝国の住人は無視できないほどにふくれあがっている。お父さんの言う通り、私たちのそば共和国が転覆する未来も来るのかもしれない。
私はそばが好きだ。この国では一日に一回そばを食べなくてはならないという法律が制定されている。しかし、大多数の国民はそんな法律があってもなくてもそばを食べ続ける。みな、そばの事を愛してやまないのだ。
裕也もそばが好きだった。彼が特に好きだったのは、鴨そばだった。ざるそばが好きな私とお互いのそばをちょっとづつ分け合い、食べていた事を思い出す。
今になって気付くが、あれこそが私の幸せだったのだ。
そんなことを考え、視界がぼやけていた時だった。
「珠美……? 珠美だよな!」
いきなり、私は誰かに肩を掴まれた。痴漢やそば泥棒に遭遇したという可能性を考え、一瞬息が止まる。
しかし、私の眼前にいたのは痴漢でもそば泥棒でもなく、彼――安藤裕也だった。別の衝撃で、息が止まる。麺棒で叩かれた生地のように、私の心は大きく衝撃を受けた。
「俺だよ。裕也だよ。驚かせて悪かったな」
「……なんのつもり」
「やだなあ。たまたま彼女を見かけたから声を掛けただけだよ。そんな怖い顔すんなって」
私の前でにこやかに笑う彼が、うどん帝国に入ったなんて信じられない。彼の人懐っこい表情を見てそう考えた私だったが、彼の持っているバッグが目に入り、彼の持っているそれを震えながら指さす。
「裕也……それ、何?」
「あーこれか? これはうどんで作られたカバンだよ。強度もあるからいろいろな物が入るし、いざとなったらこれを食べれば空腹を凌げる。すげえだろ? 蕎麦なんかじゃできない芸当だ。他にもあるぜ。うどんの財布、うどんのスマホケース、うどんを炙って煙を出す煙草だってあるんだ。うどんはすげえよ。財布はお札を入れたら湿っちゃうけどな」
ああ。
間違いない。彼はうどん帝国に魂を売ってしまったんだ。
「なんで」
「え?」
「なんでよ⁉」
私は誇らしげにうどんについて語る彼を、うどんアイテムを自慢し、よく見れば服までうどんになっている彼を、見ていられなかった。しゃがみ込んで、下を向く。重さに負けて瞳から流れた粒が、ぽつりと湿ったアスファルトに落ちる。
「ねえ、あの頃の裕也は戻ってこないの? 年末になると私たち、蕎麦を食べて産地をあてるゲームしてたじゃない。あなたはいつも都道府県、市町村、番地、苗字まで当てていたよね。これは多分三番町の小久保さんが作った蕎麦だ、って。そんな事表記されてないから私には分からなかったけど。どうしてそんなに蕎麦好きだった裕也がうどん帝国に入ったの……?」
胸の奥から来る苦しさのせい、嗚咽のせいで今自分が何を喋っているのか分からなくなる。ただ私の好きだった裕也を返してほしい。それだけを願って言葉を絞り出した。
「珠美、俺が蕎麦に見切りを付けたのはお前がいたからだ」
「……え?」
裕也が私と同じ目線にまでしゃがむ。ただでさえ良くなかった今日のメイクはもうぐちゃぐちゃなのに。メイクだけじゃない、私の心だってぐちゃぐちゃなのに、裕也は、笑う。
「俺はうどん帝国に入って知ったんだ。この世界は、年末に年越しそばを食べなければ来年が来ないんだよ」
「どういうこと……?」
事態が呑み込めない私は、ただ彼の声を聴いているしかない。
私の頭を優しく撫でながら、裕也は囁く。
「俺たちは蕎麦を食べることで、来年という時間の流れに乗ることができるんだ。逆に、蕎麦を食べなければ俺たちはこのまま、時が進まず、いつまでも幸せにやっていけるんだ」
裕也が私の手を取る。彼の手は暖かく、手打ちうどんの匂いがした。
「俺はやってみせる。蕎麦を食べることを法律で義務付けられている国民を、老化から救ってやるんだ。いつまでも、この年のままで、幸せにさせてあげたいんだ。珠美。お前も力を貸してくれ。一緒に蕎麦畑を焼き払おう」
裕也は立ち上がり、私の前に手を差し出した。
私は正直、今の話を完全に鵜呑みにしたわけではない。
しかし彼の話によると、蕎麦を食べなければ年を越せない。いつまでも今いる年に留まり続ける。そばさえ食べなければ、不老不死というわけだ。
彼と、裕也といつまでも居れるのならば私の答えは決まっていた。
私は、彼の手を取った。
「ようこそ、うどん帝国へ」
彼はにこやかにそう告げる。
二人より沿った私たちの頭上には、細切れになったうどんが綺麗に降り積もっていった。