第3話:常本肇のNEC入社とソフィアと結婚
その後、1976年には、ワンボード・マイコン・キットのTK-80、1979年には初期のパソコンPC-8001を発売。そのため、常本肇は、コンピューターオタクになり日本最大の電気街、秋葉原に出入りし始めた。しかし、当時は、鉱石ラジオ程度しかなかった。そこで、目に飛び込んできたのが、コンポ・ステレオだった。
その当時も試聴室で一流のアンプ、ターンテーブルとヨーロッパの魅惑のオーケストラ、サウンド・トラック、アメリカン・ポップス、プレスリー、ジャズを聞いて、通うようになってしまった。そのうち、大学の勉強と秋葉原通いで、アルバイトもできないほど、青春を謳歌していた。
しかし、父の一郎は、息子の肇に期待して、せっせと仕送りをしていた。そして1978年、肇は、大型コンピューターを作れる会社として日本電気を選んで入社試験を受け、採用された。実は、日本電気本社は、アパートから自転車で10分前後でいけるので、大学の夏休みに2回も見学に行った。
日本電気に入社後は、独身寮に入り、夜遅くまで、仕事をする、毎日で、たまに、0時を過ぎるほど多くの残業をしたので、1年で200万円も貯まった。そして仕事は、大型コンピューターの勉強した後、コンピュータの小型化の研究開発チームに配属されて実験の毎日であった。
そのうち1978年が終わり1979年を迎えた。その頃、気分転換のために、会社の若手が仕事が早く終わると洋楽を聴くために集まり東京六本木のケントスへ行った。そこでは、イギリスのビートルズ、アニマルズ、モンキーズ、トムジョーンズ、カスケーズ、アメリカのジョン・デンバーを聞いた。
最初、常本肇は、誘われてケントスに行ったが、その魅惑的な洋楽の世界にどっぷり浸かっていった。そして月に1回は、時間を作って早めに仕事を切り上げ、仲間達6人と着飾って出かけて行った。そのうちに黒人達が歌う、モータウンサウンドを聞き、その魔力にすっかり魅了されてしまった。
テンプテーションズ「マイ・ガール」、ジャクソン・ファイブ「アイル・ビー・ゼアー」スティービー・ワンダー「スーパーステイション・迷信」にまさに首ったけになった。1979年4月、たまたまケントスに来ていたハーフの様な容姿の美人ソフィアとで会い恋に落ちるのに、それ程の時間が、かからなかった。
彼女に電話番号を教えて、休みの日は長電話をして、愛を確かめ合った。一番意気投合したのは、モータウン・サウンドだった。スタイリスティックス「キャント・ギブ・ユー・エニシング・愛が、すべて」が、2人とも一番好きな曲だった。
そして、その曲のタイトル「愛さずにはいられない」のように、一緒に入らずには、いられなくなり、1979年9月に、彼女に結婚を申し込んだ。するとソフィアは、OKと言い抱き付いてキスして愛を確かめ合った。その年のクリスマス、ソフィアの家を訪問し、両親に2人の結婚を許可してもらおうと考えた。
12月24日、ソフィアの住む、本牧の自宅を訪ねた。1978年の12月24日、橫浜の君島家に行くと、お母さんが、アメリカ人で、お父さんが日本人のハーフだった。そして、本牧にあった米軍施設の劇場で、お父さん君島健二さんが、コックをしていて、米軍住宅に住んでいた。
お母さん、オリビア・カーマイケルと仲良くなったらしい。そしてソフィアの両親が離婚し、困っている時、君島健二さんが、ソフィアにプロポーズして結婚したと教えてくれた。その時、常本肇が、自己紹介をすると、ソフィアのお父さんが話は聞いてるよと笑顔で言い、お母さんのオリビアも握手してくれ実に好意的だった。
妹のジャネットも宜しくねと挨拶してくれた。日本電気の研究所でコンピュータの研究してるのかと言い、これからの花形産業だし、将来有望だねと言った。その時、父、君島健二さんが、実は、彼女は私の娘でなく、別れた米兵の娘だよと冷静に言った。それを聞いて常本肇が、誰が両親でも関係ありません。
ただ、僕は、ソフィア、彼女自身が好きなだけですと言い返した。それを聞いて、母のオリビアが、泣きながら、肇に抱き付いてきて、本当にうれしいわと言ってハグしてくれた。父の君島健二さんは、よかった、ソフィアを幸せにしてやってくれと、冷静に言った目には、涙が溜まってこぼれそうになっていた。