序章
「お前にはついていけない!」
トランペットを持った五十代初老の男性が椅子から弾き上がるように立つ 。
「は?」
思わず、聞き返すと周りの人もこぞって席を立つ。
「そうだ……! お前……何様のつもりだよっ!」
「私たちは貴方の奴隷じゃないのよ!」
「無茶苦茶ばかり言いおって!」
石を投げ入れた湖のように波紋となって 、オーケストラ全体に広がっていく。
横暴、独裁者、独りよがり……年端もいかない自分に対し 、自分の何倍も生きている人々の口から言葉を次々と投げつけられる。
そして、自分が最も敬愛し尊敬するヴァイオリニストの年老いた男性が口をゆっくり開く。
「ゲットアウト! 奏司……君には期待をしていたのだが、残念だよ」
俺は……全てを失った。
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汗だくになった寝巻きや布団を引っ剥がし、飛び起きる。
「また、あの夢かよ……」
両手で頭を抱え、ガシガシと掻きむしる。
一年前のとある出来事を期に 俺の人生はひっくり返った。
時刻は朝五時。昔からの日課は未だに消えることはないようで、ジャージに着替え住宅街を必死に走る。
生まれ故郷の珠神戸は、一年前までどっぷりと浸かっていた土地とは違い 、自然が多く、朝が早いお年寄りがちらほらと歩いていた。先程見た夢を忘れるように……追いかけてくる悪夢を振り払うように、自分の限界以上の速さで街を駆け抜ける。
「くそっ……」
一時間ほど走り、いつもインターバル休憩 をする丘の上にある自販機で炭酸飲料を購入する。
「んくっ……んくっくっ……ぷはっ!」
喉を通る炭酸がシュワシュワと音を立てる。
この瞬間があるから、走るという行為が今も好きなのだろう。
残りをダラダラと飲んでいると、弦と弓が擦れる音が聞こえてくる。
「ラ音……」
よく聞き慣れた耳に嫌という程、 染み付いているチューニング音が鼓膜を揺らす。
「四百四十二ヘルツ……どこからだ……?」
音の鳴り方や音域から、恐らくヴァイオリンだろう。辺りを見渡すではなく、音の方向を知るために、目をつぶり音に集中する。
「あっちか……?」
つぶっていた眼 を開けて音の鳴る方を見ると、もう一つ上の丘が見えた。
「あっちの木の下で弾いてるのか……?」
そしてチューニングが終わったのか音が消え、しばらくするとメロディが聞こえはじめる。
「パッヘルベルのカノン……」
呼ばれるようにヴァイオリンの鳴る方向に向かい歩を進めていく。
「……!」
丘の上にたどり着く。
桜の樹の下でヴァイオリンをかき鳴らして いたのは、珠のような黒髪 の女の子だった。
彼女は自分には一切気づいていないようで、メロディを続けて奏でる。
つい、その演奏に耳を傾けてしまう。
その曲は本来、三重奏と低音楽器を持って一つとなる楽曲だが、彼女は主旋律だけを拾っているようで、曲として成立していた。
『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』
正式名称のようにジーグに移るかというタイミングで、聞き惚れていた自分に彼女が声をかける 。
「あなた、指揮者?」
彼女が演奏を止めて、自分を見つめてくる。
「なんで……」
思わず聞き返そうとして、自分の手が指揮をとっていたことに気づく。
「あなた……もしかして……」
彼女が俺の名前を呼んだ。