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たぶん君のまうしろに

ジュケンセイ

作者: 黒い白クマ

 【イラッシャイマセ】


 五月も終わりに差し掛かった。そりゃあ、息を吸って吐いているだけで時間は過ぎるのだから、五月だっていつかは終わる。分かってはいるのだ。五月は終わるし、六月は来る。ただ実際に日付を見ると息がつまった。挙句、帰ってきた紙ペラの数字が出そろってしまって、冗談でもなんでもなくそろそろ溺れ死にそうだ。今年一度目の定期テストも無事、平均の周りをウロウロするに留まったらしい。たったの紙ペラ一枚で、ああこんなにも、息がしづらい。

 誰に咎められたわけでもない。むしろ、少し褒められもした。ただ保証のない「このまま頑張れば一月までには」というフレーズを浴びるほど聞いて気が滅入ったというだけの話だ。

「いや、一年間ずっとこのままは無理だろ。」

 喘ぐようにこぼして重いリュックを背負いなおす。冷静に考えて、一週間後のテストに備えて勉強するのとは全く話が違うだろう。何か月先の話だと思っているのだ。

 あぁ、得意教科なし、苦手教科なし、地頭なし、モチベーションなし。先週、帰宅後四時間は固かった学習時間は、ここ三日一時間机に向かえばいいほう。―そらみたことか、既に「このまま頑張れ」ていない。テストに追われなきゃ、なけなしの危機感は寝転がってポテチでも食っているらしい。どうせ家に帰ったってろくなことをしないのは分かっていた。だからこんな阿保みたいな大荷物を学校から振り回してきたのだ。来たのだが。見事に行きつけのカフェはどこも満席だった。

 どこでもいい。涼しい所があればいいのだが。きょろきょろと歩きながら家へ向かうが、毎日歩いている道にそうそう新しい店など出ないことは知っている。どうせ家の前にスーパーがあるから、最悪そこのフードコートでいいだろう。ついでに夕食をとってしまえ。

 まだ五月だというのにじわりと暑く、ついつい早足になったのが悪かった。間抜けな声を上げてふらついた瞬間、握っていたスマートフォンが吹っ飛んでいく。美しい放物線を描きやがりながら、ガキャリ。道脇の店のドアに当たって落ちた。まぁ、悪いことは続くものだ。仕方ない。声にもならない呻き声をあげながら、拾いにいく。店前に立って初めて、ここも喫茶店であることに気が付いた。見覚えのない店だ。ちょうどいいからここに入ってしまおうとスマートフォンをポケットに突っ込んで、ドアを押し開ける。

「おや、いらっしゃいませ。」

 顔を上げた男性以外、店内に客も店員もいない。日本人顔なのに薄桃色の髪をした、色白の美丈夫だった。まだ二十代半ば程に見える。眼鏡族という点では、私のお仲間だ。

「あの、中で勉強しても平気ですか。長居してしまうかもしれないのですが。」

 まぁ一人しかいないのだから、きっと彼がここのマスターだろう。店の奥に入りながら彼に声をかける。

「お気になさらず。お客さん自体珍しいですから。」

 人の良さそうな笑顔でマスターが返した。いや、それは店としてまずいのではないか。内心突っ込みながらマスターの前のカウンターに座り、隣の席にドサリとリュックを投げた。客がいないなら、まぁいいだろう。

「勉強するんでしたら、ブレンドコーヒーがおすすめですよ。一杯三百円、お代わり自由。」

「じゃあ、それで。」

 四時頃に店に入ったのだが、七時を回るまで店にいても本当に他に客が来なかった。結局私しか人が居なかったのが良かったのか、かかっていた曲が良かったのか、コーヒーが口に合ったのか分からないが、ともかく今までなかったほど集中できたことは確かだ。むしろ三百円しか払わなかったのが申し訳ないくらいに思う。

 それに集中が切れるたびに諮ったようにお代わりをくれる店はここしか知らない。これは毎日通うことになりそうだ、なんて思いながらドアを押し開けた。

「また、何時でもいらっしゃい。」

 微笑むマスターに会釈して、店を出る。外は相変わらず、じめじめと暑かった。


【トキハカネナリ】


 六月も半ばになり、暑さは否応なしにきつくなってきた。ポロシャツの許可が下りたとはいえ、やはり制服は暑い。夏用のスカートは風を通すが、紺色はじわりと熱を集めていくからたまったものではなかった。早く冷房に会いたい。足が駅前のカフェを通り過ぎて行くのも、もはや日課となった。

「いらっしゃい。」

「こんにちは。」

 軽く挨拶をしてからいつものようにカウンター席に座り込む。

「マスター、カフェモカ下さい。」

 何を飲んでも外れがないので、一杯目は甘いものを飲むようになった。部活が無くなり降下した運動量に反比例して、ストレスと体重はのさばっていくが、こうも疲れていると糖分をぶち込まないとやっていられない。

「そのあとブレンドですか?」

 無言で頷けば、マスターはいつも浮かべている笑みを深める。

「今日はいつもより元気がありませんね。」

 カフェモカを用意しながら呟かれた声に、ちょっと驚いて顔を上げた。

「あー分かります?昨日一昨日と、ちょっと風邪ひいちゃったんですよね。」

「おや。」

「思ったように時間が使えなくてちょっとへこんでいたところでして。」

 放課後にここで勉強するようになってから三週間ばかり経つが、時折こうやってマスターと話すこともある。何しろ人がいない上、彼は決まって私の集中が切れているかイライラしているかの時にしか話しかけてこない。まぁ、良い気分転換にもなるのだ。

「どうしてお金で人の時間は買えるし、自分の時間で自分のお金は買えるのに、自分のお金で自分の時間を買うことは出来ないんですかねぇ?」

 半ば愚痴のように訴えて、リュックから英語の教材を引っ張り出した私に、マスターは相変わらず笑顔のまま質問を投げる。

「というと?」

「ほら、私がお金を払ってこうやってマスターからカフェモカを買った時。」

 差し出されたカフェモカを目の前に持ち上げてみせる。

「私はマスターがカフェモカを作った時間、をマスターから買ったわけですよね。言い換えれば、マスターは四二〇円分の時間を私のために割いた。ま、材料費はもちろんあるんですけど。」

「なるほど、面白い理論ですね。」

「そして私がどこかでバイトをすれば、費やした時間は給料として返ってくる。」

 言葉を切って、持ち上げていたカフェモカを口元へ運んだ。うん、相変わらず美味しい。

「そして、お金を出しても時間は返ってこない。そういう事ですね。」

「そうです。時間からお金へは不可逆変化。だからお金を無駄にするよりも時間を無駄にする方が恐ろしい気がするんですよねぇ。」

 深いため息を落としてからカフェモカを飲み進める。まだ、教材を開く気にはならない。手元のカップの中身をただくるくるとかき混ぜていたら、笑い声が降ってきた。

「貴方、もしかして受験生ですか?」

「そうですよ、高校三年生。」

 大方時間への執着だとか、教材の山だとかで気がついたのだろう。そうとも、確かに去年は数日風邪を引いたとしてもこんなにポエミーなことは言い出さなかったに違いない。私は至って一般的且つ「真面目な」生徒だった。宿題と定期テスト対策以外に何をすることもなかったのだ。

「じゃあ今が大変な時期なのですね。」

「マスターまで学校の先生のようなことを言わないでください。」

 聞き飽きた言葉だ。ここを乗り切れば、とかなんとかとセットで、何度も。乗り切るも何も、あと半年と幾ばくか残っている。いや、最後まで入れれば、あと何か月。長い。そして、いやに短い。分かってはいるのだ。息を吸って吐いているだけで、時間は過ぎる。六月も折り返した。

「時間、売りましょうか。」

 ぼんやりと回っていた意味の無い思考の渦へ、ひょいと投げ込まれた台詞に一瞬固まった。

「はい?」

「少し値が張りますよ。」

 少しの間。何とか開いた口から飛び出したのは、ほとんど肯定に近い返事。

「いくらですか。」

 時間は売れないだろうとか、質の悪い冗談はよしてくださいとか、まぁ言うべき言葉はたくさんあった、が。正直、嘘でも欲しい。一時間に二千は出せる。

「一時間九百円。」

 ……いいところついてくる。微妙に安い。

「本当に買えるんですか。」

「もちろん。このお店の中でなら。」

「じゃあ……三時間。」

 ちらりと見た時計は午後四時を指していた。六限の授業が終わってから直接来た、いつも通りの時間。

「はい、二千七百円。後で飲み物と一緒にお会計で。」

 マスターはカフェモカのカップを持ち上げ、代わりにコーヒーを私の目の前に置いた。

「では、折角ですから無駄にせずに。」

 示された問題集を、慌てて開く。今思えば少々妙である。集中していたとはいえ、時計を見ることも、窓の外を見ることも思いつかなかった。

 かなりの時間が経ったあと―机の上には数頁ずつ解いては横へ除けた問題集が五冊ほど広がったころ。

「三時間、ご利用ありがとうございました。」

 はっと顔を上げたとき時計は、午後四時、を指していた。五杯目のコーヒーを差し出しながら、マスターは相変わらず穏やかな笑顔を浮かべている。

「なんか、すごく妙な気分になるので、もう買わなくて済むようにしますね。」

 神妙な面で呟けば、彼は珍しく声を上げて笑った。一杯のカフェモカと八杯のコーヒー、重いリュックに詰まっている六時間分埋まったテキストと、それから妙な気持ち。抱えて店を出た七時の道は、いつも通り多くの人が足早に行き交っている。

 それ以降、時間の買い物はしていない。

 

【ジンセイカクテイガチャ】


「受かるって決まっているなら、頑張れそうなんですけどね。」

 珍しく頼んだタルトをつつき回しながら、いつも通り生産性のない愚痴をマスターへ零した。

「そういうものですか。」

「そーいうものです。」

「じゃあ、願掛けします?」

 また、この人は妙なことをさらりと言う。

「願掛け、って。」

「神社のお守りだと思って下さい。行きませんでした?高校受験の時、お参り。」

 私中高一貫校なんですけど、と訂正しつつ、中学受験の記憶をなぞる。周りの人は何人か、いやほとんどがお守りを持っていた気がする。そういえば、姉の受験の時もお参りに出かけてくると言っていた。ただ自分の場合はというと、お守りもお参りも考えなかった。今も昔もこの先も、神社へお参りすることはないだろう。

「マスターあのね、私無神教なんですよ。」

「へぇ?」

 皿を拭いていた手を止めて、彼はカウンターに近づいてきた。真面目に聞いてくれるらしい。

「だって神様がいたとするでしょう。神頼みした時にね、成功したら、私が頑張ったからじゃなくて、神様のおかげで成功したことになると思いませんか。」

 当時も面白い奴、と不思議がられた話だ。成功するならなんだっていいだろう、皆、所謂「苦しい時の神頼み」、都合がいいと分かってやっているのにと。

「では、神様がいなかったとしたら?」

「いない神に縋ることになる。惨めで時間の無駄ですね。だから。」

 言葉を切って、パカリと大きく口を開ける。うん、タルトも美味しい。

「私、願掛けしたことないです。」

  なるほどと小さく呟いたマスターは、皿ふきに戻るのか流しの方へ向き直る。

「僕は、貴方の神になれるならこれほど嬉しいことはないんですけどね。」

 ぎょっとして顔を上げた。背中しか見えないが、どうせ何食わぬ顔をしているに違いない。奇妙なことをいうものだ、というかちょっと恥ずかしい台詞ともとれる。やはり彼は生粋の日本人ではないのかもしれない、なんて。

「いいじゃないですか、他人の力でも。」

「まぁ、今はそれでもいいと思える程度にはしんどいですよ。でもやっぱり、自分の力で受かりたいとも思います。」

 小さくため息をついてから、もう一口タルトを放り込んだ。

「大学確定ガチャとか引きたい気分。」

「まるでスマホゲームみたいなことを言いますね。」

 クスクスと笑うマスターにつられて、思わず笑い声をあげる。

「まぁ人生課金制はちょっと嫌ですけど。」

 皿が拭き終わったらしく、彼はそっと私の前から空のコップを持ち上げた。

「人生確定ガチャ?」

 恐ろしいことを言いながら彼が悪戯っ子のように笑う。ガチャで人生が確定するのはさすがに、いや、なんというかあんまりだな。

「人生は壮大過ぎません?まぁ大学もほら、私の志望校だけ詰め込んだガチャってことで。」

 コーヒーを差し出したマスターが、漏らした言葉に随分と楽しそうな顔をした。面白いものを聞いた、というように。奥へ引っ込んだと思ったら、何やら大きなものを抱えて戻ってくる。ガチャガチャだ。カプセルの詰まった、あのガチャガチャ。

「やりましょうよ、大学確定ガチャ。」

「なんで持っているんです、ガチャガチャなんて。」

 思わず呆れたように突っ込んだ。随分と楽しそうにマスターは私に紙とペンを差し出して、自分は中に入っていたカプセルを開けて並べていく。

「好きなところ書いてください。当たったのは絶対に受かります。」

「えぇ?マスター、本当に私の神になるつもりですか?」

「絶対に受かるところを書けばいいんですよ。保険をかけておくと思って。凡ミスしたり緊張したりで、受かりそうだった大学をうっかり落とすと、ショックが他のテストにも響くでしょう?」

 至極最もではある。今既に固い学校が受かれるという保証が出るなんて、精神的に随分と楽になるだろう。

「というか、本当に受かるんですか?」

「信じられないなら、僕の戯言だと思って付き合ってください。」

 時間を売るマスターだ、有り得る。なんとなく信じられると心の中で返事を返し、手元の紙に志望校を偏差値の低い順に書き付けていく。四枚のメモを、そっとマスターの方へ押しやった。強く行きたい大学がない私としては、皆第一志望のようなものだ。どれが当たっても別にいい。メモの入ったカプセルが四つ、ガチャガチャの中に放り込まれるのを、私はタルトを食べながら眺めていた。

「どうぞ。回してください。」

 言われるままにつまみをゆっくり回す。コロリと出てきたカプセルを開ければ、自分で書いた大学名が出てきた。あぁ、ここか。いや、本当に受かるかは分からないが。声に出して読み上げてから顔を上げると、すぐ目の前にマスターの顔があって思わず動きが止まった。

「失礼、脅かすつもりはありませんでした。」

 そのまま離れていくマスターの目を追いながら、場違いではあるが思わず尋ねる。

「マスター、カラコンですか?」

「いえ、生まれつきですよ。」

 生まれつき紫の目の人がいるかどうか。私は知らなかったので、黙ってタルトを口に運んだ。大学確定ガチャの結果が当たるかどうかが分かるのは、まだ大分先だ。本当か分からないけれど、少しだけ、少しだけ気持ちが楽になった。

 

【メンドウゴト】


 九月。気候がぐんと秋らしくなり、そして私の胃腸の痛みは悪化した。というのも先日の面談で、第一志望校に受かるには些か成績が足りないなどと仄めかされてしまった為である。受からないことについては、まぁどうでもいい。第一志望校と言っても一番偏差値が高いだけで思い入れは他の大学同様どこにもない。しかし困ったもので、学校的には惜しいから頑張って欲しい、らしい。また、「このまま頑張って」という、あれ。

 何を頑張っているのだっけ、私。というか、何へ向けて頑張っているのだっけ。ボーっと考えていれば、終着点は必ずひとつだ。よし、面倒だから死ぬか。

 いや、別に考えが飛躍したわけでもなんでもない。人類皆死ぬのだから、いつ死んだっていいと私は常々思っている。しかし今死ぬと妙な誤解を生みそうだし、死んだ後に迷惑がかかりそうで、こうしてのうのうと生きているわけだが。生きる面倒と、死ぬ面倒とを天秤に乗せた時、そろそろ生きる面倒の方に傾いてきたというだけの話だ。

「貴方が亡くなれば、僕が嘆き悲しみますよ。」

 こんなリアクションに困りそうな話をするつもりは無かったのだが、やはりテンションの低さが顔に現れたらしい。言葉巧みに聞き出され、このちょっとヤバいという自覚があり余るほどある死生観をマスターに漏らしてしまった。カウンセラーに向いているじゃないかなんて思った矢先に、この発言だ。

「はい?」

「学校に乗り込んで文句言いに行ってもいい。」

 表情は相変わらずのまま、マスターは言葉を重ねた。笑顔と言葉が合っていない。学校に乗り込むマスターって、この笑顔で?

「なんか似合わないですね。」

「僕、怒ると怖いですよ?」

「あぁ、それはなんか分かります。」

 どこまでが本気か分からないが、死なれたら困る程度の交流にはなったらしい。大切かつレアなお客様だからかもしれないが。

「それで、どっちが面倒ですか?」

 差し出されたコーヒーを飲みながら、私は小さく首を傾げた。どっちって、何と何の話だ。鞄から古典のワークを引っ張り出しながらマスターのほうを見れば、彼はいつも通り何食わぬ顔で皿を拭いている。

「えーっと、私が死んだ後マスターが暴れるのと、私がこのままのうのうと生きていくことと、どっちが面倒かってことですか?」

「そうです。」

 少し想像してみる。全く赤の他人に近い、同世代より少し年上の兄ちゃんが、学校に乗り込んで、うちのお客さんはお宅の方針が面倒になって死にました、どうしてくれるのですか、ってか。いや、面倒くさいな。あらぬ誤解しか生まれない。加えて、ここ数か月で感じる彼の性格からすると……

「何と言うか、もし死んでも魂が残るなら、マスターに捕まりそうですね。そして説教されそう。」

「おや、めずらしく非科学的な話を。」

「あるかないか証明されていないものを、端から否定したりしませんよ。」

 フンと鼻を鳴らせば、彼は楽しげに笑い声をあげる。なんで、ここで笑うのだ。やはり何を考えているのか分からないお人である。

「なるほど。」

 明らかに含みをもって返答されたので、少しムッとして顔を上げた。

「なんですか?」

「いや、確かにそうですね。捕まえられるなら、意地でも捕まえにいきます。」

 この人なら本当にやりそうだ。いや、まったくもって。

「面倒くさいなぁ。」

「じゃあ生きてくださいね。」

「なんか私、丸め込まれていませんか?」

 ようやく教材を開く気が起きた。筆箱からペンを並べていく私の手元を眺めながら、何が面白いのか、マスターがクスリと笑う。

「ええ、丸め込んでいます。」

 変わった人だ。そして私も大概、変わっている。

「じゃあ、マスターに会える限り生きます。あ、でも私が店に毎日来るとは限らないんだから、いつ死んだか分からなくないですか?」

「それもそうですね。じゃあ、連絡先教えてください。」

 危うくコーヒーを吹き出すところだった。何を言い出すのだ、この美丈夫。

「……えマジで?ほん、え?」

 礼儀も減ったくれもなくこぼした言葉に、彼は目を細める。

「おや、珍しく年相応の言葉遣いを。」

「いやバカにしないで下さい、ってそうじゃなくて、ええと、なんですかマスター、新手のナンパですか。」

「そう思っていただいても結構です。」

 顔がいいと何をしても許されるのだろうか。うん、きっと顔がいいと人からの信頼度も上がるに違いない。科学的な根拠があるかは知らないが。

「あー……まぁいいや、悪用しないでくださいね。」

 本当に変わった人だ。そして私も大概、変わっている。結局手渡されたメールアドレスを筆箱に突っ込んで、私は古典のワークに向き合う。せーしーすーするすれせよ。やれこんなことの後でも、なぜかここでは集中するのに困らないから不思議なものである。


 


【ウンメイキョウドウタイ】


 十一月。諦めの月、なんて言っていた学友もいた。涼しいなんていう時期はものすごい早さで走り去り、連日凍えるくらいの寒さが続く。今日のように雨が降ると、一際体が冷えた。

「もう半年くらいになりますね、初めてここに来てから。」

 半年間客は私だけだ。そして店は潰れていない。ここが違うことくらい理解しているけれど、特に気にならなかった。私にとっては、ただ集中出来ればそれでいいのだから。

「ええ、貴方も随分と勉強に精が出ているようで良かった。殆ど毎日頑張っていますからね。」

 マスターも、こちらの人とは違うのだろう。彼の髪色、目、そして理をこえた出来事。御伽噺じみているというにはあまりに日常的な、それでいて確かな不条理。

「頑張れているのは、ここを見つけられたからですよ。」

 でも私にとっては全部些事だ。マスターはマスターの何物でもなし、それで十分だった。

「そうでしょうか?」

「マスター、私の集中が切れてから話しかけるでしょう。コーヒー出すタイミングもそう。」

「おや、ばれていましたか。」

 悪戯が成功したような顔をする。いつも笑っているけれど、本当によく表情の動く人だ。

「初回から気がつきますよ、私しかいないし。」

「此処に来られる人が滅多にいないのでね。」

「来られる人、ですか。」

 聞き返せばマスターは、ずい、とカウンターに身を乗り出した。紫の目が、光を受ける様につい息を止める。

「そう、目がいい人。線を越えることに恐れがない人。心が敏感な人。」

 嘘だろう。思ったけど、言わない。否定できるほど、私は自分を知らないから。

「此処に来られて、良かったです。」

 小さく呟けば、彼は笑みを深めた。差し出された三杯目のコーヒーを受け取って、手元に視線を落とす。まだ、広げた教材を再開する気にはならない。

「誰もいないところよりも、集中出来ますか?」

 今日はする作業もないのか、マスターはカウンターに身を乗り出したまま動かない。その距離になんの抵抗も覚えないほどには、私は此処にも彼にも気を許しているらしい。

「そうですね。誰もいないと、人恋しいので。」

「というと?」

「あー……なんていうか、会話がなくてもそこに誰かがいたほうが心地よく感じませんか?」

 人によるけど、と心の中で付け足す。家族がいる家では集中出来ないし、友人が隣にいる時も人によっては気が散ってしまう。

「集中しづらかったりしませんか?」

「マスターは、いてくれた方が集中できます。気が散ってしまったり、イライラしてしまう相手ももちろんいるけれど、貴方に対してそう思ったことは一度もないです。」

「それは、良かったです。」

「話しかけてくるタイミングも、そうですし。真剣に話したら、真剣に返してくれるでしょう。だから本当に話しやすいですし、救われていますよ。」

 手元のカップに目線を落としたままぼんやりと答える。珍しく返事がこないので、おや、と思って彼の方を見た瞬間。

 初めて、笑顔ではない表情を、見た。

 彼の驚いたような顔と目が合った直後、彼は目を逸らして口元を覆う。

「それなら、良かった、です。」

 あまりにリアクションが予想外で、なにか妙なことを言ったかと自分の言葉を反芻する。

「あれ、もしかしてこれ、私相当恥ずかしいこと言っていましたか?」

 マスターのことを言えないくらいには、口説き文句のようなものを並べてしまったような。いつもの落ち着きを取り戻した彼が、照れたように笑った。

「いつも何を言っても流されるので、ここまではっきり褒められると思っていませんでしたよ。」

「なんですか、いつも口説いているつもりだったんですか。」

 軽口のつもりで返せば、彼の目が泳いだ。

 なんだ、そうか。

 この世の理の効かぬところに立っていると思っていたが、壁を隔てただけですぐ近くにいたらしい。何も、こちらの人と違わない。

「マスターも、随分と人くさい顔が出来たんですね。」

「人とあまり変わりませんよ、僕は。少し違うところで生きているだけで。」

 呟くように言ったあと、彼は誤魔化すように、笑みを深めた。

「他の人と、変わりませんよ。」

 彼は、こちらの人じゃないとはっきり言うことを避ける。こうもあからさまなのに。

「持って回った言い方ですね。」

「今日の貴方は随分と口が回りますね。敵わない。」

 答えずにただコーヒーに口をつける。雨の音がした。

「雨、少し強くなりましたね。」

 窓に目を投げて彼に呟くと、すっかりいつも通りの飄々とした笑顔で彼は首を傾げた。

「泊まっていきますか?」

「マスター、それ誘ってます?」

「なんとでも。」

 黙って二人で外を眺める。人々はこちらを見向きもせずに、雨の中を進んでいく。

 足元を見る人。枠を好む人。心に覆いを被せた人。

「泊まるのは今度にしますよ。」

 素っ気なく返せば、声を上げて笑った美丈夫が、耳元で言葉を落とした。先程の様子が嘘のように、相変わらず気障な事をこともなげに言う。感化されたと認めたくはないが。

「奇遇ですね、私もですよ。」

 時刻は五時過ぎ。長針が真下に来たら真面目にやるから、今は。

 

【ソレダケデイイ】


 この時期にしては暖かい日が続いていた。一ヶ月ぶりにその扉を押し開けた先週から、再び毎日カウンターでコーヒーを飲んでいる。広げるものはテキストから書類に。持っていた荷物はリュックからショルダーバッグに。あと少しで制服を脱ぐ実感はないけれど、時間は過ぎる。息を吸って吐くだけで、前へ。

「マスター、眼鏡。すみませんでした。」

 ドアを開けながら言えば、彼は口の端を上げた。眼鏡がないからかいつもより目が細められている。

「いいですよ、そんなに困りませんし。」

「ちょっと使わせてもらいました。見やすくてびっくりしましたけど。」

「その子はかけた人に合わせますからね。」

 差し出された自分の眼鏡を受け取って、カウンターに腰を下ろす。まったく、眼鏡に意思があるような言葉を流せる程度にこの店に染まりきってしまった。

「これ、どこに置いてました?」

「横の机に。」

 カウンターの奥の部屋を指さしながら彼は答えた。

「僕も並べておいたので、間違えたのでしょう。朝は時間が無くてバタバタしていましたし。」

「久々だったんで起きるのがしんどかったんですよ。」

「へぇ?」

 楽しげなマスターを軽くはたいてから、鞄から書類を出す。

「ああそう言えば、改めておめでとうございます。結局落ちたのは一校ですか?」

 受験は、終わった。報告は一週間前に済ませたが、しばらくぶりに他愛もない話に花を咲かせていたために、彼から祝福されたのはこれがはじめてだった。改めて、ああ終わったのだなと思う。

「はい。確定ガチャ、流石ですね。」

「結局もう少し難しいところにも受かれたのですから、あなたの力でしょう。そこに行くことに?」

「そうですねぇ、第一志望は落ちましたけど。」

 先生は祝福とともに慰めの言葉をくれたが、むしろ彼女の方が悔しがっていた。本当に応援されていたんだろう。どこでもいいと思っていた私はなんと返すのが的確かも分からず、曖昧に微笑むにとどめた。

「嘘ばっかり。第一志望なんてどこでも変わらないと思って、きっと一番偏差値の高いところを書いておいたんでしょう?落ちてもあまりへこんでいなさそうだ。」

「あはは、ごもっともで。」

 高校生から大学生へ。上面ばかりが成長していく。

 前へ、前へ。

 相変わらず一点を見つめられない私は、押し流されながらぼんやりと周りを眺めている。だから此処に踏み入れられるのだろう。

「そういえばマスターって、一体何歳なんですか。」

「そうですね、大体店を開いてからは十年くらいたちますかね。」

「で、何歳になるんですか。」

 マスターはカフェラテを差し出しながら、ニッコリと微笑んだ。

「おそらく、二百、いや百七十くらいかな?」

「どうしよう、冗談に聞こえません。」

「あはは、嘘です、一応二十四ですよ。」

「いや十四で店出してどうすんですか。矛盾だらけですよ。」

 お互い何も知らないのに、気がついたら並んで立っていた。そこにいるという確信だけで、なんの戸惑いもなく並び立っているのだから、やっぱり変な人だ。私も、マスターも。

「ねぇ、そんなに長く生きていて嫌にならないんですか?」

「いいことも多いですよ。稀に貴方のようにお店に入って来てくれる方もいらっしゃいますしね。」

 長生きは否定しないのかよ、と心の中で突っ込む。

「私の他にも?」

「以前大学生の男の子が一人。その子は引っ越してしまいましたが。」

「引越し、ですか。そう考えると、大学はここから遠いですから、私も通いづらくはなりますね。」

 他の人にどう見えているかは分からない。でも、このカフェはここに建っている。魔法でもなんでもなく、ただ私たちの理と離れて。どこにいてもすぐにここに来られるなんて都合のいい話はない。まぁ、あってもおかしくなさそうな気もするが。

「無理せず来てくれればいいですよ。いつでもお待ちしておりますから。」

  頷いて、カップを持ち上げる。通算何杯目か分からないカフェラテは、やっぱり美味しい。

「さっきの話ですけど。」

「はい?」

「貴方と出会えただけで僕の長生きが報われた気分です。これから長生きする理由も出来ました。」

 きざな言葉に多少免疫はついたとはいえ、いまだに突然浴びせられると動きが止まってしまう。相変わらずの台詞に肩を竦めてみせた。

「さらっと恥ずかしいこと言いますねぇ。」

「本心ですから。」

 よく分からない敗北感にカフェラテを飲み干す。ふと目が合って、一つ大切なことを思い出した。

「あ、そういえば。」

 いや、本当に変わっている。私も彼も。それでいいと思うけれど。

「なんですか?」

「マスター、私達お互いの名前も知りませんね。」

「おや本当だ。」

 そこにいるという確信だけでこんなところまで来てしまった。それがありえないくらい、楽しい。多少順番が間違っていても、まぁいいじゃないか。やっと吸って吐けた息で、二人して笑った。

受験期真っただ中に書いたのでテンションおかしめな後書きがついてました。供養に乗せておきます。(個人特定できないよう一部変更)

***

いえーい3年生でーす。三年でまだ書いてんの私だけじゃね???夏休みにこれに3時間くらい捧げてる受験生って控えめに言ってやばくね?知ってたわ。

ちょっと真面目に言い訳するか。


受験生の感覚。一年間実るかもわかんねぇ終着点まで好きなことちょっとずつ我慢して勉強して勉強して……っていう感覚。書き殴りでも残しておこうと思ったの。

知りたくないことでも興味無いことでも、知りたい事や、やりたいことを勉強するために、勉強しなきゃいけない。

いや、本来はそういう目的のためなんだけどもね。私は大学いくか就職するか専門行くかとかすごく悩んでる(今も決まってないんだぜ、やべぇだろ。)し、それでも何となく、行った方がいいんだろうなって社会圧力に負けて大学を目指してる。将来のためとかいうパワーワード掲げて、行きたいのかよく分かんない学校を目指して一年を捧げてる。まぁ捧げきれないよ。やっぱり。がむしゃらに頑張れてるみんなより1歩遅れてランニングしてると、もうなんか新興宗教かよって思えてくる。でも列は外れらない。いやぁ私も立派な信者なんです。他の選択肢を選ぶ人が羨ましくすらなる。自分でやるって言ってんのによ?面白いよね。

これ、どっかの大学受かって次の一年が始まったら、あの時頑張ってよかったとかあれはあれでいい思い出とか、そうやって良くわかんない美化された枠に整理整頓されていくんだろうなって自分でもわかる。だから、今のうちにどうしても曖昧な気持ちを書いておきたかった。

高校三年で勉強しない奴は一生勉強しないとかいう人もいるんだよ?ふざけんじゃねぇって話だよね。でも受験頑張ってるってことが何かの力で素晴らしいことに置き換えられているんだよ。受験生も自分のしたいことをしたいようにやっているだけのはず。頑張りたいことが勉強だったら素晴らしい。頑張りたいことが他の事だったら?好きなことが勉強じゃなかったら?気がついたら大学行きたくない人も受験生になっていたりする。そして受かったから、第一志望の欄に書いた大学に受かったら、良かったね、と祝福されるんです。

この冊子を読んでいる人、殆どは私の後輩でしょう。私は卒業するまで、いわば君たちにアドバイスを送る大人になるまで、あと半年ほど執行猶予があります。だから自分のやりたいことをやれということは言わない。

大学に行きたくなければ行かなくていいんだよ、やりたいことを見つければ卒業後どうするかはあなたの自由だ。

そう言ってくれる人は、君たちの未来になんら責任をもってくれないから。

私と同じ迷子の人が、私と同じ宗教に入信するなら、私はせめてその人にとってのマスターになりうるようにはしようと思う。やっぱり愚痴を言えないとしんどいから。

私にはマスターとなりうる助言者はいない。でも目標を見つけた幸運な隣人にエールをおくりながら、一緒にランニングしている信者と大声で愚痴を叫びながら、なんとか最後尾にくっついていけてる。

目標を見つけた幸運な君は、誰がなんと言ったってそれでいいさ。自分の未来には自分しか責任を持てない。目標を見つけてない君は?何となく大学に行くこと、私は推奨しないけど非難しない。それもまた、一つの選択肢。

私は受験生です。将来のためとか言いながら、モラトリアム延長の切符をかけて、もう一息頑張ります。話が長くなったね。じゃあ、信者の務めで勉強しないといけないんで、このへんで。


2020.10.11 改訂

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― 新着の感想 ―
[一言] 店とマスターの正体は……聞くのは野暮ってもんですね 神頼みは神を信じてなくても一応やる 日本人ってそんなもの 初詣にお盆にクリスマス
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