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いつからだっただろうか。日常を繰り返していく度に僕は深い水底にいるように自由に動くことができなくなっていた。こうなりたい、こうしたいという想いは募るばかりで理想の自分は遠ざかって行ってしまう。だから願っていたのかもしれない。この変わらぬ日常を壊してくれる展開ってやつを。環境さえ変われば僕もまた変われるのだと、そう信じていた。何の根拠もないというのに。自らの力で変えようと努力しない者に変われる機会など決して訪れはしないというのに。それを僕が知るのはまだ先だった。
後悔や反省はまたの機会としよう。いつものようにつまらない授業が終わり、帰りの支度をしている時だった。ザザ…と深夜のテレビが流れない時間帯に映る画面のように掠れるような波音が一瞬聴こえた。
「ん、何だ?」
『おめでとうございます。あなたは“勇者陣営”に選ばれました』
それは確かに聞こえてきた。脳に響くような不思議な聞き取り方ではあったが、確かに僕は誰かに話しかけられた。辺りを見回すと他の生徒も似たような挙動を取っている者がいる。ほとんどの者が帰るか部活動に行ったとはいえ教室に一つのグループと数人がいる。周りの様子を探っているとある女子と視線が合った。彼女は教室に残る中でもクラスの中心的人物で、今どき珍しい大和撫子を地でいく黒髪の綺麗な女の子だ。正直な話、僕みたいな日陰者には眩しくて遠い存在だ。いつもであったならばすぐに逸らす視線も変な声のせいでしばらく見つめ合ってしまった。
「あれどうしたのさやか?男子と見つめ合っちゃって。ってあいつ誰だっけ」
「茜ちゃんあいつじゃないよ。同じクラスの八雲君だよ」
「いやああたしって人の名前覚えるの苦手じゃない?仲良い子しか覚えられないんだよね。でも流石優等生のさやかだね。高校のクラスメイトの名前まで覚えているなんて」
「…茜ちゃん、八雲君は中学も同じだったよ。それに二年の時は同じクラスで茜ちゃんの隣の席だったんだけどな」
「あはは…そうだったっけ。まあそれは置いといて何で見つめ合ってたの?」
僕は彼女たちの会話が始まるとともに視線を逸らして机の上に置いた鞄を見ていた。彼女、皐月さやかさんはクラス内カースト最上位に位置している。逆に僕はクラス内カースト最底辺、もしくはあまりの存在感のなさに名前すらないのかもしれない。でも意外だった。皐月さんが僕の名前を覚えてくれていたなんて。中学の時も数回話した程度なのに。二人の会話をもう少し聞いていたい気はしたが、これ以上変に目立つのはまずい。いい意味でも悪い意味でも皐月さんと橘さんの二人は目立つ。彼女たちの会話も必然と他の生徒たちに注目されてしまうのだ。
面倒なことになる前にこの場から立ち去ろう。僕は極力目立たないように鞄を持ち席を立ち教室を出ようとした。
しかし、扉は開かない。誰かの悪戯か、と一瞬思ったがつい先ほどまで何人かの生徒が開け閉めしていたのは見ている。なら故障かといえば確かに校舎は古びてきていて扉のスライドが鈍くはなっていたが、そもそも僕は扉の取っ手にさえ指が引っかからなかったのだ。僕の目がいかれているのか。取っ手の上には確かに自分の手がある。けれど僕の手は滑るかのように取っ手を掴めないでいた。触れた扉のひんやりとした感触だけはあるのに、これはいったい…。
『“魔王”を見事に撃ち滅ぼし、この世界に平和をもたらしてください』
そして聴こえてくる声、勇者やら魔王やら演劇部の練習でもしているのかと馬鹿なことを僕が考えていると教室に真っ白な閃光が満ちた。ジェットコースターで感じるふわっとした滞空を得るとともに僕の意識は途絶えた。
『あなたの役割“ロール”は“村人”です』